九洲炎舞 第十六話「夜明け」 (H:ゲーム+小説 M:九峪・志都呂・伊雅・案埜津・星華・キョウ・オリ J:シリアス)
日時: 03/21 02:03
著者: 甚平



木製の戸をすっと、静かに閉める。

戸の開閉を無音で行うのは一つの作法であり、かつては耶牟原城にて文官を勤めていた父を持つ志都呂は、幼少より礼法作法を学んできた。

この世界で、国都である耶牟原城に勤める文官は、現代ではエリート官僚にあたる。

当然高い身分になり、その家族もまた平民の枠を超える。

そういう連中は大抵、自分の地位の高さを農民などの下層民に見せ付けるものだ。

実際、耶牟原城で働く文官の中には、そういう者達が多くいた。

相手を見下し、尊ぶことをしない。

だが相手が例え身分の低い者であっても、礼節を忘れてはならない。それが秦野の信条だった。

だから秦野は誰であっても敬語で話し、相手を敬う。

礼は万民に尽くすものだと、志都呂はずっと教えられてきた。

その教えを、志都呂は実直に守ってきた。

相手が唯の山人だろうが、農民だろうが、そんなことは関係なしに接してきた。

それは耶牟原城が陥落して、隠れ里で暮らすようになっても変わらなかった。いや、そのころからは余計に礼を大切にするようになった。

大変な時代だからこそ、礼の心を失ってはならない。志都呂は常々そう思っているのだ。

だから戸の閉め方一つにも、注意を忘れない。

この板一枚の向こうに眠っている、男を起こさないようにと。

戸を閉めた志都呂は、ゆっくりと立ち上がった。そして板張りの廊下を、またゆっくりと歩き始める。

屋敷の外郭に設けられた廊下を、風を感じながら歩いていく。さわやかな、澄んだ微風だ。

「・・・おや?」

数歩先の曲がり角から、案埜津がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

藁で編んだ小さな籠を持ち、中には山で取れた山葡萄や野苺などの木の実が収められている。

それだけで案埜津がここに来た理由を察した志都呂は、穏やかな笑みを浮かべた。

「やあ案埜津。木の実を持って、お見舞いですか?」

「・・・そう」

声をかけられた案埜津は、志都呂を見上げて呟くように返事した。

案埜津はお世辞にも社交的とは言えない。お喋りもあまりしないし、賑やかよりも静寂を好む性格をしている。

その案埜津だが、今の返事は性格云々を抜きにして、明らかに力がなかった。

「九峪さんなら、まだ寝ていますからね。起こさない様に、気をつけてください」

志都呂の言葉に、案埜津は僅かに悲しそうな顔をした。

「・・・わかってる」

悲痛な呟きに、志都呂は心配になる。

見ると、案埜津の目元は赤く腫れている。長い時間、涙を流した証拠だ。

表情からも疲労の色が窺え、案埜津が憔悴しているのが容易にわかる。

それでもこうして、木の実が入った籠を両手に持って九峪の部屋を訪ねる案埜津はあまりに健気で、そして脆く見える。

このままでは案埜津も疲れ果てるだろうと、志都呂は心底心配だった。

とは言え、自分に出来ることなど高が知れている。精々、こうしてささやかな話し相手になることくらいだ。

それでも、そうすることで案埜津の負担が少しでも軽くなるのなら、無意味ではないだろう。

「・・・・・・九峪、いつになったら目を覚ますのかな」

