火魅子伝・奇縁良縁 第十四話 残してきた心 (H:小説 M:九峪×伊万里×上乃×忌瀬×仁清 J:コメディ)
日時: 04/02 16:03
著者: 青色


 せらせらと流れゆく川の音が耳に心地よい。

 ほっとさせてくれる。

 行楽地は山よりも海の方が人気はあるが、これを味わってしまうと、どちらもなかなかに選びがたい。

 これこそが日本人の原風景の一つではないだろうか。

 虫捕り網が欲しくなってくる。

 自由課題の標本作り。

 麻酔が足りなくて教室で昆虫が蘇生したときは本当にびびったなぁ。

 少年時代。

 山ってのはこれでもかと郷愁を誘う空間だ。

「…………」

 けれど。

「……う〜〜ん。これはなんだかやっぱり、ちょいとスケールが違うよなぁ」

 薄々どころではなくこれは常々、こっちの世界に来てからというもの、感じていたことではあるのだが。

 首が痛くなるくらいに見上げながら、九峪は改めてその思いを強くする。

 そしてそれは独り言のつもりだったのだが、

「なにがだね?」

 小石の上をぴょんぴょんと、軽やかに飛び跳ねながら、先行する忌瀬は笑顔でくるっと振り返った。

 見つめる瞳はえらく楽しそう。

 九峪は頭の天辺から足の爪先まで満遍なく、通算で五度の成果か、見事なまでに全身ずぶ濡れになっている。

 もうそれだけ着水してると、下着まで濡れてても、まるで気にもなりゃしない。

「うん? いやね。ここと似たような土地に住んでたんだけど、ここは大きさや広さが圧倒的に上だなってさ」

 はぁ〜〜っと思わず眺める素晴らしい岩壁。

 絶景かな絶景かな。

 だけどもまるっきりでそれは、九峪は映像だけでしか知らないが、日本というよりも中国の風景に近かった。

 そう考えると適当な郷愁感である。

 喉が渇く。

 ひどく無性に烏龍茶が飲みたい今日この頃だ。

「せせこましいとこに住んでたんだねぇ」

「ああ。五十年ローンで息子にまで、それを回す気満々の家は、兎小屋だって外人なんかはよく呼んでたぜ」

 もちろん。

 さすがに面と向かって言われたことなどないが、九峪が外人だったら、そんな感想を持つくらいの家だった。

「…………」

 少し懐かしい。

「九峪さん」

「あん? お、おお。なんだ伊万里?」

 心が無防備なところに、不意に声を掛けられて、ちょっと慌てた九峪だが、すぐに笑顔を作って振り返る。

 それに何故だか、むっとした顔をする伊万里だが、発せられた台詞自体は優しいものだった。

「よそ見なんかしてると、……また落ちますよ」

 多少その気遣いの言葉にも、棘はあったりはするけれど。

 そこへ。

「いいんじゃん。それだけ濡れてるんならさ、いまさら気にすることもないんでない?」

 最後尾の上乃がけたけたした声で割り込んでくる。

 彼女のどこかわくわくしている顔は、九峪がまた落ちるのを、悪意なく期待しているのは丸わかりだ。

 忌瀬と息の合った動きで、バナナの皮を踏んだみたいに、毎度つるっといく九峪を、指を差して爆笑するのが、

ここ数時間の上乃の、横隔膜振動のツボである。

「そりゃ濡れる分には構わないだろうけど、頭でも打ったら危ないだろ」

「平気だって。しっかりと受身は取れてるじゃん。ね。平気だよね、九峪」

「ああ、まあな」

 伊万里と上乃、それに仁清と出会ってから、五、六時間しか経ってはいないが、すでに彼女は呼び捨てである。

 おそらく年下だろうのに。

 いや、九峪も彼女たちを呼び捨てだし、歳だって然程変わらないだろうから、それは全然いいし構わない。

 っていうか。

「えへへっ。そういう九峪のノリの良いとこ好き」

「ありがとよ。俺も上乃のそういうとこ好きだぜ」

 上乃に呼び捨てにされるのは、これでかなり悪くない気分だった。

 学校の女友だちをやはり懐かしく思い出す。

「……そうですか。まあ、九峪さんが良いのならわたしはそれでいいんですけどね。ええ、いいんですよまったく」

「あら?」

 伊万里の声の温度が、あきらかにまた下がった。

 視線は好意的に見れば子供みたいに、拗ねたようにそっぽを向いている。

「…………」

 でも、しかし、可愛いけど、ちょっと怖い。

