火魅子伝・奇縁良縁 第十五話 前夜 (H:小説 M:九峪・亜衣・県居 J:シリアス) |
- 日時: 04/06 03:42
- 著者: 青色
「これはあくまで、先生が思うにはなんだが」
ぐるりと一人一人を見回しながら、九峪の舌が闊達に滑らかに楽しげに動く。
たくさんの可愛い可愛い手の掛かる生徒たち。
みんなが真剣に、というより、わくわくした顔で聞いていた。
「街亭の戦で負けたのは、確かに命令を無視して、勝手に山に陣を張った武将の責任だけれど――」
教室にはほとんど男の子ばかり。
でも。
そのやんちゃ盛りの悪ガキどもも、九峪の話の邪魔をしたりは誰もしない。
結局こういう戦記物は、いつの時代であっても、どこの場所であっても、大概は男の子は好きなのだ。
そして。
原作を紙芝居の感覚で楽しんだ後に、九峪の注釈を聞くのも、どうやら楽しみの一つらしい。
「この北伐はこれを含めて、五回も行ったわけなんだが、どれもこれって成果を、まるでまったく収めていない」
小さく控え目にことんっと微かな物音。
「ああ……」
ある人物を視線の先に見つけて、九峪は淀みなく講釈を続けつつも、ちょっとだけびっくりした顔をした。
「だいたいこの人は、軍事の才能自体が、ほとんどないんだし」
一年前にこの里に来たときに、みんなで建てた、住居兼教室の掘っ立て小屋。
遮るようにその入り口に、腕を組んで寄りかかっている。
眼鏡をかけた見るからに聡明そうな女性が、九峪を眺めながら、怜悧な印象を与える切れ長の眼を細めていた。
一応。
その薄く可憐といってもいい唇だけは、笑みの形に歪められてはいる。
が。
「これは一回目の失敗は戦術上のことだが、五回も続けばもうさ、戦略的にも間違っていたんじゃないのかなぁ?」
眼がまるで笑ってなどいない。
「このお偉い軍師さまは、泣いて部下を斬ったらしいけど、五回も失敗した自分は一体どうする気だったのかねぇ」
ってか。
ちょっと怖かった。
気の弱い奴ならそれだけで泣けるかもしれない。
子供たちは背中越しなので、誰もその女性が見えてはいないが、釣られて笑う子はまず居ないだろう。
親しみが一切合切で感じられない。
その手の趣味の人だったならば、それは堪らん微笑なのだろうけど。
しかし。
「…………」
それが決してわからなくもない自分が、九峪は最近ちょっと怖くなってきていた。
「こほん。そもそも」
わざとらしい咳払い。
を。
しつつ。
自分でも節操なしで大馬鹿野郎のどすけべぇだと、思ったり思わなかったりするが、視線をさりげなく這わせる。
「先帝との約束を果たそうとする心掛けは立派だが――」
痩身。
いままでこちらの世界で、九峪が出会った誰と(成長が期待できる若干名は抜かす)比べてもその肉づきは薄い。
胸とか尻とか部分部分で鑑賞するなら、その身体はあまり楽しいとは、お世辞でもいえないだろう。
「…………」
いや、それはそれで、十二分に楽しいわけだが。
「だけど軍師として評価するのなら、それはむしろ減点の対象でしかない」
だけど女性として評価するのなら、それはむしろ加点の対象でしかない。
身体の凹凸にしか興味のいかない年代だと、なかなかにその魅力は伝わりづらいだろうが、全体的には素晴らしく
均整が取れていて、氷の彫刻のような、美しくも冷たい雰囲気を醸し出している。
「はぁ〜〜」
ため息。
そのままでいてもらいたいという気持ちもあれば、溶かしてみたいという欲望も同時に感じさせた。
そして。
自分の嗜好がこの年代にしては、相当な獣道を突き進んでいることを、九峪は深く深く反省混じりに自覚する。
嵌ってた。
「まぁ、でも、この人は行政官としてみれば、かなり悪くはない手腕を持っている」
そりゃもうどっぷりと。
手を上げて理知的に微笑んでいる女性に嵌ってた。……まあ、他にもたくさん嵌ってる女性はいるけど、さ。
「質問をしてもよろしいか?」
出来る女性。
その八割はやるだろう、くいっと、落ちてない眼鏡を持ち上げる仕草をしながら、にやりと妖しく微笑んでいた。
