火魅子伝・奇縁良縁 第二十二話 船上 (H:小説 M:九峪・亜衣・伊雅・清瑞・伊万里・上乃・衣緒 J:シリアス?)
日時: 05/15 12:27
著者: 青色


 ゆらゆらとゆらゆらと、世界は規則正しくも、ゆらゆらとゆらゆらと、不規則に揺れていた。

 九峪たちが生きているのは、矛盾だらけのそんな世の中。

 手を伸ばす。

 喩え届かなくても手を伸ばす。

「うっ……、うう………」

 無様に惨めに床に這い蹲り、声を絞り出すのさえも苦痛だが、それでも手をいっぱいに伸ばして、それを掴んだ。

 船縁。

「……ぐぅう、おお……」

 断末魔のようにぶるぶると震えながら、恨めしそうに元凶を眺めつつ身体を起こす。

「おぶっ!?」

 縋るようにもたれ掛かり、そのままかくんっと、死んだみたいにして身体を、綺麗にくの字に折り盛大に吐いた。

 内容物。

 無理にでもと食べさせられた朝食が、まだ消化しきれずに、光りぬめっているのが、気持ち悪さに拍車を掛ける。

 昨日よりはこれでもましになった方だが。

「はぁはぁ……はぁ…………」

 この生き地獄はどこまで続くのか、などとと考えてしまうと、いっそ殺してくれと思わなくもないこともない。

 錦江湾。

 そこから漁師を装った抵抗勢力の小船に乗って、さらに海の上で、別の小船にと乗り換えての船上生活も二日目。

 生まれて初めて見る雄大な海に、おっかなびっくりだった山人の伊万里たち。

 可愛いなぁ。

 と。

 にやにやと微笑んで眺めていたのが、遠い夢のような出来事で、過去の自分がなんとも羨ましくも懐かしい。

 そして強く強く憂鬱な心の底から思ったりする。

「…………」

 馬鹿じゃなかろうかと。

 完全完璧完結的に、空前絶後の七転八倒、支離滅裂の問答無用で激烈に甘かった。

 最初に変化が見えたのは、正確には誰だかはわからない。

 しかし。

 おそらくは清瑞か仁清だろう。

 敏感なふたりだ。

 とはいえ、けれども、このふたりでは、普段が普段で、無口で静かだから、ほとんど誰も気づかなかったろう。

『ううっ!?』

 だから兆候を一番最初に訴えたのは、いきなり青い顔になって、口元を両手で押さえた上乃だった。

『おぶう!?』

 どんなに可愛かろうが、どんなに美人だろうが、こういうときの声は、大体が万人等しくみんなが一緒である。

 咄嗟に海へと振り向けたのは、さすがに立派だったが、上乃は内容物をこれでもかと一気にぶちまけた。

 もうそりゃ出るわ出るわで、呆れるほど口から出てくる。

 亜衣には船に乗ったことがなければ、まず間違いなく船酔いをするから、あまり食べるなと言われていたのだが。

 朝の食事風景。

『海魚って山魚とは一味違うんだよなぁ』

『ハ、ハマりそう。ってかハマるっ!!』

 美味しい美味しいと、食べ物キャラという、新しい設定を加えそうな勢いで、上乃は鯖をばくばくと食している。

『ぐぅえっ』

『…………』

 自業自得だと語っている亜衣の醒めきった眼。

 効果音はひんやり。

 ちょっとばかり上乃が可哀そうではあるし、同情は禁じえないものの、誰も助け舟は出してやれなかっただろう。

 そもそもそれどころじゃない。

『…………』

『…………』

『…………』

『…………』

『…………』

『…………』

 気づけば狭い船上では、伊雅まで含めて、全員が全員無口になっていた。

『うぼぇおえええ〜〜〜〜』

 上乃の勇ましくも情けない声が、広い広い大海原に、やたらと空しく響き渡っている。

 連鎖反応。

 それからはバタバタと雪崩れ式に倒れていく仲間たち。

 昨日の晩はまんまお通夜みたいだった。

 平時の活動をしているのは、海人出身の豪族である宗像の、亜衣や水夫たちだけで、後はほぼ全員が死人である。

「酸……味は、……もう、いいっすよ」

 まあ、それでも、かなり、初日と比べれば、九峪は蘇生してきていた。

 もっと小さいボートに乗った経験だってあるし、喜ばしいことに、海に対しての適正は結構あったらしい。

 アウトドア派の両親にメチャメチャ感謝。

「ま、まだ、着か……、ない、ので…………すっか? ……あ、亜、あ、亜衣、…………様」

 呼吸はまだ荒い。

 だが。

 たどたどしいものの、会話ができるくらいには、気持ちが弱くなって媚びてるけど、なんとか復活してきている。

「…………」

 視界の端ではぐったりとしている黒装束が映っていた。

「…………」

 そういえばだが、昨日から、清瑞がずっと動いていないのが、ちょっとだけだが気になったりする。

 傍で黙し腕を組んで座っている伊雅の額からはだらだらと脂汗。

 伊万里たちもそうだが、力いっぱいで、いまは話しかけるなオーラ全開だ。

「もうすぐだ。もうしばらく我慢しろ。そろそろ迎えも来るし、そうすれば少しは、大きな船にも乗り換えられる」

「そ、そう、なん、ですっか。や、やった、ね」

 本気で嬉しい。

 小さくて狭い空間の方が、女の子と身体が触れてとか、マジでホントにどうでも良かった。

「ふぅ〜〜」

 人間という生き物は現金なもので、希望の光が見えたからなのか、さっきよりも身体が楽にもなった気もする。

 青い空に一面の大海原。

 慣れてくればこういうのも悪くないのだろうぁ。

 なんて。

 まだまだ気持ち悪いのは変わらないが、ちゃっかりと思える余裕も出てきていた。

「……ああ、ほら、いたぞ。二時間もすれば合流だ」

「あん? どれだよ?」

 船縁にもっさりと寄りかかって、亜衣の指差す方向を見た九峪だが、眼を細めてもそこには何一つも見えない。

 広い空間で特定の物体を見つけるのは、これがなかなかに難しいのだった。

「そっちじゃない。こっちだこっち」

 亜衣がそっと頬に手を当てて、修正をしてくれなければ、九峪は延々と明後日の方向を見ていたろう。

 冷たいけれど気持ちのいい、柔らかなぬくもりに、どきっとしたのは誰にも内緒だ。

「眼がいいんだな。よく見つけられるよ」

「海人ならそれほど難しくはないさ。それにわたしには“これ”もあることだしな」

「眼鏡?」

「天空人の遺産らしい。なんなら少しだけ掛けてみるか? 驚くほどよく先の先まで見えたりするぞ」

「どらどら」

 何気に機嫌の良さそうな亜衣から、天空人の遺産という眼鏡を受け取り掛けてみる。

 そういや魔人は聞いたけど、天空人っていうのはなんだっけ?