誰に向かってでもなく、案埜津は言葉を口にした。

それは質問ではなく独り言も同然なのだが、その言葉は誰かの回答を期待しているものだと言うことを、志都呂は理解した。

だがその言葉への答えを、志都呂は持たない。九峪がいつ目覚めるか、それを知る者はまさしく神くらいのものだろう。

「・・・直に、覚ましますよ」

持たないから、そんな言葉しか出せない。気休めにもならない気休めだと、理解していても。

だがそれだけが、九峪を取り巻く人々の気持ちだった。

「・・・そう、だよね」

肯定する言葉にも、やはり元気はない。

直ぐに元気になるなど、最早信じられる言葉ではなかった。その言葉を言い続けて、聞き続けて、もう三日も経ってしまった。

それでもそう信じなければ、気持ちはどんどん沈んでいってしまう。

だから例え、気休めにもならない無責任な言葉であったとしても、彼らはこの三日間言い続け、聞き続けたのだ。

「・・・じゃあ、私はもう行くから」

「そうですね。長く立ち話もなんですし、私も用事がありますから」

そう言って、志都呂は横にずれて案埜津に道を譲る。

その横を案埜津は歩いていく。

「・・・あ、そうです。もし九峪さんが目を覚ましたら、父上や伊雅様にお伝えくださいね」

案埜津の背中に向かって、志都呂は思い出したように伝えた。

それに案埜津は小さく頷き、九峪の部屋に入っていった。

開いた戸が閉められるのを見届けた志都呂は、再び歩を進める。

曲がり角を曲がって歩いていくと、今度は前方から衣緒と羽江が歩いてくるのが見えた。

しかも衣緒の両腕は小さな籠を持っており、その中には無花果の実などが盛られている。

それだけで志都呂はまた察して、苦笑した。

「やれやれ・・・。愛されていますね、九峪さん」

眠りこけた男に向かって呟き、志都呂は近づいてくる二人の少女に挨拶をした。
















戸津浦は、嘗てない慌しさに見舞われていた。

隣里の武川が、狗根国は左道士の呼び出した魔獣によって攻め入られたとの報が二人の歳若い使者によってもたらされてからは、その受け入れ準備に追われていたのだ。

戸津浦の保有する戦力は僅かに三十弱。

その殆どが彼らの救出に向かってしまい、残った者は逃げ延びた人たちのために、粥や水炊き鍋などの、大量の食事の用意に駆り出されていた。

何より、武川には副王がいるのだ。粗相など出来るはずもないし、目通り叶えるのはこれが唯一かもしれないのだ。

それに彼らは生粋の九洲人。同胞を見捨てることなど出来ないし、やらない。

兵士達が出立して一刻ほどしてから、彼らは里にやってきた。殆どの者が疲れ果てた顔をしており、だがその中に助かったことへの、安堵の表情が浮かんでいた。

脱出してきた人々の中には怪我人や病人も少なからずおり、里に到着した瞬間に倒れてしまった者もいた。

そういった者たちは、使われていない倉庫を臨時の病院として、そこに収容された。

出来た料理はどんどん振舞われ、武川の住民はそれに涙を流しながら食し続けた。

彼らのそんな姿を見ただけで、どれほど悲惨なものだったのかと戸津浦の住民は悲しくなり、彼らを救うことが出来たことを心底嬉しく思った。


暫くして、里には雨が降った。朝方の気温の変化のせいだろうが、居こぼれるほどの人間がいる里では、武川の住民を雨宿りさせることの出来る場所などなく、てんやわんやになっていた。

