火魅子伝・奇縁良縁 第十六話 捨て駒 (H:小説 M:九峪・県居・伊万里・上乃・仁清 J:シリアス)
日時: 04/11 19:17
著者: 青色


 寝起きはどちらかといえば悪い。

 だが。

「起きてください」

 今日に限っては秘めやかで、潜めるような小さな声にも、九峪はぱっちり一発で眼が覚めた。

 戸口から差し込んでくる淡い月の光。

 完全な起き抜けだというのに、鮮明に映る彼女の顔を、いつもよりも、より一層神秘的なものに見せている。

「夜這い?」

「違います」

 怒られた。

 大きな声は事情があって出せないようだが、そのぐらいの迫力で持って伊万里に真剣に怒られた。

 九峪は夜目が利かない。

 だから。

 伊万里の頬が赤くなっていることには気づかなかった。

「冗談だよ。本気でも構わんけど」

「馬鹿なことを言ってないで、すぐに広場に集まってください」

「何かあったのか?」

 九峪はほっぽってあったブレザーを羽織り立ち上がる。天魔鏡は首から提げてるし、携帯電話はポケットの中。

 準備万端。

 僅か十秒。

 これだけの時間でもう九峪は、どこにでもすぐに飛び出せた。

「狗根国の奴らです」

「……ふむ。深夜二時三分。どうも人様の家に遊びに来る時間じゃないな。人数は? 武装はしてるのか?」

 何故だか一向に電源の減る気配のない携帯電話。

 その画面に映る青い、アナログ表示にしている時計版を見ながら、九峪は矢継ぎ早に伊万里にと尋ねる。

 昼間にここで亜衣が言ってたことを、九峪は即座に思い出していた。

 彼はこの辺りの山人に対する影響も大きい

 山に巡らせた網。

 この県居の里は当麻の側面を脅かす位置。

 抵抗勢力の橋頭堡になりえる。

 そういつまでもいつまでも、狗根国がそんな危険な存在を、悠長に放置しておくわけもなかった。

 それに。

 最近は頻繁に両者に接触があるのも、おそらくは掴んではいるのだろう。

 推定有罪。

 疑わしきは罰せずよりも、火のないところに煙は立たない。遂に重い腰を上げて潰しにかかったようだ。

「正確な人数や武装はわかりませんが、さっき仁清が斥候に出たところです」

「オーケー」

 現在はすっかり山人とはいっても、元々は耶麻台国残党の、それも地獄の最前線で名を馳せた武将の隠れ里。

 それだけに共に戦った生き残りも数多い。

 広場にはそれぞれの家の奥に、厳重に封印され仕舞ってあったのだろう。

 やや古ぼけてはいるものの、年配の者は皆、一目で使い込まれたとわかる剣や槍や鎧で武装していた。

 顔。顔。顔。

 とにかく気の良いおっちゃんから、一言も口を利かない偏屈な爺、昔の女遍歴をやたらと話したがるホラ吹き。

 他にもこの一年で見慣れた顔ばかりだ。

 なのに。

「…………」

 皆が皆そろって、二度とするまいと隠していただろう、九峪が知らない顔をしている。

 小さな九峪の教え子たちなどは、そのあまりに異質な雰囲気に、自分の祖父や父親を遠巻きにして見つめていた。

「九峪」

 そしてその異質な雰囲気の筆頭は、誰が見ても間違いなくこの男だろう。

「里長」

 いつもと変わらず近寄りがたいというものはない。

 だが。

 自然と圧倒されるような空気を、今夜の県居は息苦しくなるほど濃厚に、その大きく頼もしい身体に纏っていた。

 後ろをちょこちょとついてくる上乃の顔は、眼を細めながら黙って父親の背中を見ている。

 ひどくその表情は幼い。

 現代風にその姿を例えるなら、偶の休日に父親と遊びに行く子供のようだった。

「少し話をしよう」

 県居がそう言って目配せをすると、伊万里はそれに頷き、今度は彼女が上乃に頷いてふたりはその場を離れた。

 周りも察したのか、距離を置いている。

「なんだい? まだふたりには手を出してないぜ? 殴られる心構えもできてないよ?」

「安心してくれていい。殴る権利はおまえの方にある」

「……あん?」

「知っていたんだよ俺は。近いうちにこうやって狗根国の奴らが、襲ってくるんじゃないかってことをな」