 眼と眼を合わせたなら、もしかして死ねるかもしれん。

「だけど伊万里の言うことも、とてももっともで大切なことだな。うん。ありがとう伊万里。すげぇ気をつけるぜ」

 非常にわかり易いご機嫌取り。

「九峪九峪」

「なんだよ?」

 嫌な気分になど一度もなったことのない声に振り返ると、忌瀬がいつも通りの慣れたにやにや顔をしている。

「きみから習った言葉をここで、披露させてもらってもいいかな?」

「……どうぞ」

「にゃはははっ。チキンチキンきちんとチキン」

「…………」

「あれ? 間違えちゃったかな? あ? でもでも。九峪くんが八方美人なのは、完璧に間違いないすっよね?」

 喜怒哀楽。

 四番目が滅茶苦茶突出している女だった。

「どっちも合ってるよ」

「いやぁ、なら良かった良かった。お姉さん安心しちゃったよ」

「そうかい。そしたらしばらく、黙っててくれないか」

 その四番目の感情を他人に伝えるのも、侵食させるのも、波長が合う所為もあるのだろうが、忌瀬はひどく巧い。

 不思議と相手をするこちらも楽しくなってくる。

 ただ、

「仁清が待ちくたびれてるから早く行けよ」

 それを素直に表現するのは、なんでか九峪は腹が立つのだった。

 ちなみに。

 出汁に使われた形の仁清だが、随分と前に対岸に渡って、手持ち無沙汰にしているのは本当である。

「県居の里だったけ? ここからあと、どのくらいかかりそうなんだ?」

「昼ま、……いえ、夜には着くと思いますよ」

「そうか」

 一瞬だけではあるが伊万里の視線が、九峪の足へと向けられたが、気づかないふりが優しさに応える方法だろう。

 そして。

「とりあえず」

 六回目の着水をしないように、とっとと川を渡った方が良さそうだった。

「しっかし、それにしたって、仁清は身軽だよなぁ」

 さらにそれだけではなく、付かず離れずというのがあるが、先頭で歩きながら、一番遅い九峪の様子を見つつ、

仁清は速度を絶妙に変えてくれるので、ここまで珍しく泣き言を言わずに済んでいる。

 大人しく目立たないが、先導役も率なくこなして、まさに九峪にとっては仁清さまさまだ。

「弓矢の腕も相当に凄いみたいだし」

 あの暗闇の中での、正確で精密な離れ業の高速射撃。

 これまでの人生で九峪が見たものでは、上から二番目に数えられる腕前だろう。

「仁清は狩人としては、里でも一番だと思いますよ」

 九峪は気づいてはいないが、さりげなく、倒れたら支えられる位置につきながら、伊万里は自慢げに語りだした。

 おそらく。

「気配を殺すことだって、魔獣にも負けはしないでしょう」

 それが自分自身のことであるならば、彼女はこんな風には人に話せない。

 それはほぼ間違いなくで確信できたりする。

 伊万里。

 困ったことに美人で出来るくせに『わたしなんて……』という、一種の症候群なんじゃないかのあれだった。

 少々卑屈なところがある。

 昨日の晩。

 九峪は彼女と打ち解けるのは一苦労だった。

 忌瀬や上乃の援護がなければ、仁清の無言の肯定がなければ、九峪はそのまま麓にご案内されてたろう。

「良かった良かった」

 最近の忌瀬の口癖を、意図的に呟きつつ、対岸にいる仁清の肩を、ぽんっと、沢山の感謝の念を込めて叩いた。

「こっから先も、頼むぜ仁清」

「…………」

 見上げるだけで物静かな少年は特に何も言わない。

 小さく頷いただけ。

 だが、それだけで不思議と九峪には、十二分に仁清の言いたいことが伝わっていた。

 それを伊万里と上乃、そして忌瀬までもが、あるいはにこにこしながら、あるいはにやにやしながら見ている。

 そしてその見られている一人、仁清はというと、伊万里に視線を送り、ふるふると首を振った。

「そうだな。九峪さん。ここらで休憩にしましょう」

「え? おいおい、なんだよ仁清、俺はまだまだ歩けるぞ? 休憩は川を渡る前に取ったばっかりじゃないか?」

「疲れてからじゃ遅いんですよ。休憩は小まめに取ったりする方が、結局は目的地に着くのが早いんです」

「そうそう。それに仁清に頼んだんだったら、最後まで仁清を信じて任せなよ」

「ふむ。そうだ、な」

 伊万里と上乃の言葉に九峪は頷きつつ、仁清の様子を窺うと、じっと円らな瞳で見ていたりした。