そんな時、数人の兵士が雨の中帰還してきた。傷だらけの男―――九峪を抱えて。

直ぐに治療する必要があったのだが、病院自体はさほど大きな建物ではない。元々は唯の倉庫であるし、すぐに満員になってしまったのだ。

仕方なく、九峪はその里の長の家に寝かせられることとなる。

本来ならばたかが一人のためにしてやるようなことでもないが、武川の里長である秦野と伊雅、そして星華の要望もあったのだ。

秦野はともかく、伊雅と星華に言われては断る理由もない。里長は潔く了承した。

治療が功を奏したのか、九峪は一命を取り留めた。完治するにはまだ数ヶ月かかるだろうが、案埜津は泣いて喜んだ。

それから三日。九峪は未だ目を覚まさない。原因は不明。

動かない分エネルギーの消費が抑えられて餓死するということはないが、このまま目を覚まさなければ栄養剤など存在しないこの時代において、待っているのは確実な『死』だ。

一時は喜んだ案埜津も、次第に不安になっていった。案埜津だけではない、星華や宗像の少女達。志都呂も心配しているし、伊雅や秦野、キョウは肝を潰さんばかりだ。

それでも九峪は未だ眠り続けている。案埜津たちに出来ることは、唯待つことのみであった。


こうして、武川襲撃は幕を閉じた。

多くの犠牲と、人々に深い傷跡を残して。

























「残った戦力は二十弱・・・・・・戸津浦と合わせても六十に届かんとは」

秦野と向かい合う形で座っている伊雅は、一枚の絹布に目を通して唸りを上げた。

ここは戸津浦の里長の宅。その一室であり、現在は伊雅の寝室となっている場所である。

そこには現在、秦野とキョウの二人がいる。今後のことを話し合うために、集まっているのだ。

戸津浦の里長は出席していない。武川の住民の処遇について指揮を執っている最中だからだ。

「あの戦いで三十強もの兵が亡くなりました。武器も殆どが使い物にならなくなってしまいましたし・・・・・・これでは、反乱さえ起こすことが出来ません」

「むぅ・・・・・・弱ったな」

ほとほと困り果てた様子で、伊雅はまたもや唸り声を上げた。

襲撃される前にあった武川の里の保有戦力は六十強。戸津浦と合わせれば、百近くまでになった。

それが今ではどうか。

武川勢・二十弱。

戸津浦勢・三十弱。

双方合わせて五十強。武川の嘗ての保有戦力よりも劣っている始末だ。

しかも兵力だけでなく、物資までもがなくなってしまった。一番痛いのは武具の損失だ。

戦争に敗れてからというもの、鉄製の武器はそのほとんどを狗根国によって没収されてしまった。

おかげで残ったのは鉄剣よりも遙かに脆い青銅剣。それですら失ってしまったのだ。

これでは到底戦うことなど出来ない。

『神の遣い』と天魔鏡、火魅子の素質を持つ星華を有してさぁこれからという時に、思いもよらぬ横槍が入ったものだ。

「まさかここで躓くとは・・・」

「けど、なくなったものは仕方がないよ。それよりもこれからどうするかが問題だ」

「そうですな。ここまで痛めつけられてしまったのですから、表立った行動は出来ませんぞ。もし連中に嗅ぎ疲れでもしたら、それこそ武川の二の舞になりかねません」

キョウの言葉に同意した秦野は、目下の心配を口にした。

「武川を失った今、ここ戸津浦を今後の活動の中心とするしかありません。ですがそれでも、組織としての活動にはかなり制限がかけられてしまいました」

悔しそうに言った秦野の言葉に、伊雅は渋面になった。

たしかに現状では、組織としての行動を大きく制限されてしまったのだ。

もし大々的に動けば、戸津浦も壊滅されてしまうだろう。いくら戦力があろうと、魔獣相手では流石に分が悪い。

伊雅自身、あの戦いで死ぬことを覚悟したのだ。今回は助かったが、次も助かるとは限らない。

民にしても、今回で限界だろう。もう一度襲撃されたら、おそらくは二度と立ち上がることは出来ない。

そんなことは、伊雅でも理解できる。

だが戦力の建て直しはしなければならない。でなければ、祖国復興などただの夢物語になってしまう。

それだけは、決して容認できない。

「一体どうすれば・・・キョウ様は、何か考えがおありで?」

困り果てた伊雅は、藁にも縋る思いでキョウに話を振った。

この場で一番地位が高いのはキョウである。それにキョウは数百年という長い年月を生きた、神器の精でもある。

キョウの指示にならば、おそらく二人は素直に従うだろう。

「ハハ・・・・・・実はオイラも、どうすればいいか・・・わかんないんだ」

だがキョウは、愛想笑いを浮かべながら無慈悲なことを言ってのけた。

キョウの言葉に、あからさまな落胆を見せる男二人。起死回生の案を期待していたのだろう、肩が思い切り下がっている。

そんな反応にちょっぴり傷ついたキョウだが、案がないことに変わりはないので何も言えない。

「・・・・・・九峪様ならば、何と言うだろうか」

心なしか重くなった空気の中で、伊雅はポツリと呟いた。

俯いて考え込んでいた秦野やキョウは、その言葉に反応して顔を上げた。

「・・・そうだね・・・・・・九峪なら、この状況を何とかできるのかな?」

「わかりませんね。ですが、今ここにいない方に頼ることは、意味のないことかと存じます」

