火魅子伝・奇縁良縁 第二話 流されて駒木 (H:小説 M:九峪×藤那 J:コメディ)
日時: 02/08 00:13
著者: 青色


 刹那。

 ブルリと藤那の白い肌が粟立つ。指先に触れる水の冷たさは、肌を突き刺すかのようだった。

「くっ」

 それだけであっさりと心が挫けそうにな――る前に、

「でぇいっ!!」

 豪快に両手で流れる水をすくって、そのまま顔に、思考するよりも速く一気にぶちまけた。

「ぐぁああっ!?」

 身にしみて冷たい。

 バシャバシャと何度も何度も、すくってはぶちまけ、すくってはぶちまけを、ちょっと意地になって繰り返す。

「ふぅ〜〜」

 そうしてしばらくしてからあげた顔は、さっぱりとしていて、実に清々しく気持ちの良いものになっていた。

 色素が薄くて長い髪の毛が、背中でふんわりと、やわらかい曲線を描いている。

 凛としていて意志の強そうな、それでいてどこか、皮肉っぽい光を放っている切れ長の瞳。

 身長が女性としてはかなり高いので、一見すると痩せすぎにも思えるが、その肢体はしなやかで堪らなく魅惑的。

 こんもりとふくらんでる胸。むっちりと張っている尻。

 豪華絢爛。

 隠し切れない気高さに包まれた彼女は、なにからなにまでもが、少なくとも外見上は抜群だった。

 美人。

 麗人。

 貴人。

 色々と女性を装飾する言葉はあるのだろうが、藤那であれば相応しいのは、おそらくこの辺りになるのだろう。

 まぁそれも、

「吐くもの吐いてスッキリしたし、あいつらを叩き起こして、さわやかな朝の迎え酒とでも洒落込むかな」

 無闇にしゃべったりしなければだが。

(しかしこんなのも、そりゃ偶には悪くないが、まだ日も昇りきってないのに、今朝は妙なほどに眼が冴える)

 いつもは酒を呑み明かして寝てしまえば、昼までぐっすりなのだが、突然、パッチリと皆で雑魚寝する暗闇の中、
藤那は一人目が覚めてしまった。

 豊かな胸の奥がザワザワとひどくざわついてる。

 最初はそれほどでもなかったが、それが段々と少しずつ、そしていまはとても、激しいものになってきていた。

「…………」

 何気なく上流を見る。

「…………」

 変な物体が流れてきていた。

 それはスーーッと音もなく流れてくると、計ったように藤那の目の前でピタリと止まる。

 その物体は仰向けだ。

 気を失ってるのか眼を瞑ったその男の顔が見えてる。

「…………」

 藤那は無言で立ち上がると、足の先でチョンチョンと、その男の身体を軽くだが突っついてみた。

 と。

「そこは人工呼吸だろ」

 そこへ駄目だし。

 見たこともない変な服を着た男は、いきなり目と口を開けて、いきなり藤那に文句を言った。

「必要なさそうじゃないか」

 水よりも冷たい見下ろす視線を浴びながら、男がザバリと音を立てて身体を起こす。

 その様子は特に悪びれた風もない。

「もう少しだけ気を失ってても良かったんだが、気じゃなくて身体の感覚がなくなってきてたからな」

 その証拠に男は片膝突いて、

「よっこらしょ」

 おっさんみたいな掛け声と一緒に立とうとしたが、

「お?」

 力が入らずにカクンッと、前のめりに、そして狙ったように、藤那の身体に向かって倒れ込んできた。

 だが、

「…………」

「ら?」

 そうクルのがわかってたように、ササッと藤那は素早く身を逸らす。

 見事ではあるが、めでたくもなんともなく、男は地面をジャリジャリとコミカルに軽快に滑った。

 それはお約束とはこういうものだと、藤那に身をもって教えているようでもある。

「いでぇ〜〜っ!?」

 人間の持つ防衛本能に従って、反射的に出した手のひらは、擦りむけて血だらけになっていた。

 フ〜〜フ〜〜と息を掛けながら、男は藤那に非難の目を向ける。

「避けるか普通? ここで抱き合って『ドキッ』、とかいう展開だろここは?」

 なんだか男は結構元気だ。

「会ったばかりのわけのわからん男に、なんでわたしが『ドキッ』、なんて律儀にせにゃならんのだ」

「恋は突然なんだよ」

「お前のは故意だろ」

 そんなツッコミをしつつ藤那は、ポイッと、首に掛けていた手拭を男に放る。

「川で手をちゃんと洗ってそれを使え」

「おう。あんがと。ちょっと過剰に芸人魂を見せすぎたな」

 手を洗いながら男は、ぼやきだか反省だかを、ぶつぶつと多士済々、藤那には理解不能なことも含め呟いた。

 それなりに真剣な顔である。

「まさか用を足してて川にボチャンとは、例えるなら、流れてきた桃を取ろうとして落ちたばーさんの気分だな」

 他には犬にも猿にも雉にも、吉備団子をあげる前に、全部喰っちゃった桃太郎とか。

 とりあえず男はそんなことを言っている。

「なぁあんた。ここはどこだ?」

「駒木の里だが」

「ふうん。そっか。駒木の里か」

 手拭でぬぐいながら男は難しい顔で立ち上がる。

「なるほどね」

「なにがなるほどなんだ?」

「うん? ああ、いや、よく考えたら地名を訊いたってさ、俺にはチンプンカンプンだってことに気づいた」

「お前は九洲の人間じゃないのか?」

「そんなこともないんだけど、しかし、そんなこともあるというか」

「あん?」

 頭をポリポリと片手で掻きながら、男はちょっと自虐的な笑いと一緒に、遠い遠い目をした。

 それはどんなにしても見えないものを、見ようとしてるかのようでもある。

「…………」

 嫌いな顔ではなかった。

 藤那の胸の奥はザワザワとざわめいてる。

「俺の知ってる九州と、あんたの知ってる九洲は、色々と微妙にところどころ設定がどうにも違うみたいでね」

「藤那」

「うん? なんだ?」

「名前だよ。あんたあんたと連呼されるのも気分が悪い」

「ああ、すまん。俺は九峪。助けてく、……いや、助けられてはないが、手拭も借りたし、一応ありがとな藤那」

「……そのぐらい別に構わんさ、九峪」

 不思議な気分だった。

 人の名前を呼ぶというのはこんなにも、こんなにも嬉しく心躍ることだったろうか?

「九峪」

「なに?」

「お前の話からすると行くところはなさそうだが、良かったらわたしの家に来るか? 飯くらい喰わせてやるぞ」

(さて。閑谷たちにはどう説明するか)

 藤那の頭ではそんなことをすでに考え始めていた。

 呑み仲間に男女の区別はないから、いままでも男を家に連れて行ったことはあるのだが、素面では初めてである。

 緊張してる自分になんだか腹が立った。

 と。

 九峪の顔がニヤニヤとだらしなくにやけてる。

「それって逆ナン?」

「……言ってる意味はわからんが野垂れ死ね」

 格好よく男前に回れ右する藤那。

「ま、待て藤那!? ちょっと藤那。いや、藤那さん。藤那様。藤那ちゃん。ああ、もう、ホントに待てって藤那」

「…………」

 それがどんな感情に端を発してるのか、藤那本人にもよくわからない。

「藤那」

 わからないが九峪に名を呼ばれるたびに、藤那は堪らなく誇らしい気持ちになっていった。