存在理由(If) 〜兎と神の遣い・前編〜 (H:小説 M:九峪・兎音・兎奈美・兎華乃 J:シリアス)
日時: 03/24 23:10
著者: Ken

(*)
   本作は先に出した『存在理由』や『存在理由(If) 〜囚われた心〜』とは、関
   係ありません。

   『存在理由If』は、復興後『自分の存在意義を失った九峪』のストーリーです。
   それぞれ『独立した』作品であり、共通するのは三つ。

   1.主人公が九峪だということ
   2.復興後であること
   3.傷ついた九峪が立ち直る、シリアスな話(基本的にハッピーエンド)だということ

   以上の三つをコンセプトに、ヒロインを変え、シリーズにしたいと考えております。

   志野、珠洲ときて、今回は兎姉妹。それでは、お楽しみ下さい。














          存在理由(If) 〜兎と神の遣い・前編〜












 深緑に染められた山々の谷間に、小さな畑が段差状に連なっていた。

 辺りを覆う山の斜面は、まさしく自然が織り成す高い防壁。

 それはまるで、人の世から隔離された、庭のようにも見える。

 誰も来る事のない、阿祖の山中。

 そんな場所に、あの英雄はいた……。  


 ◇


「ふ〜……。疲れた〜」

 土色の畑の真ん中で、白いシャツを着た青年が、鍬(くわ)を片手に、額の汗を拭って
いた。

 典型的東洋人の顔をした、二十歳頃の彼の名を、この九洲で知らない者はいない。

 ――九峪雅比古。

 一年前、耶麻台国――いや、耶麻台共和国を完全復興させた、英雄である。

 もっとも、土のついたシャツやズボンは小汚く、日よけのための麦わら帽子を見る限り、
普通の農民にしか見えなかった。

 九峪は鍬を杖のように地に付け、頂点に顎を乗せて休憩している。

 目の前に広がる、こげ茶色の地面は、すべて九峪自身が、掘り起こし、ならしたものだ。

 縦横10メートルにも満たない、小さな畑だが、個人でやり遂げたものというのは、な
んであれ嬉しいものであり、九峪の顔も自然と綻ぶ。

 まさか自分が畑仕事をするなんて夢にも思っていなかっただけに、なおさらだ。

「でも、不思議と気持ちいいんだよな……」

 疲れた肉体とは裏腹に、顔には笑みが浮ぶ。

 吹き抜ける高山の風は清清しく、汗ばんだ身体を心地良く冷やしてくれた。

 そんな、春の日差しを満喫しているときだった――

「やっほ〜。九峪さ〜ん」

 ちょっと抜けた明るい声に、九峪が振りかえる。

 スキップするように歩いてくるのは、大きな兎の耳を頭に生やした女性だ。

 その後方では、同じく兎の耳を天に向かって伸ばした女性が、ゆったりと、どこか気だ
るげに、前の女性の後をつけている。

 一人は赤い目をしており、サラサラとした翡翠色の髪で、人懐こそうな笑みを浮かべて
いる。名を、兎奈美という。

 もう一人は兎音。対照的に青い目で、柔らかそうな金髪のカール。顔もこれまた対照的
に、無愛想というか、ちょっと目つきが悪い。

 どちらも汚い野良着を着てはいるが、顔もスタイルも良く、のどかな景色から浮いてい
る。

 それもまぁ、無理もない。

 二人は、魔兎族という高位の魔人なのだから。

「お〜。兎音に兎奈美か」

 名を聞くだけで震え上がるような魔人を前にしても、九峪は臆することなく、気さくに
手を上げて見せた。

「凄い汗だね〜。はい」

 兎奈美が手ぬぐいを投げ渡してくれる。それを上手くキャッチした九峪は、麦わら帽子
を取り、顔全体に布を被せた。

 その格好のまま、天を見上げて、やや疲れた声を出す。

「まぁな〜。かなり働いたぜ、俺?」

「あはは! この程度で自画自賛なんて、良い神経してる〜!」

 兎奈美の陽気な声に、九峪はムッとした顔を覗かせる。 

「お前に言われたくねぇよっ」

 九峪がむくれていると、やや遅れてやってきた兎音が、大きな胸をそらして、フンと鼻
を鳴らした。

「兎奈美の言うとおりだろ。いいか? お前の仕事量なんて、これっぽっちも期待してな
いんだ」

 兎音が顔の前で、親指と人差し指で隙間を作っている。その間は、一・二センチ程度で
ある。

「ぐ……!」