秦野のあまりと言えばあまりな言葉に、伊雅は咄嗟に怒鳴りそうになり、しかしすんでのところで思い止まった。

確かにそうだと、伊雅自信思ったのだ。いくら九峪に問いを求めたところで、彼の人は今は床に伏しているのだ。

たしかにそれでは、現実的ではない。今自分達がやらなければならないことは、今後の展望をどのように組み立てるかなのだ。

それに秦野自身、あのような発言をしたのは何も九峪のことを軽んじたからではない。

秦野はどちらかというと、理想論や空論よりも現実論を重んじるタイプの人種だ。

そのため現実を見据えることを主とし、現実を受け入れる。

だから九峪に頼ろうとする伊雅とキョウを諌めたのだ。

そんな秦野の心の動きを、伊雅は察した。秦野は伊達の『戦友』であり、伊達に数年を共に過ごしていないということだ。

秦野のこういうところが、伊雅を何度も救った。伊雅が秦野を己の智と呼んだ由縁でもあった。

「・・・そう、だな。九峪様を頼っても、今はどうにもならぬ・・・・・・」

「今は、オイラ達だけで何とかしないと・・・」

だがそうは言っても、どうすればいいのか。

やはり見えてこない。

「とりあえず、現状をもう一度整理してみては如何でしょうか?」

このままでは埒があかないと、秦野はそう提案した。

丁度煮詰まっていた伊雅とキョウは、一も二もなく頷いた。

秦野は床に置かれていた絹布を整理して、それを整然と並べる。

「まずは、現状の保有戦力からです。双方合わせて五十強。これに銅剣が二十、槍が十、弓が十、矢玉は現在八十だそうです。鎧は皮の軽装が五十弱。戸津浦に元からいる兵士の分と、武川の生き残りの分です」

「鉄剣はないのか?」

「三振りだけあるそうですが」

「それだけか・・・」

返ってきた言葉に、難しい顔をする伊雅。

狗根国の兵士は、もれなく鉄剣を標準装備している。それに対してこちらは銅剣。差は歴然である。

銅剣などは、ニ合いもすれば叩き折られてしまう。それほど強度に差があるのだ。戦いになど端からなるはずもない。

「せめて二十は欲しいが・・・」

「それは難しいですな。それ程ともなると、大陸から取り寄せなければなりません」

それ程でなくとも、手に入るものではないのだが。

「大陸から取り寄せることは出来ないの?」

うんうん唸っている伊雅の横で、キョウは秦野に向かって質問した。

取り寄せることが出来るのであれば、取り寄せるに限る。

それはそうなのだが、秦野は難しい顔をして、

「買おうにも、金がありません。武川まで戻れば幾らかはあるでしょうが、そもそも武川も戸津浦も隠れ里ですから」

「そっか・・・」

厳しい現実に、キョウは項垂れた。

「兵力といえば・・・キョウ様、伊雅様。実は亜衣様から頼まれていることがあるのですが」

いきなり話を変えた秦野に、伊雅とキョウは顔を上げて秦野を見た。

「何だ?」

「実は、宗像神社を襲撃されたときに逃げ出した巫女達を探し出して欲しい、と」

「宗像系の巫女か?確か散り散りになっていたと聞いたが」

思い出すように、伊雅は呟いた。

星華達が来たばかりの時に開いた宴席で、星華達から当時のことを伊雅達は掻い摘んで聞いていた。

その中には、巫女達がどうなっていたのかということも当然聞き及んでいる。

とはいえ星華達が知り得ることは自分達を護衛するために追従してきた者達だけであり、それ以外の者達がどうなったかを彼女達は知らない。

駆逐されてしまったかもしれないし、運良く逃げ延びているかもしれない。

もし生き残っているのであれば、助けて欲しい。星華達と話し合って、亜衣はその旨を秦野に伝えていたのだ。

「星華様は宗像系の巫女でありますし、それに上手く保護することが出来れば方術士を戦力に加えることも出来ると、亜衣様は申しておられました」

秦野の言葉に伊雅とキョウは目を丸くし、次いで笑顔を浮かべた。

「へぇ、亜衣がそんなこと言ったの?」

「はははは。そうか、そのようなことを言っておったか、亜衣は」

「はい。まだ子供だと思っていましたが、考えているようですね。将来が楽しみです」

笑顔を浮かべる二人と同じように、秦野も笑顔で言った。

武川の騒動から今まですっかり忘れていた宗像のことを、亜衣はしっかりと覚えていたのだ。

それに現在の戦力のことも理解しているようだ。だからこそ、『宗像の巫女』というよりも『方術士』としての面を優先して、保護すべきだと考えたのだろう。

九峪が廃神社で始めて会った時に感じた亜衣の聡しさは、本物だったのだ。

そしてそのことが、伊雅と秦野は嬉しかった。

「亜衣様は、磨けば輝くかもしれませんな」

「うむ。これから先の、亜衣の活躍が今から楽しみだな・・・・・・星華様は、良い臣を持ったものだ」

しみじみと、伊雅は言った。

将である伊雅にとって、優秀な家臣を持つことは誇りだった。

火魅子の資質を持つ星華にそんな家臣がいることは、我がことのように嬉しいものなのだ。

「じゃあ亜衣達が活躍できるように、オイラ達大人が頑張んないと」

キョウの言葉に、伊雅と秦野はしっかりと頷く。

「とりあえずは、組織の建て直しです。兵力の増強と、物資の補給。・・・兵力はまずは宗像勢を探し出して・・・物資は、追々考えましょう。表立った動きは、まだ当分先になりそうです」

