存在理由(If) 〜兎と神の遣い・中編〜 (H:小説 M:九峪・兎音・兎奈美・兎華乃 J:シリアス)
日時: 03/27 00:50
著者: Ken

          存在理由(If) 〜兎と神の遣い・中編〜




 昼食後、九峪を捉え、脱走を謀った兎奈美は、彼を抱えたまま、山の中を走りまくって
いた。

 時間にして、大体半時間ほどだろうか。

 木々の隙間から洩れる木漏れ日の中で、兎奈美は二度・三度と辺りを見回した。

「ん〜? 撒いたかな〜?」

「かな〜? じゃねぇ!」

 怒り声に、兎奈美は視線を落とす。脇に抱えた九峪が、眉を傾けていた。心なしか、顔
色が悪い。

「どこまで爆走してんだよ、この暴走バカ!」

「なに怒ってるの〜?」

 むぅ、兎奈美は唇を尖らせる。

 怒られるのは好きじゃない。特に、九峪に怒られるのはいやだ。

 離せとばかりに、九峪に腕を掴まれ、兎奈美は彼を解放する。

「食べた後に、高速で揺さぶられれば、誰だって――おぇ……!」

 九峪は腰を曲げ、両膝に手をついて、汚い声を漏らしている。実際に吐き出してはいな
いが、その顔は頼りなく歪んでいた。

「九峪さん、きたな〜い!」

 兎奈美は声高々に笑った。

「お前な〜……!」

 中腰の姿勢で、声を低く震わせる様も、やっぱり面白い。

 九峪は何をやらせても面白いから好きだ。

「でも、楽しかったね〜」

「んなわけあるか! 死ぬかと思ったわ! アホ!」

 兎奈美は嫌味でもなんでもなく、兎音との追いかけっこが楽しかったのだが、九峪はそ
うは思わなかったようだ。

 でも、大げさだと思う。

 大木から大木に飛んだり、崖から飛び降りたり、逆に崖を駆け上がったぐらいだ。

 いわれのない非難を受けた兎奈美は、ぷくっと頬を膨らませてみせる。

「だって〜! 兎音と一緒だと、九峪さん、取られちゃうも〜ん」

「だ〜か〜ら〜。俺はお前の物じゃないって」

 大分、胃の中が収まったのか、九峪が背筋を正し、半眼で睨んでくる。

 兎奈美は気にせず、

「それにさ〜……」

「無視かよ」

「これくらい余裕ない方が、いろんなこと考えないですむと思うけどな〜」

 強引に九峪を無視して、兎奈美は心中を明かす。

「……お前……」

 九峪は意外そうに、黒い瞳を、波紋のように揺らしている。

「最近、九峪さん、また考え事する時間多くなったも〜ん。つまんな〜い」

 兎奈美が唇を尖らせると、九峪は気まずげに視線をそらした。

「……そうか?……まぁ……そうかもな……」

 畑仕事に慣れていないときは、それが精一杯で、他に考えてる余裕がなかったように思
える。

 最近は仕事にも慣れてきて、考える余裕が出てきたのだろう。

 その考えていることが、兎奈美は何となく気に食わない。だから――

「仕事量2倍にしよっか?」

「……殺す気か」

 最近では自信をつけてきた九峪も、さすがに顔を顰めている。

「だって〜。つまんないも〜ん」

 兎奈美は腕を背中に回して、クルッと身をひるがえす。

「切ない顔の九峪さんもいいけど〜……。わたしはやっぱり、前みたいに、すけべぇな顔
して、いつも笑わせてくれる九峪さんの方が好きだな〜」

「お前の俺に対する評価は、そんなものなのか?」

「好きには違いないでしょ〜?」

「素直に喜べねぇ……」

 九峪の困った顔が楽しくて、兎奈美も笑みを取り戻す。

「九峪さんは、考えすぎだよ〜。もっと気楽に。肩の力を抜いていこうよ〜」

 実際に、兎奈美は九峪の背中に回り、肩を揉み解してみる。

 九峪はいろいろと考えすぎだ。というか、遠慮しすぎだ。

 兎奈美は九峪が好き。九峪も兎奈美が好き。

 理由は知らない。見たことないくらい不思議な人で、一緒にいると楽しい。

 いつも、兎奈美が予想もしない行動を取ってくれるし、知らないことをたくさん教えて
くれる。

 そう。こんな退屈な山奥にいても、九峪と話していると、彼を通じて、違う世界を感じ
るのだ。

『じどうしゃ』とか『ゆうえんち』とか『げぇむせんたぁ』とか。

 姉でも知らないようなことを教えてくれる。

 ただ――

 それらを話すとき、極たまに、九峪は陰りのある笑みを見せる。

 それが唯一の不満だろうか。

 そんな九峪の顔を見ると、彼との遠い距離を感じてしまう。

 姉は『九峪さんも、いろいろと思うことがあるのよ』と言うだけで、教えてくれなかっ
た。

 納得がいかない。好き同士、楽しく騒いで暮らせばいいではないか。

 笑って、ときには喧嘩して。感情赴くままに、やりたいことをやって。

 それは幸せなことではないのか。他になにがあるのだろう? なにを必要とするのだろ
う?

 なにを――迷っているのだろう?