 言葉を吐き出すときの県居の表情は苦しそうだった。

 そして唐突に、

「伊万里は火魅子の素質を持っている」

 もっとも奥深いところに淀み沈殿していただろう言の葉を、ぼんやりと聞いていた九峪へと向かって撒き散らす。

「はぁ〜〜っ!?」

「おまえの懐にある天魔鏡が、力を取り戻したら試してみるといい。おそらく映るはずだ」

「おいおい。なんでも知ってるんだなぁ」

「そうでもない。伊万里が王族なのは知っていたが、火魅子の素質まであるとわかったのは僅か一年前のことだし、

おまえが懐に持っているのが、天魔鏡だと気づいたのは、なんと驚けたったの三日前だ」

 県居はかりかりと額を掻いていた。

 これがこの男の照れ隠しであることを、九峪もこの一年の付き合いで、特に知りたくはないが知っている。

 まあ今夜は自嘲の笑みも加わってはいるが。

「俺は脅されていたのさ。伊万里を大人しく引き渡さなければ里を滅ぼすってな。拠点とかそういうのは二の次だ」

「ああ。それで奴ら一年も待たされてるもんだから、遂に焦れて襲ってきたってわけだ」

「この間のがほぼ最後通告に、近いものがあったからなぁ」

「…………」

 里長は狗根国に脅されていた、ね。

「ふうん」

 九峪は思う。

 その言葉と説明に嘘も間違いもないのだろうが、とても全てを語っているとは思えなかった。

 この一年だけで随分と県居の里は潤った気がする。

 獲物がまるで獲れないときでも、苦しい思いをしたことは、そういえばこうやって考えてみると一度もなかった。

 そもそもこういった荒々しい男を、力だけで従わせようとするのは不可能。

 色々と狗根国側にしても懐柔策は講じたことだろう。

 下手な接し方ができないのは、抵抗勢力側である亜衣と、あまり立場は変わらなかったんじゃないだろうか。

 両天秤。

 仁清もそうだが、この里の男は意外にみんな、世渡りがなかなかに巧いのかもしれない。

 しかし。

「やりすぎて狗根国がキレたと」

「見誤ったな。後一年は利用できると思っていたが」

 いい根性をしている。

 だが。

 そうはいってみたところで。

「…………」

 やはり脅されていることにはなんらも、そこは変わりはしなかっただろう。

 両天秤。

 抵抗勢力に加わるにしても、山のさらに奥に逃げるにしても、犠牲はまず間違いなく出ていたはずだ。

 犠牲。

 もっとも少ない方法はわかりやすく一つだけ。

 県居も考えたくはなかったろうが、伊万里を売ることも里長としては、視野の中におそらく入っていたろう。

 だから。

 あれほどまでに疲れ弱りきり、さっきは九峪に殴っていいと言ったのだ。

 けれど。

 結局はこうして一番恐れていた事態になってしまった。

「こんなことになるんなら、亜衣殿の誘いに乗っておくんだったな。……いまさら言っても始まらんが」

 逃げ続けた結果がこれである。

「…………」

 なんて。

 わかったようなことを九峪は言うつもりはない。

 逃げることの何が悪い? 単に今回はそういう巡り合わせだったというだけだ。

 そして。

 いまは戦わなくてはいけない巡り合わせなのだろう。

「ここをみんな無事に脱出したらさ、里長は亜衣のところに行くのかい?」

「そのつもりだ。と言っても、どこにいるのかはわからん。とりあえずは武川の里にでも厄介になるしかないがな」

「伊万里や上乃なら知ってるんじゃないか? 抵抗勢力に加わる予定なんだしさ」

「ふむ。なるほどな。考えてみればそりゃそうだ」

「だしょ?」

 いまいち。

 頼りになるのかならないのかわからない。

 しかし。

「こりゃ大分俺も錆びてるな。どうも勘や決断力だけではなく、色々な部分に性質の悪い油が浮いてやがる」

 それも。

「仕方ないさ。それだけこの里は平和だったんだろ。あんたのおかげでさ」

「九峪」

「なんだよ?」

「さっき伊万里が火魅子候補だという話をしたのはなぁ、おまえならあの娘の力になってくれると思ったからだ」

「…………」

 肩に置かれた大きな手に、ぐっと、強く逆らいがたい力が込められる。

