「時経ってなお色褪せず」 (H:ゲーム+小説 M:オリ・九峪 J:シリアス)
日時: 02/02 17:35
著者: 甚平




「ねぇ、おばあちゃん」

どこかの街の小さな家に、幼い少女の声が響いた。

少女は優しい敬愛する祖母の隣に座ってその顔を見つめている。

祖母は今年でもう八十になる。三世紀の人間にしては大変な長寿だ。

髪の毛は全て白く、顔にはしわが無数に刻まれ、目はまるで閉じているよう。

腰は曲がり背も低く、杖がなければ満足に歩くことも出来ない。

皆から年寄りと呼ばれ、家事が出来なくなったせいで煙たがれる老婆が、それでも少女は大好きだった。

「ん〜、なんだい?」

お婆さんは隣で満面の笑みを浮かべる愛しい孫に目を向ける。

すでに視力のほとんどを失っている瞳は光を感じることなく、少女を認識することすらもはや出来ない。

しかしその瞳はとても温かく、優しく、慈愛に溢れていて、少女はそんな閉じられた瞳も好きだった。

「うんとね、おばあちゃんの昔のお話がききたいの」

少女は知りたかった。自分の大好きな祖母の、若かりし頃の話を。

少女の言葉に、老婆は「ふむ」と頷き、黙り込む。

それ以来言葉を発しない祖母を見上げる少女の顔に、不安はなかった。

これが、祖母の考える姿なのだと、知っているから。

「・・・・・・そうだねぇ。それじゃあ、私の初恋の話でも、しようかねぇ」

「うん!」

祖母の言葉に、少女は笑顔で頷く。

「あれは、私がまだ十歳くらいの頃だったかねぇ」

少女の声を聞き、老婆は虚空を見上げながら語りだす。

「私はただの街娘で、あの方は、この国で一番偉い方だった」

胸に秘めた思い出を愛孫に、世界でただ一人に、そしておそらくは生涯最初にして最後の思い出話を。

「おまえも、聞いたことあるだろう?そのお方は・・・」




































「神の御遣い様じゃ」



































耶麻台国が滅び、九洲に暗い影がさした。

人々は狗根国の圧政に苦しみ、それでも抗う術を知らず、鬱々と暮らす日々。

そんな世界で、私は生まれた。

当時四・五歳頃の私はまだ幼く、なぜ母が悲しみ、父が苦しむのかわからなかった。

唯一つわかったことは、『くねこく』が二人をいじめているということと、自分が笑えば、両親が微笑んでくれるということだけだった。

『耶麻台国。・・・あの頃に戻りたい、そうすれば・・・っうう』

悲しみの言葉は、すでに父の口癖となっていた。

母は多くを語ろうとはしなかった。ただ一つ

『あなたにも、見せてあげたかった。私達の国を』

そう言った時の母の顔を、私は今でも忘れず、そして生涯にわたって忘れないだろう。

ある日、町の中央で数人の狗根国兵が大音声で叫んでいた。

外で遊んでいた私はそれが気になって人だかりに駆けていった。

人壁がすごくて中心を見ることは出来なかったが、それでも話の内容を聞くには十分であった。

「つい三日前、旧国都であった耶牟原城が、完全に水の底に沈んだ!以後、あそこは我らが狗根国の『征西都督府』となるっ!」

そのときの私は、彼らが何を言っているのかわからなかった。

気にすることなく家に帰り、そのときの話を両親に聞かせた。

「!っああ、そんな・・・・・・っ」