 真意を探ろうと、九峪の顔を覗くと、彼は微かに笑った。

「お前は抜きすぎだろ。でもまぁ……そうだな……」

 九峪が空を見上げる。優しそうな瞳で。

「な〜んか。いろいろ考えすぎてたかもな〜」

 視界を戻して、兎奈美を見て微笑む。

「お前くらい、能天気になってみるのもいいかもな。たまには」

 ニカっとした笑みに、兎奈美も負けじと微笑み返す。

「そ〜そ〜。人生楽しくいかなくっちゃ〜」

「はは……。お前は人じゃないけどな」

「あはは〜。そうだね〜」

 九峪と違って、人じゃないけど、そんなことは些細なことだと、兎奈美は思ってる。

「九峪さん、ずっと一緒だよね?」

 兎奈美は願いを口にした。

 そう。それだけなのだ。兎奈美の想いは……。

「兎奈美……」

 九峪が息を呑んで、兎奈美を見つめ返した。

「難しいことはわからないけど〜。わたしは、ず〜〜〜っと、九峪さんと一緒にいるから
ね〜?」

「ずっと……?」

「うん。すけべぇで〜、ひ弱で〜、情けなくて〜、頼りなくて〜……」

 兎奈美が指折りしながら数えて行くと、九峪が困ったように頬をかく。

「はは……ひどい言われようだな」

「でもね〜。そんな九峪さんが、わたしは必要なんだ〜。一緒にいてくれたら、それだけ
でいいよ〜」

 兎奈美は無邪気に相好を崩した。

 汚れなき木漏れ日にも負けない、爽快とした笑顔を前にして、九峪は目を震わせている。

「……? どうしたの〜?」

 何だか九峪の様子が変なので、兎奈美は顔を前に突き出して、彼の顔を覗き見た。

 すると九峪は、弾かれるように、顔を俯かせ、

「……ったく。バカのくせに、泣かせるなよ……」

 嗚咽交じりの声が、食いしばった唇から洩れる。

「なんで泣いてるの……?」

 兎奈美はきょとんとして、目をしばたかせる。

 何かいけないことでも言ったのだろうか。

 九峪の笑顔は好きだけど、涙は嫌いだ。彼が泣くと、こっちまで悲しくなってしまう。

「ごめんね〜。本当にばかだよね〜、わたし……。謝るから、泣かないで〜」

 シュンとして謝ると、突然九峪が抱きついてきた。

 九峪の顔が、すぐ隣にあるが、横顔しか見えず、表情まではわからない。

 わからないが――やっぱりまだ泣いているのがわかった。

「九峪さん……?」

 何が何だかわからず、兎奈美は彼の体温を感じながら、ボンヤリとした声を返す。

「なんでもない……なんでもないから……」

 そう言いながら、九峪はさらに強く、兎奈美の背中に回した両腕に力をこめた。

 あんまり痛くはない。それどころか、よくわからないけど――

 とても心地良かった……。


 ◇


 昼は陽気な阿祖の山も、夜となればグっと気温が下がり、肌寒くなる。

 にもかかわらず、九峪は何をするでもなく、自分が耕した田畑の前で、悠然と立ち尽く
していた。

 草木も眠る深夜に、そんなところで何をしているのか。

 微かな虫の音が流れる中、兎華乃はゆっくりと、九峪のもとに歩み寄る。

 人工的な明かりは何一つないが、今宵は満月。雲一つ見当たらず、星々が輝かしい光を
放っているため、何も見えないというほどではない。

 もっとも、普通の兎もそうだが、魔兎族である兎華乃は夜目が利くので、真っ暗であろ
うとなかろうと、歩行に何の問題もなかった。

「どうしたの? こんなところで。身体冷やすわよ?」

「……? 兎華乃か……」

 来訪者に驚いた様子もなく、肩越しに振り返った九峪は、また視線をもとに戻した。

「月が綺麗だろ? なんか、寝るにはもったいないなぁって」

「そうね。狼でなくても、こんな夜、魔人は体が疼くわ。けど……」

 兎華乃は九峪の横に立ち、軽く冷やかしてみる。

「九峪さんに月見なんて、似合わないわよ?」

「うるさいな……」

 いつもみたいに大人気ない仕草ではなく、今の九峪は落ち着いていた。