 この表現が正しいかどうかはわからないが、なんだか馬みたいに綺麗で優しい眼である。

「わかった。そいじゃここはありがたく、休ませてもらおうかね」

 餅は餅屋じゃないが、この三人は山の専門家だ。

 出来ないことは出来る奴に、信じた以上は全て任せてしまった方が、やはり良い結果が出易いだろう。

 と。

「一本イッとく?」

 忌瀬がどこかで聞いた台詞を言いながら、どこかで見たことのある小瓶を、『はい』と笑顔で差し出した。

「てめぇが飲め」

 それに対して九峪も、やはりどこかで聞いた台詞で返しつつ、懐から携帯電話を取り出し時間を確認する。

 只今の時刻は十時三十三分。

 九時前にはもう歩いていたので、なるほど、確かにそろそろ休憩しないと、いつもならば愚図り出す時間だ。

「あ? ねえねえ九峪。またあれ見せてくれない」

 開いた携帯を上乃がひょっこりと、自然な動きで九峪の腕に腕を絡めながら、弾んだ声で覗き込んでくる。

 男ってのはとてつもなく馬鹿な生き物。

 二の腕の辺りに“むにゅ”と当たってる素敵な感触に、九峪の顔はでれでれと、だらしなく緩みっぱなしだった。

「…………」

 真面目で潔癖症気味の彼女の視線が、どすんっと、突き刺さっているのに気づきもしない。

「……えへ」

 そしてそのむっとした顔で睨んでる彼女も、享楽の虜である彼女に、密かに観察されてるのに気づいてなかった。

 仁清は我関せずとばかり、腰につけていた竹筒を、流れる川の水に浸している。

 これで意外ではあるが彼は、世渡り上手なのかもしれない。

「そいじゃどれ見る? これにする? それともこれにするか?」

 少なくとも上手そうに見えて、鼻の下を伸ばしながら、調子よくボタンを、ピッピッと押してる奴よりは。

 ええ。

 そりゃあもう、彼は天晴れなくらいに、現在進行形で調子に乗っております。

 だから。

「あ? これはまだ見せてもらってないよ?」

「オーケー。これね」

 何があるのかわからないので、擬装用に九峪もいくつか、街の風景とかを撮ったフォルダを用意はしてあった。

 転ばぬ先の杖。

 だけど。

 一寸先はやはり闇だったりする。杖の先で押してから気づいてもそれは遅い。

「げっ!?」

 選択するフォルダをスッパリ間違えた。

「ううん? これってば一体、……なんなんで、せう?」

 酒瓶を幸せそうに抱きながらすやすやと、色素が薄くて長い髪の毛を、艶やかに乱しながら女性が眠っている。

 着ている服の裾を大きく割って、そこから覗いている太ももが色っぽい。

「この人の名前のは、もしかしてみんな、こんなんだったり?」

「あ?」

 上乃は素早く九峪の手から携帯を奪うと、若いだけに物覚えがいいのか、教えていないのにピピッと操作する。

「いかんっ!? いかんですよ上乃さんっ!? それは後生ですから、およしになってくださいっ!!」

 制止の声など問答無用。

 怒涛の勢いで次々に開かれていく秘蔵の九峪コレクション。

 裸の肩に毛布を引っ掛けたままで、淡い栗色の髪をした中性的な少女が、寝ぼけてるような顔で微笑んでいる。

「げっ!?」

 さっきも聴いたこの驚きと焦りがミックスされてる声は、今度は九峪ではなく忌瀬のものだった。

 いつの間にか伊万里も含めて、上乃の操る手元、携帯の画面を覗き込んでいる。

「上乃」

「ほいほい」

 その動きは実に効率的で素早い。

 名前を呼ばれただけなのに、それだけで伊万里の意を汲み取って、上乃の指先が現代の女子高生みたいに躍る。

 はらりと外れそうになった胸覆いを、必死な顔で手繰り寄せてる女性。

 自分の魏服の胸元を指先で、ちょいっと広げて、なんだか難しい顔をしている眼鏡の少女。

 そしてトリを努めるのは、もちろん、色っぽいがすでに代名詞のこの御方。

 結ぶための紐を唇にくわえ、髪を両手で押さえながら、にっこりと微笑んでいるだけで、ぞくりとしたりする。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 見慣れたはずの九峪や忌瀬でも、それが画像であっても、やはり見蕩れてしまうほど舞姫は魅力的だった。