 九峪は言い返すこともできず、手ぬぐいをギュッと握り締めた。

「根性なしで体力のない下等な人間のやることだ。所詮、お前はその程度ってことだな」

「……ちくしょう。反論できねぇよ……」

 兎音の嫌味に、九峪は情けない声を返して、顔を伏せた。

 実際、人間の九峪がどれだけ頑張ろうと、兎音と兎奈美の仕事量や速さには、到底適わ
ない。

 それは、この一年でいやと言うほど思い知らされていた。

 さらに、兎奈美の嘲笑に煽られる。

「あはは〜! 無能、無能〜!」

「そう。無能だ。無能だから――」

 妹の嘲りに、兎音は強く同意を示して、そして顔を背けた。

「その……まぁ、なんだ……。無理するな。人間は脆弱だからな。すぐに壊れる」

 気恥ずかしげに言いながら、兎音は一切、九峪の方を見ようとしない。

「……? ひょっとして――」

「べ、別に心配してるわけじゃないぞ!?」

 九峪の疑問をかき消すように、兎音が慌てた声を上げる。

「お、お前が頑張ろうが、どうせ大したことないんだから、無理にやる必要はないって意
味で……」

「あはは〜! 兎音、照れてる〜! かっわいくな〜い!」

「な、なんだと!?」

 兎奈美に指さしで笑われた兎音が、顔を怒りに染めた。元々鋭い目をしているだけに、
睨むだけで、もの凄い威圧を放つ。

 が、肉親の怒りなんてどこ吹く風。兎奈美は身体を捻って、飄々と受け流す。

「冗談だってば〜! うん、今の兎音、すっごく可愛いよ〜」

「かわ――!? ば、馬鹿か、お前!」

 今にも飛びかかろうといきり立っている兎音を見て、九峪は苦笑を漏らした。

「どっちにしろ、怒るんだな、お前は」

「うるさい!」

 怒りに満ちた青い瞳が、九峪に向けられる。

「もとはと言えば、お前が弱いのが悪い! お前がしっかりしてれば、こんな余計な心配
しなくてすむんだ!」

「おいおい。今度は言いがかりを始めましたよ、兎奈美さ〜ん?」

 九峪は芝居かかった声を、兎奈美の耳元で囁かせた。もちろん、兎音にも聞こえるよう
に。

 同様に、兎奈美も赤い瞳を愉悦で揺らし、悪ふざけに乗ってくる。

「照れ隠しですよ、九峪さ〜ん。というか、ちゃっかり、心配したこと認めてるところが、
超ドジっこですねぇ〜」

「……お前ら……。死にたいらしいな……」

 兎音は目を細めて、九峪が持っていた鍬を掴み、掲げて見せた。

 これには九峪も、腰を引き、両手を前に突き出す。

「わ、悪かったって。……ありがとな、兎音。心配してくれて」

 最後は誠意の籠もった声で囁いてみせると、

「……ふん」

 兎音はばつの悪そうな顔で、鍬を放り投げた。顔を背け、なぜか腕組みをして、偉そう
にしている。

 そんな大人気ない姿が可愛くて、九峪も口元を綻ばせる。

「でも、大丈夫だって。俺だってもう大人なんだから、自分の限界くらいわかる。それに、
結構力ついてきたしな」

 グッと力こぶを作って見せると、能天気な声が浴びせられた。

「あはは! 貧相〜!」

 馬鹿笑いしている兎奈美の横では、落ち着きを取り戻した兎音が、腕組みをした姿勢の
まま、冷ややかな横目を見せる。

「その程度で自慢できるんだから、人間は不憫だな。いや、ある意味幸せなのか?」

「……ちくしょう……」

 九峪はやや顔を熱くさせて、腕を下げる。

 でも、悪い気分ではなかった。

 こうやって、対等――見下されてるような気もするが――な立場で、罵り合えるのは、
貴重だからだ。

 なんて幸せを実感していると、向こうから、もう一人の『兎』がやってくるのが目にと
まった。

「やっぱりここにいたのね……」

 可愛らしい声で咎めるのは、それに似つかわしい小柄で童顔の少女・兎華乃だった。

 兎音と兎奈美の姉であり、魔人の中でも最強と名高く、実質この辺りを仕切っているリ
ーダーでもある。

 もっとも、ウサ耳さえなければ、誰が見ても、農民の娘にしか見えないが。

「ね、姉様……」

「あはは〜。見つかっちゃったね〜」

 兎音はやや怯んだ顔で、兎奈美は無邪気な笑みで、姉を出迎えた。

 自分の胸部にも届かない低身長の子供に、二人が『姉』と言う姿は、何度見ても違和感
があった。