「……起こしちゃったか?」

「あのね……」

 兎華乃は鼻から息を抜いて、明らかに呆れて見せた。

「いくら戦いから遠ざかってるっていっても、九峪さんの気配に気づかないほど、神経鈍
ってないわ」

 そもそも、あんな小さな小屋に、四人がすし詰め状態で寝ているのだ。よっぽど鈍い奴
でない限り、誰かが動けば目が覚める。

「ってことは……」

「他の二人も気づいてるでしょ、そりゃ」

 被せるように、兎華乃が後を継ぐ。

 それもそうか、と言わんばかりに、九峪が小さく頷いた。

「そうだな……。でも、そのわりには、何も言ってこないな。特に、兎奈美なんて、はし
ゃぐと思うが」

「そうね。まぁ、バカな妹達だけど、バカなりにいろいろと気を使ってるのよ?」

 もちろん、兎華乃が九峪を追って行ったのも気づいているはずだ。

 それでも、妹達は何も言わず、兎華乃を行かせた。

 困ったとき、大一番は、姉に任せようということだろう。

 九峪が不思議そうに眉をあげたのが、薄闇の中でも見て取れた。

「気を使ってる?」

「九峪さんに元気が出てきたのはいいけど、下手にちょっかいだして、出て行かれたらど
うしよう、ってね……」

 まぁ、兎奈美はそこまで考えてはいないだろうが、漠然といやな雰囲気を感じているの
だろう。

「出て行くって……そんなわけないだろ? 俺に、行く場所なんてないよ」

 九峪は軽く笑い飛ばしているが、生憎と兎華乃は笑う気にはなれなかった。

「でも『帰る場所』はあるでしょ?」

「……耶麻台国のことか?」

 気持ちを切り替えるように、九峪が息を静めるのがわかった。

「……ないよ。俺の居場所なんて。俺が帰っても、邪魔なだけさ……」

 その声はとても寂しげで。

 聞くものの心を締め付ける。

 抱きしめてあげたいような衝動を抑えて、兎華乃はあえて、彼の心に踏み入る。

「そう思い込むことで、逃げてない?」

「……。誘ったのはそっちだろ?」

 逃げ、という言葉にひっかかったのか。九峪の声には、若干の不満が滲んでいる。

 やっぱり、こういうところはまだ年相当だな、と兎華乃は微笑ましくなる。

「別に悪いなんていってないでしょ? ときには、気分転換も必要なんだし」

「気分転換、か……」

 九峪が、目の前の畑に目を移す。彼なりに、意義のある作業だったのではないだろうか。

 例えそれが、自分の役割・役目を誇示するためのものであったとしても。

「いい休暇になったんじゃない?」

「……そうだな。前に比べると、大分落ち着いたよ」

 言葉どおり、九峪の声は夜露のように澄んでいる。

 当時の九峪は随分と荒れていた。荒れていたというより、塞ぎこんでいた。

 元の世界に帰れないことが、よほど応えたのだろう。

 その気持ちはわからないでもない。

 兎華乃はそれほど魔界に愛着があるわけでもないが、やっぱり自分がいた世界に帰りた
いと思うことはあるからだ。

 大人の自分と違って、まだ子供の九峪には辛い現実だっただろう。

 だからこそ、自分たちが阿祖に帰るときに、誘ってみたのだ。

 まさか、本当に来るとは思わなかったが……。それだけ追い詰められていたということ
だろう。

「で。心の傷は、いつになったら癒えそう?」

 兎華乃の問いに、九峪は一拍間を置く。

「……。さっさと出て行けって言いたいのか?」

 そんな悲しげな声で言わないで欲しい。まるで、こっちが悪者みたいだ。

 だから、兎華乃も声に暖かみを持たせる。

「そんなことないわ。あの子たちほどではなくても、わたしもあなたのこと好きなのよ?」

「……ず、随分とあけすけだな……」

 九峪が首筋をかいて、視線を彷徨わせている。

 そう。それでいい。そんな九峪が、一番似合っている。

「素直じゃないのは、兎音くらいよ。ま、兎奈美と一緒にされたくもないけど」