「どうぞ」
「それでは九峪先生ならば、その国の勝機は、どこにあると思ってるのかな? ……いや、そもそもあるのかな?」
女性は笑ってはいるが、その眼の光は本気である。
何故か。
その本気になるべき理由。
「…………」
伊万里や上乃から、里の長である県居からも、そして何より本人からも、直接九峪は聞いていたので知っていた。
だから。
この質問には中途半端には答えられない。
「やっぱり守りを固めて、機会を待つしかないだろうね。面白くも美しくもないけれど、……それが多分一番だよ」
本当に面白くも美しくもない意見だった。
でも。
現実の策ってのはこんなもの。神の遣いが降臨して、バッタバッタと薙ぎ倒す、そういうわけにもいかないのだ。
けれど。
「それでは遅すぎる。もう十三年だ。民の日々の生活もそうだし、忠誠心に期待するのも限界だろう」
耶麻台国に時間がないのも事実だった。
民衆からすれば、毎日の生活保障してくれりゃ、為政者が誰かなんて、そのうち徹底的にどうでもよくなる。
前に九峪がわかった風に、人に対して言った言葉だ。
「ここらで火魅子は、威光を見せなくてはなるまい。耶麻台国の民にも狗根国の奴らにも」
教室は静まり返っている。
ふたりの話が軍記物の注釈などではなく、自分も生きる明日の世界だということを、みんながわかっていた。
「なら方法はあまりないだろう」
「不利を承知で一戦するしかない。そこで難としても勝って、その余勢で狗根国を押し戻す。これしかあるまい」
「かな」
「だな」
眼と眼を合わせ確認するように大きく頷くふたり。
たった一度の戦でそこまでいくのかといえば、これは決して不可能ということはないだろう。
天地人。
天の時。
地の利。
人の和。
統一するときの条件には、よくこの三つが出てくるが、そのうち二つは人の力であっても揃えられる。
地の利。
人の和。
特に二番目の地の利については、耶麻台国側には初めからあるのだ。
それは地形的なことだけではなく人もそうで、駐留軍が何万いるのか知らないが、数はまるで問題にならない。
九洲の民。
彼ら彼女らを味方につけられれば、それでこの九洲の地での形勢は一気に逆転である。
現代のスポーツを例にすると、とてもわかりやすいが、アウェーで勝つのは実力差があってもなかなか難しい。
ホームの大声援というのは、自チームを高揚させ、敵チームを萎縮させる。
その見えない力は、ときには、精強な百万の軍勢より上だ。それだけの力を与えてくれる。
地の利はそれほどまでに大きい。
逆転。
だから決して不可能というわけではない。
もちろん。
非常に楽観的に恣意的にみればの話ではあるが。
このホームの力は残念ながら、有利だけには働かないのである。
不甲斐ない試合をすれば、熱狂してれば熱狂してるほど、即座にブーイングに早変わりしてしまうのだ。
もっとも。
ボコボコにやられて、野次を飛ばす元気もないほどの、いまの無気力な状況よりは、幾分もましであるわけだが。
もう悔しいとすら感じなくなってきている。
だからこそ、だからこそ一戦して勝ち、希望の火を灯さなくてはならない。
「……なぁ九峪」
「なんだい亜衣?」
「この里に来るたびに誘ってはいるが、応えもわかってはいるが、わたしのところに来る気はやはりないのか?」
「パス。お茶を飲もうってんなら、誘いに乗らないことはねぇけど、……ちょっと戦争はね」
「伊万里殿や上乃殿、それに仁清は前向きのようだが?」
「そりゃ三人の決めたことだろ。悪いけど俺の考えは、三人に左右されないよ」
「ふむ。兄妹みたいに仲が良いのにか?」
「……そう見えたのは嬉しいけど。伊万里は伊万里。上乃は上乃。仁清は仁清。俺は俺だよ。――関係ない」
兄妹。
亜衣にそう冗談ではなく、真顔で言われた九峪は、本当に心から嬉しそうだった。
同時に関係ないと言ったときの顔は、淋しそうでもあり、悲しそうであり、また己を嘲っているようでもあった。