「まったく……。自分の仕事サボってこんなところで……」

 兎華乃は腰に手を当てて、藤色の髪の隙間から、丸い瞳を覗かせる。

「九峪さんが好きで好きでしょうがないのはわかるけど、自分の仕事ぐらい片付けていき
なさいな」

「だ、誰が好きで好きでしょうがないって!?」

 体を前にして力一杯否定する兎音とは裏腹に、兎奈美は明るく肯定する。 

「はいは〜い。九峪さん、面白くて遊びがいがあるから、わたし大好き〜!」

 そういって、兎奈美は九峪の腕に手を回し、ぐっと引き寄せた。

 ほどけるわけもなく、九峪はされるがまま、力のない声を漏らす。

「俺はお前の玩具かよ……」

「え? 違うの〜?」

 兎奈美は目をパチパチとさせていた。

「さも意外そうな顔は止めろ!」

「というか、くっつくな! 暑苦しいっ」

 割り込んできた兎音が、九峪と兎奈美を強引に引き剥がした。

 そんな三人の様を見て、兎華乃が嘲笑まじりに息を抜く。

「ふぅ……。若いわねぇ。それくらいで取り乱して嫉妬して……」

「嫉妬なんてしてない! 言いがかりをつけるのはやめてくれ、姉様!」

 兎音が指を突きつけると、兎華乃の目がすぅっと細くなった。

「あら……。じゃあなに? わたしは観察力のない女、もしくは嘘つきな女、とでも言う
のね?」

「う……」

 濁った声を上げて、上体を引く兎音に、兎華乃がグイグイと顔を突き出して詰め寄る。

「どうなの? 兎音? わたしが悪いの? ん?」

「ぐ……いえ……そんなことは……」

 兎音は気圧されるように、じりじりと後ろに下がる一方だった。

 兎奈美と九峪は、顔を見合わせ、

「一番虐めてるのは姉様だよね〜?」

「ああ。ありゃもう、趣味だな、うん」

「何か言った? 九峪さん?」

 顔の向きを変えた兎華乃を見て、九峪は肩をすくめて見せた。

「い〜や。なぁんにも。それよりさ。お腹空いたよ。ついでだし、休憩にしてご飯食べよ
うぜ」

 九峪の提案に、兎華乃も似たように肩を上げて、

「だって。よかったわね、兎音。今回の逢引は、黙認してあげるわ」

「逢引、逢引〜!」

 兎華乃のからかいに乗るように、兎奈美がはやしたてる。

「違うって言ってるのに……」

 さすがの兎音も、兎華乃には逆らえないらしく、ブツブツと小声で文句を言っている。

 なんか、ちょっとだけ可哀想に思えた九峪は、苦笑交じりに兎音に声をかける。

「ははは。兎華乃には勝てないな」

「……! やっぱりお前のせいだ! お前の!」

 顔を不機嫌に変えた兎音が、九峪の頬をギュッと両手で引っ張る。

「いでででで! なんれらひょ!(なんでだよ!)」

 ちぎれそうな痛みに、九峪は必死で兎音の腕をタップした。

「そこ。夫婦喧嘩してないで帰るわよ」

「「夫婦じゃない!」」

 開放された九峪は、兎音と声を合わせて、兎華乃に吼えた。

「じゃあ、わたし愛人〜!」

 終始ケラケラと笑っていた兎奈美が、元気良く手を上げた。

 それを見て、兎華乃が微苦笑をもらす。

「兎奈美は素直ね。頭の弱い子にしか見えないけど」

「あはは!」

 兎奈美は他人事のように笑っていた。兎華乃の言っていることも、あながち間違いでは
ないかもしれない。

「褒めてないわよ。でもまぁ、誰かさんみたいに、意固地になるよりはいいかしら」

 でも、そんなお馬鹿な妹を見る兎華乃の瞳は、呆れつつも、どこか暖かみがあった。

「ねぇ? 兎音」

「知りませんよ……」

 姉のイジワルな質問に、不機嫌そうに返す兎音であったが、本気で怒っていないのは、
顔を見ればわかる。

 結局、この三姉妹は、何だかんだ言いながら、強い絆があるんだなぁと、九峪は実感す
る。

 陽気な陽射しの中、そんな彼女達に囲まれて日々を遅れるのは幸せなことだ。

 それなのに……。

 けど――心の底から楽しめない、充実できないのは、きっと……。


 ◇


 ――神の遣いなら。九峪様なら。なんとかしてくれる……。

 そう謳(うた)われるようになったのは、いつの頃からだろうか。

 ――戦いだけが。敵を倒すことだけが。俺の全てじゃない……。

 そう思うようになったのは、いつの頃からだろうか。

 ――俺は、神の遣いなんかじゃない……!