 さすがに兎華乃も、あんな恥じらいもムードもない奴と一緒にはされたくなかった。

「そりゃ、ね……」

 兎華乃は腰の後ろに両手を回して、顎を上げた。星空に向かって、息を細める。

「わたしだって、できれば、ずっと一緒にいたいわ……。けど、そう上手くはいかないで
しょう?」

「なんで? 俺は、あんた達が許す限り、一緒にいるつもりだけど?」

 嬉しいことを言ってくれる。許すも許さないもない。けど――

 兎華乃は腰を折り曲げて、下から見上げるように、九峪の顔を覗き込む。

「本当に? 心の底から?」

 兎華乃の追求に、九峪は何も言えず、ただ顔を背けるだけだった。

 兎華乃は苦笑交じりに、背筋を戻す。

「ほらね? あなたも心の底では、耶麻台国に帰りたがってるのよ」

「……そんなこと言ってないだろ? 死線を潜り抜けた仲間がいるんだ。そんな簡単に忘
れられないさ……」

 そういって、九峪も夜空を見上げる。

 遠い向こうで、絆を確かにした仲間達に、思いを届けるように……。

 人間ってやっぱり不思議だ。肉親以外でも、こうやって想うことができる。

 でも、兎華乃も――きっと兎音や兎奈美も――徐々にそんな感情が芽生え始めている。

「別に無理に忘れなくてもいいじゃない。帰ればいいのよ。素直に」

 だから、こんな似つかわしくない台詞が言えるのだろうと、兎華乃は思う。

「なんだよ……。やっぱり帰らせたいのか?」

 拗ねた言い方が可愛い。兎華乃は眉を少しだけたわめて、

「どうせいつか別れるなら、ある程度のところで別れた方がいいと思わない?……なんか、
恋人の別れ話みたいだけど」

「はは。ロリコンにだけはなりたくないな〜」

 九峪の嘲笑が、兎華乃の顔にヒビを入れた。

「意味がわからないけど、とてつもなく不快だわ」

「ごめんごめん。けど、帰らないぞ、俺は。さっきも言ったけど、帰る場所なんてないん
だよ、もう……」

 そういってまた、九峪は遠い夜空を見て、切なげに目を細めた。

「仮にそうだとしても……」

 兎華乃もまた、同じように星空を見て、

「ないのなら、自分で作ればいいじゃない?」

「自分で?」

 こちらを向く九峪に、視線を絡ませる。

「居場所なんて、自分で作るものよ。わたし達だって、この世界にとり残されて、死にか
けたけど、今はこうして暮らしているわ」

 兎華乃が辺りを見回すと、九峪もそれに倣った。

「……たいしたもんだよな、ほんと……」

「ま、天目のお膳立てがあったんだけどね」

「他力本願?」

 九峪の指摘に、兎華乃はくすっと笑った。

「あら。いいじゃない。その代わり、天目の要求には応えているのだから。……助け合う
ことの大切さ――これ、わたし達が唯一、人間から教わり、共感できたことなんだけど?」

 人間――というより、主に九峪から教わった。

 力を合わせた――いや、信頼で結ばれた人間たちの力は強い。

 個の力なんて些細なものだ。一より二。二より三だ。

 個は集団に勝てない――兎華乃みたいな異常な者を除いて。

 昔はわからなかったが、復興した耶麻台国を見て、考えを改めざるを得なかった。

 だから、集団を作り、機能させる指導者が、結局一番強い。

 その理論で言えば、九峪が最強ということになる。

 でも、個の九峪は脆弱で、精神的にも脆い。

 そんなつり合いのとれていないところが、また魅力でもあった。

 そう魅力。

 九峪は魅力的だ。

 自分には理解できない価値観をもっていて、不思議とそれに感化されていく。

 兎音や兎奈美も、随分と九峪の色に染められている。

 耶麻台国が、九峪の色に変えられたように、妹達もまた……。

 兎華乃も例外ではない。

 燐光に包まれた九峪の横顔を見て、目を細める。

(ほんと、大した男……。このわたしが、人間なんかに夢中になるんだから……)