「火魅子というのは九洲の人間にとっては、神とかいう存在とほとんど同じ意味だ」

「…………」

「上乃や仁清を信じていないわけじゃないが、ある日突然、血は繋がらなくても自分の姉だと思っていた存在が、

王族だの火魅子だのと言われても、戸惑うばかりですぐには何もできはすまい」

「…………」

 指先が肉に食い込む。

 県居も一年前に明かされたときは、自分の体験として戸惑ったのかもしれない。

 いや、きっと、それはそうなのだろう。

「おまえは九洲の人間じゃない。少なくとも火魅子に対して、畏怖や畏敬の念はないだろう?」

「ないね」

「王族にもなさそうだ」

「ないね」

「ならば家族としてはどうだ? あの娘を家族だと思っているか? あの娘の力に家族としてなる気はあるか?」

「あるね」

「よし。この先おそらく伊万里は、狗根国にも抵抗勢力にも、火魅子候補として利用されるだろう」

 それから逃げるには、誰とも関わらずに、隠棲でもするしかない。

 若い娘にとっては、それもまた不憫な話だ。

「おまえには何があっても、ずっと伊万里の味方でいてやってほしい。あいつは意外に弱いから守ってやってくれ」

「……そんなの自分でやりゃいいのに。父親なんだろ?」

「娘ってのはいつか父親から、離れるようにできてるもんなのさ。伊万里も上乃も後はおまえに任せる」

「…………」

 にっと笑った顔が格好いい。

 九峪のような若輩者にこの手の格好よさは、まだまだどうしたって出せはしないだろう。

「わかったよ」

 観念したように九峪は肩を、外人みたいにオーバーに竦めて頷いた。

「すまん」

「あん?」

「やっぱり一発殴っていいか?」

「……明日にしてくれ。今夜は起きてないと、さすがにマズいだろ?」

「くくっ。冗談だよ冗談。おまえにやったんだ。おまえの好きにしてくれていいさ」

 食い込ませていた指先の力を緩め、肩をぽんっと軽く叩くと、県居は九峪から、近づいてきた仁清に眼を向ける。

「どうだった?」

「約八百。囲まれている」

 簡潔な報告。

「こっちは初陣の若いのを入れても、戦えるのは七十ってとこだから、兵力の差は最低でも十倍以上ってわけか」

 しかも。

 仁清もざっと周辺を偵察しただけだろうから、その差はさらに広がる可能性は大いにあるのだ。

「どうするかなぁ。まともにやっても突破はできんだろうし」

 県居はかりかりと今度は鼻の頭を掻いている

「…………」

 どうでもいいことだが九峪は、このとき、仁清の声を初めて聞いた気がした。

 と。

 それはまぁこの際は、まるで全然どうでもいい。

「包囲の一番厚いのはどこだった?」

「北の沢。これが約二百五十で本隊」

 九峪の質問に対しても仁清は、表情を微塵も変えずに、さっきと同じように簡潔に答えた。

「うん? なんだってそれが本隊だって、仁清はわかったんだ? 後方にもっと大部隊がいるかもしれないのに?」

「旗を掲げて陣を敷いてる。行けば誰にでもすぐにわかる」

「そうか。そいつは良かった。敵の数は少なくないが、頭は少なくとも馬鹿だな」

 山人を相手にするのに、まともに山岳戦を、しかも夜にやろうとは、さすがに考えてはいないらしいが。

 指揮官は自己顕示欲が強いのだろう。

 わざわざそんな風な、目立つことをする理由は、まるでまったく少しもない。

 逃げる算段をする時間。

 奇襲するところまではいかないだろうが、大人しく埋伏していたならば、それを与えずに済んだかもしれない。

 本陣の配置にしてもいい場所とはいえなかった。

 あんな狭い沢に二百五十も集めたところで、無駄に遊軍を作るだけで満足に動けないだろう。

 しかし。

「敵も随分と邪魔くさい場所に、また陣を構えてくれたものだ」

 今回に限っていえば決して悪くはない。

 武川の里へと到る谷間に架けられた橋への最短距離。

 こちらの逃げる場所といえば、それは武川の里しかありえず、意図を読むのは別段難しくはない。

 だが。

 それにしてもやはり、狗根国の本隊は、ひどく嫌らしい場所に布陣していた。

