私の、名前……?

 

 私は……

 

 弓華?

 泊龍?

 

 どっちが、私……?

 どっちの名前が、本当……?

 

 わたしの、なまえ………

 私の、名前は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――『My name is……』05 Last episode――――――――――

―――――――――『What is your name?』―――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨の音が、静かに響いている。

 照明のついていない夜の校舎に、動くものはいない。

 

 カッ。

 

 不意に一瞬の閃光が煌いた。どこか遠くで落雷があったようだ。

 その閃光に映し出された校舎のシルエット。その二階の廊下に、文字通り影絵のように人影が二人分見えた。そのうち片方は立っているだけだったが、もう片方の人影からは銀色の弧が伸びていた。

 

 …………ドドオォォォン………

 

 それも一瞬だけだ。再び校舎は黒い塊に戻り、音が遅れて聞こえた。

 

 その塊からはもう、何も見出せなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………どうしテ……?」

 

 その悲しげな声は静かに。

 

「………どうしテ、殺さナイの……?」

 

 その悲しすぎる疑問は、静かに響く。

 

 海鳴中央と風芽丘を繋ぐ連絡通路で、剣士と暗殺者は向かいあっている。

 

 いまや隻腕となった暗殺者は、剣士の腹部に刃物を突きたて、剣士は暗殺者の首元に右手に持った刀を突きつけている。

 

「……躊躇わなイデ……そンな時間、貴方にハ無イはずデしょウ……?」

「………俺は、嫌です。弓華さん……」

 

「…………そうデスか」

 

 暗殺者は刃物から手を離し、突きつけられた小太刀の峰を押す。

 白い首が薄く切れて、僅かに血が出る。

 その程度で済んだのは、剣士がその力に抵抗し、刀を離そうとしたからだ。

 

「…………」

 

 暗殺者は無言で膝を振り上げ、刃物を蹴る。

 

「!」

 

 ………だが、剣士の腕から力は抜けず、刀はそれ以上先へは進まない。

 暗殺者はまた僅かに悲しそうな顔をし、口を開く。

 

「……………ココで殺さナけレば、私ハ高町家ノことを龍に報告シまスよ………」

「………………」

「……私ハ人形なんデス。私にハ意思があルけレど、デモ私は人形だかラ。沈黙ハ出来なイ。命令にモ逆らえナイ」

「………………」

「………躊躇えバ、失イます。……なのはちゃンが、死にまスよ………」

 

「……………!」

 

 ぎり、と、剣士の右手から音がした。

 暗殺者は、僅かに嬉しそうに、悲しそうに、そして優しげに微笑んだ。

 

「…………泣イていルのでスか………?」

「……………」

 

 二人は、さながら歪なオブジェに見えた。

 

 男の腹にはナイフがささったままで、血がじくじくと滲んでいくのが解る。

 女の左手は既に失われ、肘から先の傷口近くを剣士に強く握られている。

 

 男は首元に刀を突きつけ、離そうとし。

 女はそれを逆に押している。

 

 男は口を引き結び、暗殺者を睨んだままぼろぼろと泣き。

 女は切れた頬と首から血を流し、それでも優しげに微笑んでいる。

 

 そんな、狂気すら感じる、歪なオブジェ。

 それゆえに、美しいとさえ感じられるオブジェ。

 

 狂気を孕んだ歪な美しさ。そんな美しさを持つ、剣士と暗殺者の銅像のように見えた。

 

 二人は佇む。時間が止まっているかのように。本当の銅像になったかのように。

 

 しばしの時間が過ぎる。あまりにも辛い時間が、過ぎる―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、徐々に刀が首から離れ、同時に暗殺者の瞳から焦点が失われていく。

 

「…………どうしテ………」

 

 小さな声が響く。今にも気を失いそうな暗殺者が、不意にこぼしてしまった言葉。

 

「…………どうしテ……誰も私を殺シてくレないノ……?」

 

 それは、深い絶望に包まれた操り人形が零す、開放を望む言葉。

 

「…………私ハ………ずッと……死にたかッたノに………」

 

 悲しすぎる言葉。

 

「………………どう……し……テ……」

 

 気を失い、膝から力が抜けて倒れかけた暗殺者を、剣士は優しく、彼に出来る限り優しく受け止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(…………何故斬らなかった?)

(…………何故斬れなかった?)

(…………繰り返す気か?ノエルの時のように………)

(…………今からでも遅くない)

(…………斬ればいい)

(…………斬ればいい!)

 

「うるさいっ!」

 

 俺はそう吐き捨てた。自分の思考に、自分で牙をむいた。

 

「…………嫌だ………そんなのは嫌だ…………」

 

 きつく傷口を結び、止血する。

 

「……………絶対に、嫌だ……」

 

 弓華さんを背負う。――――そうだ。彼女は弓華さんだ。

 

(……エ?……あ……ハイ!……大丈夫でス)

(………後で、手合わセしてくださイね♪)

(…………♪)

 

 

 

(…………嫌デス。そんナの……)

 

 

 

 ―――――泊龍なんかじゃ、ない。

 

 歩き出す。先ほどから感じられるようになった、なのはの気配を辿って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつのまにか雨は止んでいた。

 なのははバス停への道で、俺に背負われている弓華さんを見ながら、言った。

 