 そう叫びたかったことが、何度あっただろうか。

 神の遣いだからこそ。常に結果を求められ。

 神の遣いだからこそ。応えなくてはいけない。

 皆が描く『理想の神の遣い』なら。

 物語に出てくる『強いヒーロー』なら。

 それを苦と思わないのかもしれない。

 だが……。

 神の遣いを名乗りながらも、九峪は『ただの高校生』の枠を出ることはなかった。

 いや――出たくはなかったのだ。

 現代に還るためにも、本当に神の遣いになることだけは、避けたかったのだ。

 でも、ただの高校生には、人の期待・人の命が、重すぎた。

 それでも頑張ってこれたのは――待っている人がいるから。

 戻るべき、帰るべき居場所があるから。

 だから、重圧という手枷・足枷に身体を縛られようとも、歯を食いしばって歩き続けた。

 自分の采配で――人を殺す罪悪感にも、潰されることはなかった。

 なのに……。

『ごめん。九峪……。君はもう……帰ることはできないんだ……』

 追い求めていた希望は、幻だった。まるで、砂漠の蜃気楼のように……。

 キョウの口から語られた真実は、九峪の心を砕くに十分な力を持っていた。

 目的を失った九峪には、もう歩く力はない。

 平和になった――永久ではないだろうが――耶麻台国で、これからなにをすればいい?

 火魅子がいる今。神の遣いはもはや必要はない。いてはいけない。リーダーは、一人で
十分なのだ。

 なら……『九峪雅比古』は? 『九峪雅比古』は必要なのか……?