整理した情報から、秦野がまとめにかかった。

たしかに、ここまで崩されては戦うことなど出来ない。

組織の建て直し。これが急務となることは、伊雅とキョウも重々に承知していることだ。

「やれやれ・・・また振り出しか」

ため息をつく伊雅。狗根国が余計なことをしなければ、もっと早くに反抗作戦を行えたかもしれないのだ。

武川の戦力を増強するのだって、伊雅は九洲中を駆け回ってやっとの思いで成したのだ。

それを僅か一日と待たずに壊滅されては、腸も煮えくり返る心境だろう。

「まぁまぁ落ち着いてください、伊雅様。今度は唯の振り出しではありませんぞ」

「そうだよ、何たって天魔鏡であるオイラに火魅子候補。そして『神の遣い』がいて、それからなんだから」

秦野とキョウの励ましの言葉を聞いて、伊雅は気分を落ち着ける。

そう、今度は違う。今までは『神器・蒼竜玉を持った副王』しか求心力がなかった。

だが今では蒼竜玉の他に天魔鏡、副王の他に火魅子候補と神の遣いを有しての再出発なのだ。

失ったものは大きかったが、得たものもまたある。

まだ全てを失ったわけでは、ないのだ。

「・・・そう。失ったならば、また積み上げるまで」

顔を上げて、伊雅はそう言った。何とも涼やかで、晴れやかに。

その瞳には、新たな決意が宿っていた。



















窓の隙間から漏れでる明かりが、薄暗い部屋を照らしている。

そんな部屋の中で、案埜津はじっと膝を抱えて眠る九峪を見つめていた。

この部屋に着てからすでに数時間が経っているが、案埜津は一向に動こうとしない。

まるでそこだけが、時間に置いていかれたかのように、何も変わらない。

九峪がこの部屋に寝かされてから既に三日。何も食べていない九峪の頬は、僅かながらに痩せている。

動かない分脂肪を燃焼していないが、傷の治療に大量のエネルギーを必要としているために、その顔色はかなり悪いものとなっていた。

その顔を見た一人の男が、不用意にも「死んでるのではないか?」と言ってしまい、案埜津や星華に殺されかけたのはつい一日前のことだ。

しかし誰が見ても、これを生者の顔とは思うまい。

そしてそんな顔だからこそ、案埜津は不安で仕方がなかった。

本当に目を覚ますのか、不安だった。

「・・・・・・九峪、起きてよ」

囁きかけるように、小さく呟く。

もう何度言ったかわからない、切なる言葉だ。

この言葉を九峪に向けて囁く度に期待が溢れ、そして落胆が押し寄せてくる。

生きて帰ってきてくれた喜びは、いつしか焦燥と絶望に変わっていった。

目を覚まして欲しい、願うのは唯これ一つ。

その願いさえ、絶望を孕んでいる危険なものだった。

里唯一の医師は、命の危険はないと言った。

だが目を覚まさない生は、死とどれほど違うのか。

心臓が動いて、呼吸をして。ただそれだけ。

それだけで、『生きている』と言えるのか?