「耶牟原城が!?耶牟原城が、水の底に沈んだ!?」

突然母が泣き崩れ、父が膝から崩れ落ちた。

「お父さん?お母さん!?」

私は突然のことに驚き父の体を支える。

いつもはしっかりとしている父の体は、まるで糸の切れた人形のようで。

その重さに、私はあえなく屈した。

「んんん〜〜!」

何とか父を座らせると、父は心ここにあらずといった様子で

「そんな・・・耶牟原・・城が・・・」

そう、呟くばかりだった。

「耶麻台国の・・・火は・・・もう・・・・・っ」

「お父さん・・・お母さん・・・・・・」

悲しみに暮れる両親を前に、私は何も出来なかった。













初夏。

私は十歳になった。

狗根国の圧政にも慣れ、苦しいながらも両親との生活を続ける私は、その日は珍しく畑仕事をせずに家にいた。

家には父と母、それと三人の姉弟。

皆、静かに座っている。

「神の遣い様が率いている復興軍が、この街に近づいとるらしい」

父は、満面の笑顔で言った。

数ヶ月前起きた反乱は、その予想を大きく裏切り、快進撃を続けていた。

街を一つ陥落し、この間は美禰の街を陥落させ、そしてその復興軍に恐れをなしたこの街の狗根国兵は文官を置き去りにし尻尾を巻いて逃げ出した。

そう、この街に今現在、狗根国兵が居ないのだ。

復興軍が近づいてくると聞いてからしばらく。

  バンッ!

「忠治、忠治〜!!」

家の戸を荒々しく開け、知り合いのおじさんが父の名を叫びながら土間に入ってきた。

「田吾作、どうした!?そんな慌てて」

肩で息をするおじさんに父は大急ぎで駆け寄る。

おじさんは何か言おうとしているが、呼吸が荒く言葉にならない。

「田吾作、まずは落ち着け!」

「はぁ・・はぁ・・ちゅ、忠治・・・・・こ、こんなところでのんびりしている場合じゃないぞっ!?」

おじさんは父の肩を掴んで揺さぶる。

突然のことで父は驚くが、何とかおじさんを落ち着かせると話を聞き始めた。

「それで、田吾作よぉ。いったいどうしたってんだ?」

「ば、ばかっ。んなおちつ「わぁぁぁぁぁぁ」」

突然外から大歓声が上がった。

「な、なんだぁ!?」

「ああああ、来ちまいやがった!」

父や私達は驚き、おじさんは舌打ちした。

「おい、来たって、何が来たんだ!?」

父の言葉におじさんはイラつきながら

「神の遣い様が率いる復興軍に決まってんだろ!!」

私達は、おじさんを突き飛ばして駆け出した。







「あっ・・・」

目の前に広がる光景は、どこまでも続く、人の壁だった。

背の低い私は当然その先にある、本当にみたいものが見れない。

隣では父が前に出ようと躍起になっている。

  ワアアアアアアアアア

どうしたものかと考えたときに、歓声が一際大きくなった。

あまりの大きさに、私は手で耳を塞ぐ。

耳を塞ぐ指と指の間から、声が聞こえる。

その声に混じった言葉を、私は聞き逃さなかった。

「あっ、久住!?」

私は宮殿の方角に向かって駆け出した。

母の呼ぶ声が聞こえたような気がしたが、かまわず私は駆けた。





『神の遣い様、九峪様』





確かに、そう聞こえた。

走りながら私は壁に穴がないかを探す。

どんな穴でもいい、そこから私は中に入るのだ。

もうだいぶ走った。

さすがに疲れ始めた頃、僅かな隙間を発見した。

(これだっ!)