 懐で惰眠を貪っている鏡の精を、叩き起こして事情聴取しておこうと思いつつ、眼鏡を丁寧にかけて見てみた。

「おおっ!?」

 予め聞かされてはいても不意打ちの視界良好。

 自宅の近所に住む同級生、いわゆる幼馴染の家の前を通りかかったとき、ベランダに下着を見つけたときくらい。

 そのくらい感激しそうなほどよく見える。

 黒なんて穿いているのかとわかったときには大ショック。それがお母さんのだとわかったらばもう立ち直れない。

 そんなうれしはずかし、ときめきメモリアル。

「…………」

 いや、まあ、それはいいか。

 とにかく素敵に素晴らしくクリアーに、遠くの風景がくっきりはっきりよく見える。

「鳳凰丸。いい船だろ?」

「へぇ〜〜、九洲の船には珍しく帆船なんだなぁ」

 九洲ではまだ可動式の帆が開発されていないので、人力によるガレー船がほとんどでこれが一般的だ。

 だが。

 九峪が眼鏡越しに見ている船は、大きく立派な帆を張っている。

 しかも。

「……あれ? おいおい、そういうや、風の方向が……、え? どうなってんだ?」

「ふふふっ。さすがに驚いたか? これが一人の天災、じゃなく天才の手による、新生宗像水軍の秘密兵器なのさ」

 鳳凰丸。

 そう呼ばれているその大型の船は、悠々と風に逆らい、それなのに帆を一杯に張って動いていた。

 力強く波を切ってぐんぐんと近づいてくる。

「飛空艇の応用だ。人数はやはり必要だが、基本原理は同じものらしい」

「なんの応用だって?」

「飛空艇。そっちはここだ」

「お?」

 九峪の頬をまた動かしながら、右斜め上を指差す亜衣。

 ちなみに。

 ふたりの様子が外野には楽しそうに見えるらしい。

 船上に鮪みたいに転がる死人たちに、物凄い眼で睨まれていることなど、ふたりはまるで気づいてはいなかった。

「これも奴ら狗根国にはない強力な武器だ」

 グライダーみたいだが似て非なる流線型のフォルム。

 くるくるとくるくると、大きく優雅に九峪たちが乗っている小船の上空を、何度も何度も旋回している。

 螺旋を描きながら降下してきた。

「衣緒っ!! わざわざの出迎えご苦労っ!!」

 亜衣が両手で筒を作って、大きな声で、その飛空艇と呼ばれる、グライダーもどきを操っている少女に叫ぶ。

 声が聞こえたのか、ぐっと、親指を突き出す姿が、ひどく絵になって格好いい。

 第一印象はこれぞ黒髪の王道大和撫子。

 全体的に柔和ではあるが、どこかその顔は亜衣に似ていた。

 雰囲気が新鮮。

 いままでになかったキャラである。

「お姉様っ!! 皆さんっ!! とりあえずこれで失礼いたしますっ!!」

 言葉遣い新鮮。

「……なんかいいかも」

 この時点ですでに相当九峪のお気に入り。

 それで顔見せはすんだとばかりに、今度はくるくると、逆回しのように上昇して鳳凰丸の元へと還っていく。

「妹さん?」

「ああ、あれでもな」

「ふ〜〜ん」

 眼鏡で眺めるその先には、清純で可憐で無垢(だといいなぁ)な、ど真ん中ストライクの大和撫子が一輪。

 感無量。

 ここまでむかつく思いをした甲斐も、これだけであったというものだ。

「男は結局のところ、ああいうのが好きなわけか」

「あん?」

「なんでもない。あれが気に入ったのなら身体を鍛えておくことだ。それとへこたれないこと。これは忠告だ」

「意味が全然わかんねぇぞ?」

「そういうつもりなら、いずれきっと、わかるときがくるさ」

 九峪の顔に亜衣がゆっくりと手を伸ばしてくる。