 なにせ九峪もそうだが非戦闘員が多いので、無理やりの強行突破も、とてもではないが望めないだろう。

「囮しかないかな。これは」

「囮?」

 額をかりかりと掻いていた県居の上げた顔は、吹っ切れた感じのすっきりしたものだった。

 錆びたはずの決断力も、急速に取り戻しつつあるらしい。

 九峪がうんうんと悩んでいる間に、県居はすでに覚悟を完了したようだった。

「あちらは本隊がいる沢に飛び込ませて、そこを包囲殲滅でも狙っているんだろう。なら乗ってやろうじゃないか」

「どうするんだよ?」

「簡単だ。ここにいる五十人が死兵になり、敵の本隊に突っ込む。おまえらは遠回りになるが逆側から逃げる」

「はあ?」

「たったのこれだけだ」

「……おい」

「正しい考えではないだろうが、戦場では優先順位を付けんと、死ななくてもいい奴まで死んじまうぞ」

「じゃあ、里長は死んでもいいのかよ?」

「俺だってそりゃ死にたくはないが、それ以上に子供たちを生かしたい」

 九峪と仁清。

 ふたりを見る眼はどちらも父親のものだった。

 そして。

 愛しそうに細めるその視線の先には、伊万里と上乃の姿もはっきりと映っている。

「もう一度言うが任せたぞ九峪。仁清も九峪の言うことを、俺の言うことだと思って助けてやってくれ」

「…………」

「頼む仁清」

「わかった」

 頷いた仁清だがすぐには顔は上げられなかった。

「明日までに拳鍛えておくよ。伊万里と上乃、それに仁清のことは任せてくれ。里長は顎の心配だけしてればいい」

 不細工だと自分でわかる笑みを浮かべ、九峪は県居に向かって拳の骨を鳴らす。

 ペキパキと鳴る音が何だかひどく滑稽で情けなかった。

 こんなに人を殴りたいと思ったことは、九峪のこれまでの人生では一度として経験がない。

 鼻孔の奥が堪らなくなるほどツ〜〜ンとしている。

「ああ。本当に楽しみにしてるぜ。……さてと、それじゃいくぞっ!! 進発するっ!!」

 十三年ぶりの掛け声。

 何も聞かされてはいないはずなのに、命を預けている人に、居並ぶ面々は武士の笑みを浮かべて鯨波で応えた。

「え? 親父?」

「……養父上?」

 ふたりの娘の横を県居は無言で通りすぎる。

 続く者たちも誰一人として、妻や母、あるいは子供や孫にも、一言もかけずに皆黙々と後に従った。

 闇に溶けて戦場へと静かに粛々と消えていく一団。

 焚いてあった篝火の外に出ると、夜目の利かない九峪の眼には、もう県居の大きな身体が見えなくなってしまう。

「俺は認めねぇぞ。馬鹿野郎どもめ」

 格好いい。

 そんな風に感じてしまった自分自身に、九峪は吐き気がするほど滅茶苦茶にむかついた。

 だから。

「ちょ、親――!? 九峪っ!?」

「行くんじゃねぇよ」

 追いかけようとした上乃の腕を、力任せの八つ当たり気味に引っ掴む。

「離してっ!! 離せ――」

「行くんじゃねぇつてんだろうが〜〜〜〜っ!!」

 切ない怒声。

 そもそもが九峪と上乃ならば、本来は腕力に差があるので、掴まれても振り解けないはずがない。

 なのに。

 込められた九峪の力は悲しいほど強くて、それがどうしょもなく伝わってきて、上乃は抗うことができなかった。

 ぎりぎりと掴まれている腕を、睨みつけるのが精いっぱい。

「少し時間を置いたら、里長とは逆側に逃げるぞ。そっちにも狗根国兵はいるはずだ。……伊万里と上乃」

 視線を伊万里に向けると、彼女も凄い眼で九峪を睨んでいる。

「おまえらが先頭に立って突破口を開け。仁清はそれよりもさらに先行して、逐一敵の情報を俺に持って来い」

 九峪の口調もいつもよりぶっきら棒だった。

 みんなどこかにこのドロドロとした感情を、ぶつけたくてぶつけたくて仕方がない。

 けれど。

「悪かったな上乃」

 県居から家族を任された九峪まで、そんな破滅的な感情だけで、無闇に動くわけにもいかなかった。

 腕から力なく手を離すとため息を吐く。

 長い長いため息。

 そして永い永いとすら思える逃避行の夜の、これが思えば始まりの合図だった。