私は迷わず飛び込んだ。

「むぎゅっ」

「もきゅっ」

「んん〜〜!」

「たあっ!」

・・・苦しかった。

周りからももみくちゃにされながらも、私は壁を越えて大通りを見られる場所までこれた。

荒い息を落ち着けて、私は視線を門の方向へ向ける。

一団は、もうそこまで来ている。

ドキドキする。

こんなにドキドキしたのは生まれて初めてだった。

心臓の鼓動が、この騒がしい中でもよく分かる。

「あっ・・・」

先頭を歩く男。

男が着る紺色の服は、あまりにも奇抜な服だった。

今まで見たことのない服、それを着た男が『神の遣い』だと、私は直感した。

だって、こんな『変な男』が普通の人であるはずが無い。

神の遣いを先頭に復興軍がどんどん近づいてくる。

私は周りに居る人たちのように叫ぶようなことはせず、ただただ神の遣いを見ていた。

「・・・九峪・・様」

そう確か、神の遣い様の名は、『九峪』といった。

それを思い出したと同時に、私の口からその名がこぼれた。

それに気づいた私はとっさに両手で口を押さえた。

私のような小娘が神の遣いの名を呼ぶことが、恐れ多かったからだ。

目の前まで神の遣い様は進んできていた。

それは、どことなく不思議な光景。

狗根国の将は、皆馬なり馬車なりに乗って偉そうにしている。

しかしこの神の遣いは一般兵と同じように自ら歩いている。

(なんでだろう)

呟きは私の心の中だけに隠し、口を押さえたまま上目に神の遣いを見上げる。

神の遣いは気付かない。

当然だ、気付くはずがない。

神の遣いは目の前を過ぎた。それを私は静かに見送る。

気付いてもらえなかった。

そんな当たり前すぎることに、私はどうしてか落ち込んだ。






















私が始めて神の遣い様を見てから一月。街は浮かれていた。

なんといっても、この九洲の地から狗根国を追い出すことに成功したのだ。

浮かれない方がおかしいだろう。

父と母は、陽気に笑って普段ならば慎む酒を楽しそうに飲んでいる。

そう、楽しそうに、本当に楽しそうに飲んでいる。

弟達も、はしゃぎながら踊っている。

そして、私も。

皆みたいにはしゃいでいるわけではないけど、心はとても高揚としている。

両親が嬉しそうに、楽しそうにしているのが。

弟達がはしゃいでいるのが。

それを成したのが、神の遣いであることが。

まるで我がことのように、嬉しく、誇らしかった。

「九洲の・・火は・・・まだ消えていなかったんだ」

いつか母が言った悲しみの言葉を、今度は逆の意味で私は言った。

そして、父と母が語って聞かせてくれた耶麻台国の話を、思い出す。

「私も・・・見れるのかな・・・・・」

失われた故郷を。

「それとも・・・」

これから興る『私達の国』を。

耶麻台共和国。それはこれから興る新しい耶麻台国。

神の遣い様が自ら付けた、『共に和して営んでいく皆の国』という意味の国。

「見たいな・・・」

そんな言葉が口から出た瞬間、その想いが私の中で膨らんでいった。

私が生まれた時には、もう九洲は地獄と化していた。地獄の中で、私は生まれた。

昔は、何度も反乱が起きたらしい。でも私が生まれた頃には、もうあまり起きなくなった。

変わったのは、ほんの少し前。この世界に『あの方』がきてから。

初めて、光を見た気がした。

威張り散らした狗根国兵を、鼻持ちならない文官どもを。

この街から追い出してくれた。

ただ一度しか見たことのない神の遣いの顔を、私は思い浮かべる。

彼の顔は、思っていたのよりもずっと普通だった。

威張らないし、偉そうでもない。普通というのが、率直な感想。

でもきっと、普通だからあんなに素晴らしい人なのだと思う。民のことをちゃんと理解しているから、きっと普通なのだ。

いや。普通だからこそ、民のことを理解できるんだろう。

普通だから、私達は今笑えるんだ。

そう、漠然と思った。

「・・・・・・・・・よっと」

立ち上がり、宮殿に向かって小走りに駆ける。今はなんとなく、あの方のいる宮殿の近くに居たかった。

タッタッと軽快な足取りで、走る。途中復興軍の人が見世物をやっていたけど、無視して走る。

「・・・・・・着いた」

大きい。近くで見ると本当に大きい。

宮殿をこんなに間近で見るのは生まれて初めてだった。前までは狗根国兵がいて、何をされるかわからなかったから。

ここにきて、改めて思い知る。私はしがない町娘、質素な平小屋が似合う平民。対して彼は、こんな大きくて豪奢な宮殿に住む神の遣い。

格の差を、見せ付けられた。

「・・・ふぅ」

知らず、ため息が漏れる。そんなことはわかっていた。

「帰ろう・・・」

なんとなくここに着たけど、もういい。そろそろ遅いし、家族も心配するだろう。

私は踵を返して

「おい、何者だ!」

「!?」

え?