「……弓華さん、震えてたよ。私を担いで家からここにくる時も、私を縛る時も……ずっと震えてた」

「…………そうか。………一人で忍のところまで行けるか?兄は少し、やる事ができた」

「うん。弓華さんを、助けてあげて………」

 

 なのはと別れ、別の道を歩く。ここから近い、弓華さんのマンションへ。

 

「…………はっ………はあっ………はあっ………」

 

 腹の傷は深い。背中の弓華さんの体重が重く感じる。だが。

 

「………もう迷いは無い………」

 

 貴女が震えていたのなら。

 貴女が弓華さんであるのなら。

 

「………迷う理由が無い………!」

 

 あなたの名前は………!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………気付けば、そこは私の部屋だった。

 

「………目、覚めましたか」

「…………恭也さン……」

 

 恭也さんは優しげに笑った。

 

「その傷、早く手当てしないといけませんから………だから、一つだけ、聞かせて下さい」

 

 

 

 

「貴女の名前は、なんというんですか?」

 

 

 

 

 

「…………………」

 

 私の、名前……?

 

 ……私は……

 

 弓華?

 泊龍?

 

 どっちが、私……?

 どっちの名前が、本当……?

 

 わたしの、なまえ………

 私の、名前は……

 

 

 

(おい!泊龍!)

(………泊龍か。首尾は?)

(はン―――おい泊龍、もういいから殺っちまえ)

 

 

 

(弓華さん♪)

(…………あれ?弓華さん、それ…………)

(弓華さん。私、喫茶店を経営してるんですけど、よければそこで働いてみませんか?)

 

 

 

 泊龍?

 弓華?

 

 

 

(…………弓華さん…………)

 

 耳に心地良い低音の声。帰り道、いつも私の横で、私を送っていってくれた人。

 

(な!?弓華さ―――)

 

 焦りと後悔をおびた声。夜の校舎、自分が斬られたかのような声をあげてくれた人。

 

(………俺は、嫌です。弓華さん……)

 

 断固とした声。私を殺すことを拒否し、今また私に手を差し伸べてくれる人。

 

 

 

(……大丈夫ですか?)

 

 

 

 駅。私の人生で初めて、手を差し伸べてくれた人。私に、手を差し伸べることを教えてくれた人。

 

 

 

「…………わ、私ハ………」

 

 

 

 でも、私は―――――

 

 

 

「貴女の名前がどちらであれ、俺のやることはいっしょですけどね」

 

 

 

 恭也さんはそう言って――――――私に手を差し伸べた。

 

「…………!!」

「俺にもう迷いはありません…………」

 

 そっと、私の右手を握ってくれる。

 

「……俺にはもう、迷う理由がない」

 

 握った右手を、強く強く握られる。

 

「……名前がどちらであっても」

 

 血で汚れた顔に、今まで見たことの無いほど優しげな笑みを浮かべて。

 

「この手が振り払われても」

 

 左手で、頬を撫でてくれる。

 

「何度でも、差し伸べればいいだけ………」

 

 左手が戻り、ポケットをまさぐる。

 

「俺が聞きたい名前が聞けるまで………」

 

 左手がポケットから眼鏡を取り出し、そっと、私にかけてくれる。

 

「………恭也さン、わがままデス………」

 

 涙で滲んだ視界で、それでも笑う。

 

「そうですよ………知りませんでしたか?」

 

 恭也さんはくすくすと笑う。

 

「だから、聞かせてください…………貴女の名前を」

「はい!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………プルルルル。………プルルルル。

 ………ガチャッ。

 

「どうした泊龍。定時連絡はまだ―――――」

『………泊龍?』

 

「!?だ、誰だ貴様!?泊龍はどうした!?」

『……もういないさ』

 

「何!?」

泊龍なんて名前の奴は、もうどこにもいないと、そう言ったのさ』

 

 ………ガチャッ。

 ………ツー…ツー…ツー………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   2年後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「す、すみませんチーフ、ちょっと助けてください」

「あ、うん、ちょっと待って………」

「すみません、休憩時間中に………」

「いいよいいよ。ちょっと待ってて、すぐ書いちゃうから」

 

 

 

 ………恭也さん。

 私、頑張ってますよ。日本語も、大分上手くなりました。

 

 手紙、読みました。ぼかしてあったけど、きっとこれが最後の戦いなんですね………

 

 ちゃんと、帰ってきてくださいね。ただいまって、言ってみたいんですから。

 生まれて初めて、言うんですから………ちゃんと、帰ってきてくださいね………

 

 ずっと、待っています。

 ここで、待っています。

 

 だから。

 

 

 

 

 

「あ、忍さん!」

「こんにちわー。弓華さん、義手の調子、どうですか?」

 

 

 

 

 

 ――――きっと、帰ってきてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今、幕の引かれる物語。

 幕が引かれた後も、きっと続いていく物語。

 

 もはや剣士に迷いは無い。

 彼は守りたいものを守りきったのだから。

 

 もはや暗殺者に迷いは無い。

 彼女を縛るものはもはや無い。

 

 刺青は左手と共に失われ、龍そのものも彼女の夫が滅ぼすだろう。

 彼女を縛るものは、もはや何もない。

 

 

 

 今、幕の引かれる物語。

 幕が引かれた後も、きっと続いていく物語。

 

 

 

 

 

 

――――きっと。