その三人はというと二日前から、近辺で急激に増えた、魔獣の討伐を兼ねた狩りに出ている。
この一年だけで三人は二十四体を狩っていた。
「それよ――!? お? こんな時間か? それじゃみんな、家に帰って、父ちゃん母ちゃんの手伝いをしてやれ」
震えている胸を押さえる。
時刻は午後二時。
そろそろ親たちも子供の手であっても借りたい時間だ。
それに。
九峪と亜衣の話に、子供たちはどう反応したらいいものかと、なんだか困っているみたいだし。
みんなどこか、ほっとした顔をして、頭を九峪と亜衣に下げて帰っていく。
「いつもながら礼儀正しいな」
「うん? ああ。いつも、ああじゃないんだけどな」
「わたしが見るときは、いつも、ああだぞ?」
「……亜衣がいつもこの里にいれば、多分あの子たちは、いつも礼儀正しいと思うぜ」
どの学校にも必ずいたもんだ。
子供たちにやたらめったらと問答無用で怖がられている先生。
「あん?」
しかし。
亜衣本人にはその理由が思い当たらないのか、意外なほど幼くなる不思議顔で首を傾げている。
でも。
こういう怖い先生ほど、後になってみて、大人になってみて、考えてみれば、良いことを言ってるものだ。
基本的に。
「それよりもさ。里長はどうなんだよ? 昔は耶麻台国の立派な武将だったんだろ?」
「おまえと一緒だよ。あまり乗り気じゃないな」
この里の名でもある長の県居。
伊万里の義理の父であり、上乃の血の繋がった実の父親。
さすがに昔は猛将と呼ばれていただけはあって、身体も大きくがっしりとしている、見るからにの見事な偉丈夫。
九峪の住んでいるこの小屋も、彼が率先して建ててくれたものである。
娘のこととなると、親馬鹿の傾向があるが、里のみんなが頼ってくる気さくな良い男だ。
だが。
一年前に会ったときから、その眼には常に鬱屈とした暗い光がある。
彼はいたたまれなくなるほどに疲れ切っていた。
気のせいだろうか。
買い付けに山から下りて、街にと行くたびに、その印象を強くして帰って来ている。
「彼はこの辺りの山人に対する影響も大きい。できれば起ってもらいたいが、無理強いをするわけにもいかない」
山に巡らせた網。
抵抗勢力は錦江湾の周辺を中心に活動しているが、標的にしているのが当麻の街であるのは明白だった。
軍事拠点であるこの街を獲れば、去飛、美禰、と陥とし、国都である川辺をも窺える。
そして。
この県居の里は当麻の側面を脅かす位置にあった。
味方にすることができれば、どんな作戦であれどんな策であれ対応しやすく、なにかにつけてもとても心強い。
本来ならばなにがなんでも亜衣は、この県居の里を傘下に加えておきたいはずだ。
けれど。
強引で下手な接し方をすれば、彼らは敵にはならぬまでも、友好的な関係を築くのは難しくなってしまう。
それではまったく持って元も子もない。
「やはり人は机上の駒とは違うな。なかなか思ったとおりには動いてくれないものだ」
ちなみに。
ふたりの将棋対戦成績。
七敗二十勝で亜衣の圧倒的な勝ち越し中である。
「さて。それじゃわたしも行くかな」
「もう行くのか? 明日には伊万里たちも帰って来る予定だけど?」
「これでも忙しいんだよ。それに――」
「それに?」
「泊めてくれるのは嬉しいが、おまえは寝相が悪いふりをして、抱きついてくるから、おちおち寝ていられない」
「安心してくれ。あの一回でちゃんと懲りてるから」
方術の嵐。
あれが小火騒ぎ程度で済んだのは、県居の里七不思議の一つだ。……残りの六つは誰も知らない。
「すまん。実はこれから行くところがあるんだ」
「行くところ? どこよ?」
「それは内緒だ。けれど、わたしが興味のある男は、なにもおまえだけじゃないってことさ」
「恋多き女ですな」
「はははっ。嫉妬でもしてくれると助かるよ。遠くにいたら、どんな良い男にだって、等しく価値はないんだぞ」
「言うじゃねぇか。――恋愛初心者のくせして」
後半は囁き声。
「聞こえなかったが何か言ったか?」
ジト目の亜衣。