 だから、九峪を放っておけない。

 九峪は、神の遣いでない自分の意義を見つけようと苦しんだようだが、兎華乃にしたら
滑稽だ。

 九峪はただ、自分の本質を見失っているだけなのだから。

 九峪は今のままでいい。自然な九峪がいろんな人――いや、時代すらも刺激し、変えて
行くのだ。

 変化しない国は廃れるのみ。変化を求め、より向上してこそ、国なのだ。

 だから――九峪の貴重な価値観を、こんな山奥で消すのは、もったいないことなのだろ
う。彼はまだやれる。まだ世界に大きな影響を与えられる。

(なんて……。このわたしが、関係ない他人や時代なんかのために、自分の欲求抑えるな
んてね……)

 これもきっと、九峪の影響なのだろうと思う。

 それが良い方に傾くか悪い方に転ぶかはわからないが……。

 退屈な長い寿命の中では、嬉しい刺激だ。

「九峪さんが疲れてたようだからこうしてここに連れてきたのよ。ゆっくり考えてみなさ
いな。きっと見つかるわよ、自分の居場所」

「……ああ」

 まだ迷いのある返事だったが、適当な相槌ではないことだけはわかる。

「でもやっぱり人間は、人間と一緒になる方が自然だと思うわ。そして、あなたは耶麻台
国に――第二の故郷に帰るのが自然だと思うわ」

「……第二の……故郷、か……」

 感慨深げに言って、九峪は屈み、畑の土を手に取った。

 これも、九峪が自分の手で作り上げた、彼の居場所。彼の故郷なのだ。

 兎華乃は優しく、彼の肩に手を置く。

「あまり難しく考えない方がいいわよ。自分の気持ちに正直になるといいわ」

「兎奈美にも言われたよ。難しいこと考え過ぎって」

 肩越しに振り返ったときの九峪の顔は、最初に比べると、随分明るさが戻っていた。

「ふふ。その通りなんじゃないかしら?」

 悩むのはいいことだが、悩みすぎるのも体に悪い。

「……素直に……やりたいこと、か……」

「もし駄目だったら、また帰ってきなさい。幸い、あなたより先に死ぬことはないわ。あ
なたが生きているうちは、ずっとこの場所はある。ずっとね……」

 兎華乃にしてみれば、ここはもう、九峪がいて当たり前の場所なのだ。

「そっか……。少なくとも、この場所は……九峪雅比古を迎え入れてくれる場所なんだよ
な……」

 ギュッと、九峪が土を握り締める。

 あとは九峪の問題である。きっと、彼なりに、今度こそ自分と向き合い、答えを出すだ
ろう。

 あとは……。


 ◇


「なんだ、お前?」

 兎音が不審者を発見したのは、昼下がりのことだった。

 兎音の前には、挂甲に身を包んだ十数人の男たちである。

 突然、木の上から降ってきた兎音に、連中はみな目を大きくさせて警戒している。

 一応、ウサ耳は被り物で隠してはいるが……。

 ぶしつけに睨みつけていると、隊長らしき男が前に進み出た。

「あ……わ、わたくし、耶麻台国の使者のものです!」

 言われて見れば、挂甲には耶麻台のシンボルが見てとれる。

 ただの野盗なら、殺しておしまいだが……。

 面倒な相手が来たな、と兎音は眉を歪める。

「ふん……。耶麻台国の犬がいまさら何の様だ? お前達とは、もう関係ないはずだろ?」

 嫌悪感を出すように、声を重くさせると、隊長は怯んだ顔を見せた。

「あ、いえ。今回はその、協力要請とか、そういうものではなく……ただの調査といいま
すか……」

「調査?」

「皆様もご存知かもしれませんが……。神の遣いこと、九峪様が、一年前より行方不明に
なっております」

 内心の動揺を面に出さず、兎音は目で続きを促す。

「それで、耶麻台国は今現在も、総力を挙げて、九峪様捜索に当たっております」

「物好きな奴らだ……。あんなすけべ馬鹿のために……」

「な、何を仰るのですか!」

 兎音の憎まれ口に、隊長――それと、後ろで控えていた連中が、気色ばむ。

「九峪様は、偉大で聡明で……! 今以ても、我々の神として燦然と輝いているのです!」

「……それが余計なんだよ、馬鹿……」