振り向く。見張りの兵士だろうか、こちらに向かって走ってくる。

迂闊だった。狗根国兵じゃないとはいえ、彼らもまた兵士なのだ。こんなところをうろついている人間を取り締まるのは当たり前だ。

「何者かと聞いている!」

「う、あ・・・わ、わたし・・・」

怖い形相で睨む男に、私は怯えた。声は言葉にならず、意味の無い言葉は唯の声になる。

近づいてくる兵士に対して、私は半歩下がった。意識したわけではなく、生存本能がそうさせた。

しかしそれは、兵士を刺激させるには十分だった。

「怪しいやつめ。こい!」

「い、いやああ!!」

腕を乱暴につかまれて、私は悲鳴を上げた。

手足をばたつかせて兵士の拘束を解こうとする。

「いや、離して!!」

「お、おい、こら!暴れるな!!」

どんなに暴れようと、そこは子供の女と大人の男。あっという間に取り押さえられてしまう。

なおも暴れるが、徐々に体力が無くなっていき、私は暴れるのを止めてしまった。

「はぁ・・・はぁ・・・くそ。手間取らせて」

苛つきも露に、男はそう言った。

「まったく・・・」

そのまま、私は兵士に連れて行かれそうになる。

もう暴れない。暴れる気力も無い。

なんだ。何も変わらない。狗根国も、復興軍も。

聞いたほどに、いいものじゃなかった。

心の中に、失望が広がっていく。

そんなときだった。

「おい、何してんだ、お前!?」

若い男の声が、聞こえた。

私を捕まえている男が背筋を伸ばす。どうやら偉い人が来たようだ。

もうどうでもいいけど、私ものろのろと首を上げる。

「・・・え?」

間の前にいたのは。

「く、九峪様、藤那様!いえ、その・・・」

目の前には、復興軍の最高司令官である神の遣い様と、火魅子の素質を持つ藤那様がいた。

九峪様はどこか怒っているような顔で、兵士を問い詰めている。

藤那様は、少し離れた場所からそれを興味深げに見ている。

九峪様は怒鳴らないけど、それでもすごく怒っているようだった。

兵士はそれに「滅相もございません」やら「そんなつもりは・・・」とか、言い訳をしている。

しばらくして、言い合いが終わった。どうやら兵士の前面敗北らしく、私は拘束を解かれた。

捕まれたところがひりひりする。少し後になっているみたいだ。

「なぁ」

「へ!?」

突然、九峪様が私の顔を覗き込んできた。驚いた私は、間抜けな声を出してしまった。

びっくりした。九峪様の顔がいきなり映ったんだから。

「大丈夫か?」

気遣わしげな調子の顔と声に、私の気はどんどん落ち着いていく。

相手は神の遣い様。失礼の無いように。

「あ、あの・・・はい。だ、大丈夫です」

・・・全然駄目だった。緊張しすぎて変な感じになってしまった。

(ど、どうしよう・・・。これじゃ)

不安になっていく。このままじゃあ私打ち首になる。きっと私だけじゃない。一家で打ち首だ。前に狗根国がそんなことをしていたのを見た。

あれはたしか無礼を働いたとかで、一家みんな殺された。気の台に、綺麗に頭を並べられて。

(や、やだよう・・・)