「いえいえ。何でもありませんよ亜衣さま。そいじゃ途中まで送るよ」
「ふんっ」
鼻を鳴らす眼鏡美人を尻目に、九峪はスニーカーを履くと、先に立ってすたすたと歩き出す。
亜衣もすぐに追いついて横に並んだ。
「……なぁ九峪」
「なんだい亜衣?」
視線はお互い先に向けたままで、お互い静かに口を開いて語りだす。
「わたしは後二年以内で、誰にでもわかる成果を出さねば、もう耶麻台国は終わりだと思う」
「そうだな。うん。そのぐらいだろう」
守りを固めて機会を待つしかない。
九峪はそうさっき言ったが、いつまで待てばいいのか、それは誰にもわからないだろう。
さらに。
辛抱強く機会を待ったからといって、事態が好転する保障も、当然ながら微塵もありはしないのだ。
むしろ。
悪くなる可能性の方が大きいかもしれない。
「だから人材集めはそろそろ一段落だ。これからは使う時期に移ろうと思っている」
「うん」
「九峪」
「うん」
ふたりの歩調はゆっくりとしたものだったが、里の入り口がすでにもう見えてきていた。
「これが最後だ。わたしと来ないか? 一緒に狗根国と戦ってくれ」
「悪い」
「……そうか。わかった。残念ではあるが、気の良い友人が一人、県居の里にいると思うことにする」
「悪い」
「いいさ。無理強いしないという話をしたが、おまえもきっと、気持ちがなくちゃ戦えやしないだから」
「悪い」
「ここまででいい。気が変わったらいつでも来てくれ。そのときまでに当麻が陥るよう、祈ってくれてると嬉しい」
「ああ」
「じゃあな」
「じゃあな」
一度だけくるりと振り返って、ふりふりと手を振った姿は、すぐに木々に隠れて見えなくなる。
「…………」
それでも頭をぽりぽりと掻きながら、しばらく九峪はそこに立っていた。
「客人は帰ったのか」
「あ? 里長」
いつからいたのか気配も感じさせずに、亜衣の消えた方角を睨むようにして、里長が九峪の後ろに立っている。
歴戦の猛将。
この辺はさすがだった。
「九峪。おまえはどうするのだ? 狗根国と戦うのか?」
「断ったよ」
「……そうか」
ちらりと九峪は横目で里長の顔を窺う。
二日前に当麻の街から帰ってきたが、またどっと疲れの色を、気持ちが悪いくらい濃くしていた。
「里長は」
「…………」
「里長は戦わないの? 元々は耶麻台国の武将なんだろ? 立派に戦う理由だってあるじゃん」
深い意味があったわけじゃない。
流れで何となく九峪は聞いただけだ。
だが。
「……俺は」
絞り出すような苦渋の声。
後悔する。
九峪は詰まらない質問をしてしまったと、聞いてはいけない質問をしてしまったと、深く深く後悔する。
何気なく軽い気持ちで触れていいことではなかった。
「この里の長だ」
九峪とは背負っている責任の重さが、あまりにも違いすぎる。
「悪い」
今日の九峪はひたすらこればかりだった。
「さっき仁清が帰ってきた。伊万里と上乃も今夜には帰ってくる。大物を仕留めたそうだ。今夜の飯はご馳走だぞ」
「……そいつはまた楽しみだな」
「腹を空かせておけよ」
里長はバンッと九峪の背中を叩くと、疲れている顔に無理やり笑顔を浮かべる。
「…………」
「どうした?」
「いんにゃ。なんでも」
こんなときに思うことではないのかもしれない。
でも。
九峪は思った。
この県居の里に来て本当に良かったと、この素晴らしい家族に出会えて本当に良かったと、心の底から思った。
「伊万里と上乃」
「うん?」
「ふたりが将来さ。男連れてきたらどうする?」
「とりあえずぶん殴る」
「即答だなぁ」
「九峪。顎は鍛えておけよ」
里長の腕を見る。
「…………」
いつかの魔獣みたいにぶっ太い、まるで丸太みたいな腕だった。
首から上が簡単に吹っ飛びそうである。
「お手柔らかに」
今夜の肉は味の向こう側まで噛もうと決めながら、九峪は作ったものではない里長の笑顔に頭を下げた。
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