 刹那だけだが肌を撫でると、するりと、自らのトレンドマークである眼鏡を、女は男から優しく奪い返した。

「…………」

 うっすらと薄くだけど微笑んだ顔が、堪らなくぞくぞくっとキタりなんかしたりして。

「ああ、そうだ。もう一つだけ、これはもう、警告になるのかな?」

「うん?」

「釣った魚であっても、餌はちゃんとやることだ。そうしないと飛びついて、ぱくりと指に噛みつくかもしれん」

「…………」

 いつからそうなっていたのだろう。

 眼鏡の奥。

 その瞳がまるでこれっぽっちも笑ってなどいない。

「ふふふっ。魚というのは躾ができるのかな? もっとも噛みつくくらいの魚は、それだけ活きが良いのだろうが」

「……あのさ。一応聞くけどさ。それって魚の話なんだよなぁ」

「決まってるだろ。それとも何か他に心当たりでも、オモテになる九峪殿はあったりするわけか?」

「なあ亜衣。これだけは言っておきたい」

「なんだ?」

 そうそう。

 これはあくまでも一般論としての、まるでまったく捻りのない意見だが、

「愛してるぞ」

 男が《好き》ではなく、《愛してる》と言い始めたら、それは純粋だが下心なので注意が必要の危険信号。

 世の女性は決して騙されるなっ!!

「寝言は寝て言え」

 幸いなことに亜衣女史はそこまで、《まだ》《いまのところ》間抜けではないみたいだった。

「寝ても醒めてもって奴さ」

「次から次へぽんぽんぽんぽんと、ホントに口の減らない奴だなぁ。いつもいつもそんなことを考えてるのか?」

「男には色々思うところがあるんだよ」

「女にだって思うところはあるんだよ」

 眼鏡を人差し指でくいっと押し上げると、亜衣が九峪の後ろを、そのまま、意地の悪い微笑を浮かべて指し示す。

 もちろん。

 眼は笑ってなどいない。

「おおっ!?」

 予め聞かされてはいても不意打ちの視界良好。

 伊万里と上乃。

 手を伸ばしている。

 喩え届かなくても手を伸ばしている。

「うっ……、うう………」

 無様に惨めに床に這い蹲り、声を絞り出すのさえも苦痛だが、それでも手をいっぱいに伸ばして、それを掴んだ。

 九峪。

「……ぐぅう、おお……」

 断末魔のようにぶるぶると震えながら、恨めしそうに元凶を掴みつつ身体を起こす。

 九峪の身体がふわりと浮いた。

「おい? ちょっと待て。待て待てふたりとも、俺、まだ、……本調子じゃ、ないんですけど?」

「問答――」

「――無用」

 そして最後の引き金を、

「ふ、ふたりとも!? い、伊万里さん、上乃さん、あ、愛してます愛してます、だから許してくださいっ!!」

 馬鹿な男は自らの手で引いたりする。

 そ〜〜れっ!!

 ってな感じで九峪の身体は、大きな振り子運動で力を得て、人間大砲みたいに空を、飛空艇より華麗に舞った。

「……ホントに……ホントに馬鹿な奴」

 小さな囁き。

 声すらも唯一人として聴こえず、その言葉の本当の想いも《まだ》、本人にすら伝わってはいなかった。

 芽生え育ち始めている気持ちに気づかない。

「馬鹿な奴」

 聡明な彼女であっても、ご自慢の天空人の遺産、それで自分の心まで視えないことに、気づいてはいなかった。

 だからあまり深くは考えない。

「あぶっあぶっ!? げっ!? し、塩水、メチャ辛いっすっ!?」

 無意識の判断。

 危険だと判断。

 だから。

「……ははは、……ざまーみろ、だな」

 溺れている馬鹿な男を見て、胸がすっとしたのは何故か、無理にでも深くは考えないようにした。