これではまるで―――死んでいるも同じじゃない。

「っ―――ちがう」

怖い考えに、案埜津は首を振った。

「そんなこと・・・ない」

自分に言い聞かせるように呟く。

だがそう言っても、納得しきれない自分がいる。

知らず震える体を、案埜津は両腕で抱きしめた。

そうして暫く震えていると、不意に目の前に影が出来た。

それは自分の影と、もう一人分の影。

案埜津はゆっくりと振り返った。

そこには逆光を纏った少女―――星華が立っていた。

「星華・・さま?」

「案埜津・・・入っても、大丈夫?」

星華の気遣わしげな声に、案埜津はコクンと頷いた。

その様子に星華はほっと安堵の息を吐いて、部屋の中に入ってきた。

そしてそのまま真っ直ぐ、案埜津の横に腰を下ろす。

「九峪さんは・・・まだ、眠っているのね」

独り言のように、九峪を見つめたまま星華は言った。

それは誰に向かって言ったものではない。だから案埜津も特別応えることはしない。

それ以前に、誰かと話すことが億劫なのだ。たしかに誰かと話をすれば少しは気晴らしになるが、だからと言って頻繁に話しをする気にもなれない。

それに星華とは、あまり話したことがなかったのだ。衣緒や羽江とはそれなりに話すけど、星華は王女なのだ。

馴れ馴れしく話すことはなかった。

「ねえ、案埜津」

何も喋らない案埜津に痺れを切らしたのか、星華が案埜津の名を呼んだ。

案埜津は顔を九峪に向けたままだが、それでも話は聞いているようだ。

それを確認して、星華は口を開いた。

「あなた、九峪さんの妹・・・なのよね?」

「・・・そう」

案埜津は短く応える。

「妹・・・だけど、血は繋がっていないって、言ってたわよね?」

星華の問いに、今度は首肯で答える。

もはや言葉ではないし大概に無礼だが、星華は気にしなかった。

案埜津の心がどんな状態か、わかっているからだ。

「九峪さんはあなたのことを妹と見てるけど・・・あなたは九峪さんのこと、どう思ってるの?」

それは、星華の疑問だった。

九峪と初めて出会ったとき、星華は九峪の暖かさに触れた。

美麗とは程遠い言葉遣いだが、その代わりに上辺だけではない優しさを感じた。

頭を撫でてくれた手は大きくて、危険な状況下にあっても何故か安心を与えてくれた。

まるで九峪は、乳姉妹達と同じように自分に接してくる。

それが嬉しかったのだ。

そんな九峪の優しさを、案埜津という少女は自分が出会うずっと前から受けている。

そのことに、心が僅かにざわめいた。

それは幼いなりの嫉妬なのだが、まだ星華はその正体を知らない。

ただそれが、案埜津によって齎されたものだということだけはわかった。

だから、話してみたかった。案埜津と。

星華の質問に、案埜津は考え込んだ。

自分が九峪に抱く想い。それがどんなものかはわからない。

ただ、きっと簡単な言葉ではない。

それを知るには、案埜津はまだ幼かった。

「―――九峪は」

考え込んでいた案埜津は、呟くように口を開いた。

「九峪は、私にとって大事な家族。何よりも・・・大事な」

「唯の、家族?」

「・・・違う、唯の家族じゃない」

星華の言葉に、案埜津は小さく首を振った。

九峪が、唯の家族なはずがない。

でなければ、こんなに悲しむものか。

「九峪が居なかったら・・・私、死んでたから」

「・・・何か、あったのね」

頷いて、案埜津は続ける。

「私の家族はお父さんだけだった。けど、お父さんは狗根国に殺されて・・・・・・私は狗根国の男に連れて行かれそうになって・・・そのとき、九峪が助けてくれたの」

そのときのことを思い出しながら、案埜津は言葉を紡いでいく。

あれが、出会いだった。

地獄に行くしかなかった自分を、九峪は必死になって救い上げてくれた。

そのときの九峪の姿と、抱き抱えられたときの暖かさは、今でも覚えている。

「九峪は、お父さんのお墓を立ててくれた。会ったこともなかったのに・・・なのに、土で汚れながら、一生懸命作ってくれた」

たった一人の家族を葬ってくれたこと。それがたまらなく嬉しかった。

他人でしかないのに、まるで昔からの知人のように父の死を悲しみ、葬ってくれた。

あのときから、自分の心は九峪を必要としていた。

「寝るとき、いつも夢を見た。お父さんが・・・殺される夢。そんな時、いつも九峪が一緒に寝てくれた」

街を出た日から、悪夢を見た。

それは決まった場面ばかりで、決して見たくない場面だ。

それでも、自分はその悪夢に押しつぶされなかった。九峪が側で守ってくれたからだ。