 考えるまでもなかった。

 ここは異世界なのだ。『ただの高校生』が本来いるべきではない世界だ。

 今まで存在を許されたのは、神の遣いという肩書きがあったからである。

 変身しない変身ヒーローなど、誰も期待しちゃいない……。

 それと同じなのだ、きっと……。

 神の遣いは、存在力が大きすぎて。

 九峪雅比古は、存在に意味がない。

 だから、九峪は耶麻台国から姿を消した。

 耶麻台国に、九峪雅比古の居場所がないなら……。

 どこかに出て行くしかないのだから……。

 でも、どこに行こうと、九峪が異世界人であることには変わりはない。

 九峪の居場所はどこにもない――そんなときに出会ったのが『同じ異世界人』だった。

『わたし達と一緒に行く?』

 兎華乃の不敵な笑みに迎えられて、九峪は笑った。

『類は友を呼ぶ。異端は異端を呼ぶ、か……』

 本来、人間界にいてはいけない魔人……。

 魔兎族三姉妹に、九峪は共感を覚えた。種族は違えど、境遇は同じだったから……。

 そうして今、九峪は阿祖の山にいる。

 田畑を耕して、自給自足して……。

 いわば、隠居生活だが……実に居心地がいい。

 ここでは、誰も『神の遣い』として九峪を見ない。

『変な人間』『すけべな人間』として、見られる。

 それもどうかと思うが……一般の人間として、九峪は過ごすことができる。

 それが、本当に嬉しかった。

 だけど……。


 ◇


「あれれ〜? 九峪さん、なにボ〜っとしてるの〜?」

「え?」

 兎奈美の声が、九峪の意識を現実に戻す。

 顔を上げた九峪の目に映るのは、木造建築の小さな小屋の内部と、置かれた質素なお昼
ご飯。

 九峪が視線を横にずらすと、呆れた顔の兎音と目が合った。

「馬鹿面してたの、気づいてなかったのか?」

「あなたはそれに、ずっと見惚れてたの、気づいてなかったの?」

 口を挟んだのは、九峪の正面に座る、兎華乃である。

 図面としては、九峪と兎華乃、兎音と兎奈美が対角になるように、ひし形を象って座っ
ている形となる。

「み、見惚れてなんかない!」

 他人の慌てぶりをみると、自然と落ち着くというか。

 虚を突かれていた九峪も、兎音の様子を見て、苦笑交じりに、

「なんだ、兎音。俺の顔なんか見たいのか? いくらでも見せてやるぞ?」

「……調子にのるなよ……?」

 兎音にギロリと睨まれて、九峪は亀のように首をすくませる。

「……すまん……悪かった……」

「じゃあ、わたしが見る〜!」

 斜め横に座っていた兎奈美が、九峪の顔を掴み寄せる。

「お、おいおい……」

 倒れそうなところを、九峪はすんでのところで手をついて堪える。

「九峪さんって、目が綺麗だよね〜」

 兎奈美はグッと顔を近づけて、両手で挟んだ九峪の顔を、じぃっと覗き込んでいた。

 息が触れ合うくらいの距離に、美女の顔がある。しかも、ちょっと目線を下げれば、凄
いボリュームの胸が見えるということに、九峪の鼓動も早くなる。

「そ、そうか?」

「うん」

 屈託のない、無邪気な笑みで言われては、九峪に解くこともできず、ただ身を任せるし
かない。

 困ったように目を横に転ばせると、楽しそうな兎華乃の笑みが窺えた。

 彼女はからかうように、兎音に語りかけている。

「あら? 邪魔しないの、兎音?」

「それでまたからかう気でしょう? 姉様の考えてることくらい、わかりますよ。という
か、どうでもいいし」

 兎音は不機嫌そうに応じている。時折見せる、九峪への視線が、とても痛々しい。

「まぁ、そうだけど――あ……」

 兎華乃の声が止まる。兎奈美が、九峪に唇を重ねたからだ。

「あぁぁぁぁ!」

 兎音が声を大にして立ち上がった。

 一瞬何が起こったか理解できず、固まっていた九峪も、兎音の大声で我に返り、身体を
引く。

「な、なにするんだよ!?」

 まだ感触の残る口元を抑えて、九峪は吼える。まだ、心臓がドキドキしているのを感じ
ながら。

 が、とうの本人はまったく悪びれた様子もなく、小首を傾げている。

「え? なんとな〜く」

「なんとなくじゃない!」

「でも、人間って、好きな人と唇を重ねるものなんでしょ〜?」

 熱い視線を交えて、ぐっと身体を寄せる兎奈美に、九峪は勢いをそがれ、身体を引いた。

「お、おう……」

 九峪の肯定に、兎奈美はまた、快活とした笑みを浮かべる。

「わたしは、九峪さん好きだから、問題なし〜」

「あるわ! 俺の意思はどうなんだよ!?」

「どうなの? わたしのこと、嫌い〜?」

 またも、前のめりに顔を近づけられ、九峪は困り果てる。

「い、いや……好きだけど……」

「じゃあ、いいじゃな〜い!」

 まるで、OKを貰ったかのように、兎奈美は遠慮もなく九峪に抱きつく。

「そ、そうなのか……?」

 兎奈美の無邪気な好意を感じていると、真面目に受け答えしている自分が馬鹿みたいに
思えて、九峪は拍子抜けしてしまった。

「モテモテね、九峪さん」

 兎華乃は助けるはずもなく、拳を口元に添えて、クスクスと笑っている。

「ふん。何しようと勝手だがな。目障りなんだよ。外でしてこい」

 兎音は逆に、苛立った声で、九峪と兎奈美をねめつけている。

 ――が、そんな皮肉が、兎奈美に通用するわけもない。

「え? 遊びに行っていいのぉ? ありがとねっ」

「って、おい!」

 九峪の制止を聞こうともせず、兎奈美は九峪を担ぎ上げると、そのまま外に走り出した。

「そういう意味じゃない――って、まて、こら! 昼の仕事サボる気か!?」

 意表を突かれた兎音も、ワンテンポ遅れて、二人を追いかける。

 一瞬の嵐のような出来事を前に、取り残された兎華乃が、ふぅ、とため息をこぼす。

「……ご飯のときくらい、静かにできないのかしらね、ほんと……。でもまぁ……」

 だが、その愛しむような笑みは、とても微笑ましい。

「このくらい明るい方が面白いわね……」

 兎華乃はわかっている。

 この明るさは、九峪がもたらしてくれたものだと。

 そして――

 それが永遠でないことも……。




                                    <続く>


                             2006/03/24 by Ken


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