「やっぱさ九峪」

「……うん」

「座長ってばいつでも超絶色っぺぇよね」

「……うん」

 などと。

 間抜けなことを言いつつも、ふたりの眼は、下心で見ているというよりも、家族に向けるもののように温かい。

 いや、そりゃ下心もあったし、家族にはなれなかったけど。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 しんみりしてしまった九峪と忌瀬に釣られて、心情を察した伊万里と上乃も、何故だかしょんぼりとしている。

「この人は九峪の恋人だったり?」

「よせ上乃。いくらなんでも失礼だぞ」

「ああ、いいよいいよ。別にそんなんじゃないし」

「ふられたんだよね」

「……ふられてねぇ」

 告白もしてないのにふられることなんてありえない。それにそういうのとは、正直ちょっと違う気もする。

「昨日まではすげぇ鬱陶しかったもん」

「悪かったなぁ」

「あれれ? 九峪ってばもしかして、前の恋愛を引きづる人ですか?」

「…………」

 パッと部屋のスイッチを入れたみたいに、暗くなり掛けた会話が、好みの方向に移って上乃の顔が輝いた。

 逆に伊万里はこの手の話題が苦手みたいで、さらにさらにむっとした顔をしている。

 しかし。

「あれれ?」

 普段とは何だか少し違うような感じに、それがどことは言えないが、上乃だからこそ気づけて軽く首を傾げた。

 まあ。

「引きづる引きづる」

 それはともかくで九峪の代わりに、忌瀬が相棒の恋愛観というか失恋模様を嬉々と話し始めた。

「毎日毎日飽きもせずに、ため息吐息の大合唱だったよ」

「ふ〜〜ん。そんなに引きづったりするんだぁ」

 伊万里が気にはなったが、上乃の興味もすぐに、忌瀬の人でなく自分が一番楽しんでる語りに惹きつけられる。

「いや〜〜、九峪って知ってるようで知らないっていうか、失ってから大事さがやっとわかるって感じ?」

「おおっ!! そういうのってでも、ちょっとだけ憧れちゃうかも」

「おやおやおや。上乃はえらく少女趣味なんだねぇ。けど失ってからじゃ、きっと同じ台詞は言えないよ」

 どうも忌瀬にしても、この手の話題は嫌いじゃないらしい。

「阿呆か。勝手にやっとれ」

 話の主役というか当事者の九峪を置いてけぼりにして、ふたりはキャアキャア言いながら盛り上がっている。

 携帯をぱたんっと閉じても、それはとっくに、どうでもいいみたいだった。

「九峪さん」

 ふたりは放って九峪も水を飲もうかなと、川に行こうとしたら、小さいけど、無視できない声に呼び止められた。

「なんだい伊万里?」

 それは果たして。

 怒っているのか。

 困っているのか。

 焦っているのか。

 悩んでいるのか。

 九峪にはよくわからない表情を伊万里はしている。

 そして多分それは。

「九峪さんはその人のことを……」

 どんな顔をしていいのか、伊万里本人もわかってはいないのだろう。

「興味ある?」

「……少し」

「じゃあ少しだけ答えてやる。好きだったし、いまでも好きだよ。だけど思い出すと、色々な意味で悔しいね」

「それは――」

「少しって言ったぜ。この先を聞きたかったら、もっともっと、伊万里に興味を持ってもらわないとな」

「……うっ!?」

 そう言いつつ九峪は不器用に片目を瞑って見せた。

 格好つけてるつもりらしい。

 けれど。

 顔が『やっちまった』そんな感じに、赤く耳まで染まっていくのは、微笑ましいがひどく間抜けである。

「うん? ……ああ。ありがとよ。仁清」

 仁清の差し出してくれた竹筒に入った水を、顔を隠すようにして煽って一息で飲み干す。

 それでも九峪の火照った顔の熱は、まるでまったく消えてくれなかった。

「水汲んでくる」

 逃げるようにして伊万里に背を向け、九峪はその必要もないのに、大急ぎの全速力で川へと走り出す。

 さすがに真っ当な人間で、背中に眼のある奴はいない。

 だから。

 九峪には見えていなかった。

 両の手で頬を押さえて、その場にしゃがみ込む伊万里が、九峪には少しも見えてはいなかった。

 それでも小さな小さな囁きだけは、妙にはっきりと聞き取れる。

「な、何故だ? そもそもまだ、まだ……九峪さんとは、会ったばかりなんだぞ? それにあんな軽い――」

 伊万里の声が九峪の耳には心地よかった。