 兎音は聞こえない程度に毒づいて見せた。

 これだから、人間は好きになれない。

 へなちょこばかりで、人に頼らざるを得ない。

 まぁ、それはまだいい。

 九峪は『協力し、信頼で絆を結ぶことこそ、最大の武器だ』なんて言っていた。

 それで自分が精神的にまいっているのだから、馬鹿な話だが、本人がそれでいいと思っ
ているのだ。

 九峪が馬鹿だろうと、不憫だろうと、兎音には関係のない話である。

 ただ、それを知らず、苦しめた連中が、いけしゃあしゃあと『九峪様〜』などと、我が
物顔で歌っているところをみると、思わず絞め殺したくなってくる。

「は?」

 兎音の心中を察することなく、隊長は口の開いたバカ面を見せる。

「なんでない。さっさと帰れ。ここに、そんな奴はいない」

 兎音が追い払うように手を振るが、隊長の男は、首を横に振る。

「あ、いえ。一応、探すようにとご命令を受けていますし……。ここは広いですからね」

「ここはわたしらの庭みたいなもんだ。侵入者がいれば、気づく。お前らみたいに、な」

「……しかし、一応ご命令ですので……」

「帰れ――って言ってるんだ……」

 苛立ちを声に籠めると、隊員達が全員息を飲み込んだ。

 さらに、付け加える。

「人の家に土足で上がられたら迷惑なんだよ。ゴミ風情が……」

「……何か、怪しいですね」

 眉を頼りなく下げながらも、隊長が首をかしげる。

「そういえば……九峪様がいなくなった日ですよね。あなた方の姿が消えたのは」

「何かご存知なのでは?」

「そうですよ。怪しいですよ」

 口々に声を揃え出したの見て、兎音は目元を歪めた。

 口うるさいザコほど、鬱陶しいものはない。

「わたしはな……気が短い……凄く……」

 ため息をつくように、兎音は静かに声を振るわせる。 

「自分で言うのもなんだがな……。おまけに冷酷だ。人を殺すくらい、何とも思わない。
お前らがアリ潰すのと同じくらいにな……」

 ニヤっと口端を持ち上げると、連中が一斉にあとずさった。

 兎音はトドメとばかりに、顔の前で尖った爪を光らせ、殺意を開放する。

「これ以上、わたしを煩わしてみろ……。その首――跳ね飛ばすッ」

 しばし、隊員達は絶句していたが――

 部下の手前か。隊長は顔色を悪くしながらも、果敢に反論する。

「……わ、我々に危害を加えることは、耶麻台国に反逆するとみなされますよ!?」

「反逆? 反逆だって? くくく……」

 兎音は額に手をあてて、声を震わせた。

 精一杯の反論が、そんなちっぽけなものとは……。本当、笑わせる。

「わたし達がいつ、お前達の仲間になった? ちょっと手助けしてやったからって、調子
にのってるんじゃないか?」

「て、敵対する気ですか? 我々と? 耶麻台国と!」

 隊長が震えた手で、腰の剣に手をやる。それを見た他の隊員も、彼に続く。

「やれやれ……。そんなに死にたいのか?」

 言いながら、兎音は、本当に殺してやろうかという気になっていた。しかし――

「なにやってるの〜?」

 ちょうどいいときというか、兎奈美がやってきた。もちろん、空高くから、飛び降りて。

「兎奈美か……。なに、大したことじゃない。わたし達の住処を荒らそうとするゴミ虫の
出現だ」

「じゃあ、殺しちゃってもいいよね〜!」

 波立たせるように、兎奈美は指を動かしている。

「……。そうだな……その方が面倒なくていいかもしれんが……」

 兎奈美ほどではないにしろ、兎音は人殺しは結構好きだ。鬱憤晴らしにもなる。

 だが――なぜか、気が進まない。

「まずは、きみ〜」

 兎奈美が一瞬で隊長の前に躍り出る。

 その瞬間――兎音の脳裏に、九峪顔がよぎった。

 その黒い瞳は……悲しげに揺れていた。

「――ッ!」

 兎音は咄嗟に動き、男の首を握りつぶそうとしていた兎奈美の手を掴み上げていた。

「な、なにするの〜?」

 兎奈美は目を大きくして、マジマジと兎音を見つめている。

 その視線から逃れるように、兎音は腕を掴んだまま、顔を逸らした。