さっき以上に、怖くなった。自分と、家族が死んで首を晒されるのを思い浮かべて。

「お、おい!?どうした!?」

九峪様が何か言っているが、よく聞こえない。

唯頭が真っ白になる。目の置くが熱くなって、我慢できない。

「あー・・・・・・」

困ったような、そんな声。けれど気にするほどの余裕が、私には無い。

  ぽん

不意に、頭に温かい感触がした。

「ひっ・・ひく・・・うぅ、ぐす・・・・・・?」

なんだろう。なぜか落ち着く。

頭の温かさは、まるで私の頭を撫でるように動いた。驚いたけど、それ以上にくすぐったくて、そして気持ちよかった。

「ひく・・・・・く、くたに、さま・・・?」

九峪様が、私の頭を撫でていた。大雑把だけど、優しい動き。

涙目に映る九峪様の顔は、ちょっと困った顔をしていた。

「あーその、なんだ・・・。とりあえず、元気出せ。な?」

出てきた言葉は、そんな気さくな言葉だった。一軍を束ねる者とは思えないような、そんな普通な言葉だった。

また、目頭が熱くなる。だめだ、また、涙が・・・。

「・・・ぅ、ふええええ」

「お、おいおい・・・まいったな」

九峪様の困惑もそっちのけで、私はまた泣いた。けれど今度は恐怖からじゃなくて、なにか、温かいものを感じて。

そうやって、私はしばらく泣いたのだ。


























私と九峪様は、誰もいない宮殿の庭に来ていた。花も無い、唯草が生えているだけの無味乾燥な庭だった。

宮殿の庭といえば、もうすこし華やかだと思っていた。けれど実際はそうでもなかった。

周りに灯かりは無い。けれど月が出ているから良く見える。

「まあ座れよ」

芝の上に座った九峪様が、そう言って自分の横をぽんぽんと叩く。

私は恐る恐るそれに従った。神の遣い様の横に座るなど恐れ多いが、それ以上に『座りたい』という欲求のほうが大きかったのだ。

草の上は、とても冷たかった。ひんやりとして、けれど気持ちの良い涼しさだ。

「落ち着いたか?」

「は、はい・・・」

緊張しっぱなしの私に、九峪様は苦笑する。

「ホント驚いたぜ。なんせいきなり泣くんだもんな」

そう言って笑う九峪様の横で、私は身を小さくした。きっと私の顔は赤いのだろう。

私自身、あんな風に泣くなんて思ってもいなかった。正直言って恥ずかしい。

うう、穴があったら入りたいよ・・・。

「で、どうしてあんなところにいたんだ?」

自分の情けなさに悶絶していると、九峪様がそんな事を聞いてきた。

「それは、あの・・・」

『なんとなく貴方のお側に居たかった』―――などと言えるはずもなく。

「その・・・そう、お礼!お礼を言いたかったんです!」

結局出てきた言葉は、そんなものだった。

「お礼?」

「はい、お礼です。私達を救ってくれた」

お礼が言いたかったというのは、本当。機会があれば言いたいなと、思ったことは事実だ。

そんな機会は永遠に来ないだろうと思っていたけど。

私は姿勢を正して、九峪様に向きなおる。私のまじめな雰囲気を感じ取ったのか、九峪様の表情も少しだけまじめになる。

・・・こうして見ると、本当に普通な顔。

けれど、そんなことは間違っても口にしない。九峪様が優しい人だとわかったが、それでも失礼だろう。

そんなことよりも、今は伝えるべきことを。

「私達を狗根国から救ってくれて、ありがとうございます。九峪様」

失礼の無いように選んだつもりの言葉は、果たして大丈夫だっただろうか?

本当は上等な文句でもって言いたかったが、しがない町娘である自分にはこれが限界。それでも、誠意のある言葉だと思う。

心臓の鼓動が大きくなる。緊張しすぎて九峪様の顔が見れない。

―――もしかして、打ち首?