だから自分は、まだ狂えていないのだ。

「九峪が居てくれたから、私は・・・・・・・・・今、生きている」

―――そう、結局は。

結局は、そういうことなのだろう。

「だから、九峪は・・・・・・私の、大事な家族」

言い切って、案埜津は息を吐いた。

こんなこと、衣緒や羽江にも言ったことはなかった。

なのに、何故だろう。あまり話したことのない星華に、なぜここまで話しているのだろう。

案埜津がそう思ったとき、不意に体が温かい何かに包まれた。

星華が、案埜津を正面から胸に抱きしめているのだ。

「え・・・」

頭を優しく撫でられて、案埜津はそんな声を出した。

なんでいきなり星華が自分を抱きしめたのか、それはわからないが、なぜかこの暖かさが気持ちよかった。

「九峪さんは、大事な家族・・・」

何を思って星華が言ったのかはわからないが、案埜津は小さく頷いた。

今の自分は、何故か素直だ。

「九峪さんがあなたのことを大事に思っているように、あなたも九峪さんのことを大事に思っている」

頭を撫でながら、星華は言った。

その声音は、優しい響きをしている。

「・・・どうして、こんなことを・・・・・・?」

案埜津は消え入りそうなほどに小さな声で、星華にそう問うた。

あまり話したこともないのに、素直になっている自分。

そして、優しくしてくれる星華に、案埜津は困惑していた。

案埜津の問いに、星華は柔らかく微笑んだ。

「いやだった?」

「・・・・・・ううん。そんなこと・・ない」

そう応えた案埜津を、星華は余計に強く抱きしめる。

だけどそれは決して苦しいものではなく、優しさに溢れたものだった。

「・・・私ね、考えたの。もし・・・・・・もしも、亜衣や衣緒や羽江が死んでしまったら・・・どうしようって」

そう言った星華の顔を、案埜津は見上げた。

その表情は、同じ子供とは思えないほどに、慈愛に溢れていた。

「私は、三人のことが大好き。ずっと一緒に暮らしてきて・・・喧嘩もしたけど、でも仲直りして。・・・・・・あの子達は私の、大事な家族だから」

そう言う星華の瞳に、悲しい色が混じるのを案埜津は感じた。

―――ああ、そうか。

彼女は、私とおんなじなんだ。

「九峪さんがこんなことになって・・・それを悲しむあなたを見て、思ったの。もしも姉妹を失うことになったらって・・・・・・想像しただけで、私泣きそうになっちゃった」

言って、星華は苦笑した。

こんな話をしていることがどことなく気恥ずかしいが、それでも案埜津になら、と思っている自分がいることにも、笑ってしまいそうになる。

何となく、今の自分はいつもの自分とは違う気がしていた。

それでも構わないと思う。こんなに穏やかな気持ちで話せることが、何故か嬉しく、気持ちよかったから。

「悲しいよね・・・大事な家族が死んじゃうのは・・・いやだよね、そんなのは」

「・・・うん」

星華の言葉が、心に染みこんで来る。

温かい気持ちになれる。九峪と一緒のときとはまた違った、暖かさだ。

不思議な暖かさだけど、悪くはない。

この暖かさが、心地よい。

無意識のうちに、案埜津は両腕を星華の背中に回していた。

そしてギュッと、抱きしめる。

そんな案埜津に、星華は微笑んだ。

「ねえ案埜津・・・・・・私と、お友達にならない?」

「え・・・?私、が・・・?」

突然の申し出に、案埜津は困惑顔で星華を見上げる。

一瞬何かの冗談かと思ったが、星華の表情は真剣そのものだ。

それに、案埜津は余計に混乱した。

「え、でも・・・私は」

いつもは澄ました雰囲気の案埜津が慌てる様がおかしくて、星華は口元を緩めた。

最近の案埜津はとても落ち込んでいた。それは自分も同じであったが、星華自身見ていて辛かった。

あそこまで絶望した人間を見たことは、かつてなかったのだから。

だからこうして笑ってくれるのが、嬉しかった。

自分が笑顔にさせていると思うと、嬉しかった。

「私、巫女だから・・・・・・お友達になってくれたら、お祈りの仕方教えてあげる。それで、一緒に火矛様にお祈りしましょう。・・・九峪さんが、目を覚ましますようにって」

「・・・・・・」

案埜津は、無言で星華の胸に顔を埋めた。

その肩が、小刻みに震えている。

「泣いてもいいんだからね、案埜津・・・」

「・・・ひっ・・うぇ・・・」

押し殺したような嗚咽は、次第に大きくなっていく。

「私達は友達だから・・・・・・だから、泣いてもいいんだから」

「う・・あああああああ・・・・・・」

案埜津の鳴き声が、部屋に響く。

星華は唯、案埜津の背中を撫で続けた。