「……わざわざ殺すことはない」

「え〜!? やだやだ〜! 殺す殺す〜!」

 振りほどこうと暴れる兎奈美を、兎音は必死に押さえ込む。

「いいから黙ってろ……」

 兎音はチラっと隊長に目をやると、余った片手で、首を掴んだ。

「ぐぅ!?」

 苦しげに呻く隊長を、そのまま上に持ち上げる。

「な〜んだ、やっぱり殺すの?」

 兎奈美を無視して、兎音は残る隊員達に目をやった。

「動くなよ……」

 一言制してから、兎音は持ち上げた隊長を脅迫する。

「今日のわたしは機嫌がいい。殺さないでやる。その代わり……」

 握りつぶさない程度に、グッと腕に力を込める。

「ここでは何もなかった、と報告しておけ。今日のことを一言でも話してみろ。必ず、ど
こまでも追い詰めて、お前や、お前の家族を、嬲り殺しにしてやる。……わかったな?」

「――ッ!――ッ!」

 隊長は苦しげに呻きながら、わかったと目で訴えていた。


 ◇


「ぶ〜! なんで殺しちゃ駄目なの〜?」

 逃げ去る男たちの背中を見送りながら、兎奈美が頬をパンパンにさせている。

「……」

 兎音は答えない。自分でも理由がわからない。

 自分が不殺などと……。しかも人間ごときを。ありえない。

 魔兎族は――いや、魔人は、本来好戦的である。

 相手の苦痛に歪む顔、声、体。それらを見るたびに、全身の血が滾る。

 戦うことが本能であり、抑える理由もなかった。

 兎音も例外ではない。なのに……。

「……あらあら。意外な展開」

 軽快な、しかし落ち着いた声が森の中に浸透してゆく。

 兎音や兎奈美と違い、静かに姿を見せたは、小柄な少女・兎華乃だ。

 親しみのある声に、兎音は眉根を寄せる。

「……姉様。覗いてたな」

「出にくかったっていうか、ちょっと気になったのよ」

 悪びれた様子もなく、兎華乃は頬を微かに緩ませた。

「どうして殺さないのかしら? 口封じに殺した方が早いのに」

「そうそう!」

 兎奈美力一杯同意して、睨みを利かせる。

「お前はただ殺したいだけだろ……?」

 妹をチクリと牽制して、兎音は思いのうちを明かす。やや、ぶっきら棒に。

「別に……。耶麻台国も馬鹿じゃないですしね。あいつら殺したら、不審に思って、また
使者送ってくるでしょう?」

「あら。それもそうね。これも意外だわ。兎音がちゃんと物事考えるなんて」

 姉の見透かしたような目が、兎音の感に触る。

「兎奈美と一緒にするな。……ったく」

「兎音と一緒になんかされたくないよ〜だ!」

 普段は小さいことは気にしない兎奈美が、意外にも突っかかってきた。よほど、ご馳走
を取られたのが腹に来ているらしい。

「でも、本当に?」

 兎華乃はそんな兎奈美を、横目に苦笑しながら、兎音の前に立つ。

「さっきまで、本気で殺すようにも見えたわ。咄嗟に今のを思いついたとは思えないの。
というか、今思いついたような感じだけど」

「そ、そんなこと、ないですよ……」

 真っ直ぐな視線は、まるで心の中を探るように、目の奥へと注がれている。

 兎音は裸にされるような羞恥心を覚え、先に目を逸らした。

「ふ〜ん? そ〜お?」

 視界の隅に入る姉の顔が、愉悦に歪むのが気になって、兎音は否応なく、話に戻される。

「な、なんですか……?」

「九峪さんが悲しむから、なんて……。可愛いこと考えるのね」

「な!? だ、誰もそんなこと!?」

 兎音が拳を作って激怒して見せても、結局は兎華乃を楽しませるだけである。

「顔、赤いわよ?」

「う、運動したからですよ」

「あの程度で? 魔人のあなたが?」

「う……」

 もっともな指摘に、兎音は沈黙せざるえを得なかった。

 その隙を見取って、機嫌を直した兎奈美が笑みを咲かせる。

「あ〜。そうだったんだ〜。兎音、頭いいな〜。凄いな〜」

「ふん……。お前が悪すぎるんだよっ」

 羞恥心ともどかしさと、自らの不甲斐なさに、兎音の口調は自然と荒くなっていた。

 なんでこうなってしまったのだろう?