そんな愚にも付かないようなことを考えていると、九峪様は苦笑を浮かべて。

「ありがとう、か」

と。そう一言呟いた。

その苦笑の中には、困ったような雰囲気がある。

「あの、九峪様?」

不安になった私は、九峪様の名を呼んだ。馴れ馴れしいかとも思ったが、呼ばずにはいられないほどに、私は不安なのだ。

九峪様は頭を振って

「俺は何もしてないよ。たしかに俺が来たことで勝つことが出来たかもしれない、そういう自負もある」

そう言って、空を見上げる。その瞳には月が映っていた。

「けれど、お礼を言われるのは俺なんかじゃなくて、戦ったみんなだ。皆がいなかったら、きっと勝てなかった」

夜空を見上げて、九峪様はそう言った。その瞳は、どこかもの悲しそうな色をしていたように見えた。

『自分はなにもしなかった』。九峪様はそう言った。

でも私は、そうは思わない。

「そんなこと無いと思います」

だから、私はそう言った。

九峪様がこちらを向いた。じっと私の顔を見る。

「私、頭良くないから上手く言えないけど・・・戦ったとかそういうのじゃなくて、きっとみんな『九峪様』だから戦ったんだと思います」

「俺だから?」

聞き返す九峪。

「九峪様が総大将で、皆を引っ張っていったから、だれも諦めないで戦えたんだと思います」

「・・・・・・・・・」

「九峪様とこうして話して、わかったんです。九峪様は優しいから・・・泣いちゃった私の頭を撫でてくれたから。・・・・・・だから、みんな戦えたんだと思います」

きっと、九峪様以外の人じゃ撫でてくれなかった。こうして二人だけで話も出来なかった。

全部、『九峪様』だから、できたのだ。そんな九峪様だから、みんなは付いていった。

きっと、そういうことなのだ。

「・・・そっか」

そう呟いた九峪様の顔は、晴れやかだった。

とても眩しい、笑顔だった。

「ありがとな」

言って、私の頭に手を乗せる。私はそれを避けなかった。

撫でられる。くすぐったい。嬉しい。

暫くそうしていたけど、不意に九峪様が手をどけた。

手の感触が名残惜しくて、少し残念に思った。

「もう遅いから、帰ったほうがいいな」

もうそんな時間か、と思った。ここに来た時点でかなり遅かったのだ。

きっとみんな心配してるよね。

「はい・・・」

でも正直言えば、もう少しここに居たかった。












「それじゃあ九峪様。さようなら」

そう言って、私は門を出ようとする。

後ろ髪を引かれる思いで。

「ああ。・・・と、忘れてた」

「?」

九峪様が私を呼び止める。なんだろう?

「名前、なんていうんだ?」

「え?」

今、なんて?