 確かに、姉には以前から頭が上がらなかったが、こうまでからかわれることはなかった
し、兎音自身、悔しい思いはしても、気恥ずかしいなんて感情はなかった。

 おまけに最近では、兎奈美にまでおちょくられている。

 違う。自分はもっと、毅然としてて、冷淡で、頭の切れる強い女のはず。なのに……。

 それもこれも、全部九峪のせいだ。あいつが来てから、調子が崩れっぱなしだ。

 前だって、意味も無く、兎奈美と九峪と追いかけて、山の中を走り回ってしまった。

 今思い返せば、阿呆である。情けない……。

 でも――なぜか九峪のことになると、感情が不安定になる。

 会ってるときも、会っていないときも。気がつけば、九峪のことを考えている。

 高貴な魔兎族が、神の遣いとはいえ、人間如きに、注意を持っていかれる……。

 それだけでも屈辱なのに、もっともなのは、それを姉や兎奈美に見抜かれていることで
あった。

「……でも、いいの?」

「なにが!?」

 別のことを考えてイライラとしていたときに、唐突に兎華乃に聞かれたため、兎音の声
は一段と荒れていた。

 兎華乃は一瞬、眉を上げるも、すぐに平静とした顔に戻っていた。

「九峪さん、多分そのうち出て行くわ。というか、出て行くべきでしょ」

 兎華乃が真面目に、冷静な声で聞いてくるので、必然と兎音も落ち着かされる。

 なにより、話題が話題だけに、神妙にならざるを得ない。

「……なんで?」 

「え〜!? やだよ〜!」

 兎奈美は思いっきり眉を顰めて、不満を露にしていた。

 兎音も内心、兎華乃の発言には不快を感じていただけに、兎奈美の行動には納得が行く。
なぜ、不快を抱くかは――あえて考えない。

 二人の気持ちを察してか、兎華乃の目が、戸惑いで揺らめいている。

「何ていうかね……。似合わないのよ。あなた達だって、そうでしょ? 九峪さんに農業
が似合うと、本気で思ってる? 本気でやりがいを感じているとでも思ってる?」

 それに、兎音は返す術を持たない。

 九峪は畑仕事に勤しんでいるが、それは他にやることがないから、または身体を動かし
たいから、ここにいたいから、というのは誰が見てもわかる。

 そもそも仕事に向いていない。それは、当の本人が一番わかっていることだろう。

 お気楽な兎奈美も、こればかりは何も言わない。

「それに――」

 だから――兎華乃の次の言葉を許してしまう。

「本気で――耶麻台国のこと気にしていないとでも思う?」

「…………」

 兎音も兎奈美も、眉間に力を込めていた。

 その言葉は禁句ということが、暗黙の了解だったからだ。

 なのに、姉は今、その言葉を口にする。まるで、そのときがきたと、封印を解くように。

「やっぱり、九峪さんに似合うのは、耶麻台国でしょ。人間界のことなんてどうでもいい
けど、世直しに必要なんじゃない? あの人の存在は……」

 兎華乃が、後ろを振り返る。

 誰もいない。ただ、その先には、自分たちの家と……九峪がいる……。

 兎華乃の声は、落ち着いていて、だけどどこか寂しげで。

 だから、兎音も抱いていた激情を鎮めるしかない。

「……姉様はそれでいいのか……?」

「わたしはヤダ〜!」

 直情型の兎奈美は、自分に正直に、手を大きく振って感情を振りかざしている。

 娘の我侭に困りながらも、どこか甘い――兎華乃はそんな、母親のような顔で、兎奈美
を宥める。

「……貴方たちの気持ちもわかるけどね……。九峪さん、面白いもの。でも……」

 兎華乃はまた、遠い場所へと視線を転じた。先ほど逃げ帰った、耶麻台国の連中が、走
り去った方角へと。

「九峪さんを必要としている人は、わたし達だけじゃないってことは事実ね……。ま、金
輪際会えなくなるわけじゃあるまいし。そろそろ潮時じゃないかってことよ」

 兎華乃は最後、微笑で締めて見せた。

 兎音は顔を伏せる。

 自分は姉のように、大人ではない。でも――……。

 九峪はどうしたいのだろうか。

 それを聞いて、自分はどうするのだろうか。

 それらを知りたくて、でも知るのが怖かった……。


                                    <続く>


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