「だから、お前の名前だよ」

苦笑しながら、九峪様はわざわざもう一度言ってくれた。

私は慌てて

「は、はい!あの、久住、です・・・」

自分の名前を、言った。

九峪様は小さく「久住・・・」と呟き。

「・・・ん。わかった、久住な」

今度はちゃんとした声で、私の名を言った。

それが。

堪らないほどに。

嬉しかった。

「じゃあな、久住。気をつけて帰れよ?」

「はい!」

そう言って、私は門を、宮殿を出て行った。

暫く歩いて、振り返る。月明かりがあるとはいえ、もう九峪様の姿は見えなかった。

「九峪様・・・」

一言呟き、私は駆け出した。

今度は振り返ることなく。




























それから、私が九峪様と会うことは二度と無かった。

夜の出会いから数日後。あの方は、もとの世界に帰られたのだ。

「うそ・・・」

それを知ったとき、私は泣いた。

わき目も振らずに、泣きじゃくった。

けれど、あの暖かい手が撫でてくれることは、もう二度と無かった。

無かったのだ。

そして気づいた。何故自分はここまで悲しいのか。

何故あそこまで泣いたのか。

これは、私にとっての。



























『初恋』だったのだ。


































「それから私は大人になり、別の人を好きになった。結婚して子供も出来て、孫も出来た」

長い追憶は、佳境を迎えていた。

「私はお爺さんに出会えてよかった。なんたってお前に出会えたんだからねぇ」

そう言って、老婆―――久住は愛しい孫娘の頭を撫でる。

かつて、あの人がそうしてくれたように。

孫娘は「えへへ」と笑って目を細める。とても気持ちよさそうに。

昔の私もこんな感じだったのかなと、久住は思った。そうであったなら良いと、思った。

「ねぇ」

「ん?なんだい?」

孫娘は久住を見上げる。今度の顔は何処か真剣な―――それでも愛嬌のある、そんな顔で見上げる。

久住はどうしたのだろうと首を傾げる。

「おばあちゃん、今でも好きなの?」

孫娘の言葉は、意外すぎるものであった。

それでも、ゆっくりと考える。

「―――そうさねぇ」

でも、きっと考えるまでも無いことだ。

「―――好きなのかもしれないねぇ」

そう。自分はきっと、まだあの青年のことが好きなのだろう。

年老い、孫も出来たこの老婆は、もしかしたら今でもあの青年に恋をしているのかもしれない。

そう思うと、なんだかおかしかった。

「じゃあじゃあ、おじいちゃんとどっちが好きなの?」

「それはもちろんお爺さんさ」

けれど、自分は変わったのだ。子供から大人へ。大人から老人へと。

移ろい行く月日はあまりに長く、淡い恋心は憧れとなった。

「お前も、お爺さんのことは好きだろう?私もそうさ」

「うん!」

元気良く応えて、孫娘は私に抱きつく。

「でもすごいね。お婆ちゃん、神の遣い様に名前呼んでもらったんだ」

そう。それこそが、この八十年の人生においてきっと一番の誇りだ。

名前を呼んでもらえたときの、あの嬉しさは、今でも覚えている。

「そうさ。お婆ちゃんはすごいんだよ」

誇らしげに言ってみる。なんとなく若返った気分だ。

「うん!・・・あ、お母さんがよんでる」

そう言って孫は母親のところに向かった。

それを見送って、久住は視線を外に向けた。

この家はあのころの家と同じだ。八十年の間に何度も作り直したが、同じ場所に、同じように建っている。

久住は立ち上がって杖を突きながら外に出た。この家の裏には、草が生えているのだ。

そう、あの宮殿の庭のように。決して広くないその家の裏は、久住のお気に入りの場所だった。

目はもう殆ど見えない。それでも躓くことも、ぶつかることも無く歩く。何十年もこの短い距離を、今と同じように歩いたのだ。

目をつぶってたって歩ける。

靴が、草を踏む音がした。もう少しだけ進む。

程よく進んだところで、久住はゆっくりと腰を下ろした。

ひんやりとした感触が、気持ちいい。

「・・・ふぅ」

ここまでくるのが大変になってきた。しかしそれを苦だとは感じない。感じたことが無い。

そよ風が頬を撫でる。見えない目を、そっと閉じる。

思い浮かべるのはかつて好きだった、いや、今でも好きな一人の青年。

あの頃と変わらない容姿で、笑顔で、彼は立っていた。





  『―――久住』





「・・・はい」

声が、聞こえたような気がした。もちろんそれは幻だと、わかっている。

もうこのときでしか、会えなくなった。

でもこのときならば、あの姿も、笑顔も、そして声すらも、鮮明に思い出せる。

八十年の月日から、この場所は私の中の彼を守ってくれたのだ。

もう何度ここにこれるかわからない。

婆は十分に生きた。生きすぎた。夫は死に、私は残った。

もう迎えも近かろう。

それでも。

「・・・・・・九峪様」

私は生きます。

貴方様が守ってくれた、この命と、この国で。

「おばあちゃーん。ごはーん」

「・・・ああ、わかったよ。まってておくれ」

孫娘が呼んでいる。

久住は立ち上がり、服に付いた草をはらった。

そして歩き出し、振り返った。

「・・・また、きますね。九峪様」

昔の、まだ幼かったころの口調で、そう言った。

あと何度これるかわからない。それでも明日、またこよう。

生きている限り、何度でも。

貴方に、会うために。

久住は、今度は振り返らずに歩いていった。

愛する子らの、待つ家へ―――









〜fin〜