「残影」 (H:ゲーム+小説 M:九峪・真姉胡・天目 J:シリアス)
日時: 03/27 16:55
著者: 甚平


―――雨が降っていた。ザーザーと音を立てて降る雨は、天がまるで号泣しているように、ただただその雫を降らせる。

その雨の中で、一人の少女が盛り上がった土の前に佇んでいた。雨避けの雨具を何も持たずに、無造作に雨に打たれていた。

土の上には、一本の木が立てられている。濡れて黒ずんだその木には、二つの文字が刻まれている。

  『天目』

それは、少女が敬愛した女性の名前だ。煌びやかな衣装と類稀な智謀と膂力によって、絶対的な力を持った、かつての上司。

雨は、少女の体を無慈悲に打ちつける。体中から体温が奪われて、小刻みに震えている。

しかし少女はそこを動こうとしない。ずっと、そこに立っている。

まるで、寄り添うように。

真姉胡は、唯そこに立っていた。















 『残影』






















  サァァァァァァ―――・・・

一向に止まない雨。止む気配すらない。

真姉胡は、まだそこにいた。もう何時間も、ここで雨に打たれている。

体の震えは止まっていた。あまりの寒さに、感覚が麻痺しているのだ。

肺炎になってもおかしくないのに、真姉胡はまだそこにいる。気を失ってもおかしくないのに、それでも真姉胡はそこに立っている。

あまりに希薄な存在感は、そこで立っている少女をまるで幽霊のようにしている。

  じゃりっ

不意に、背後で音がした。雨が地面を打ちつける以外の、砂利を踏みしめる音。

真姉胡の少し後ろに、一人の男が立っていた。左腕を包帯で包み、右手で紙製の傘を持っている。頬には切り傷のような痕が、痛々しく残っている。

「―――真姉胡」

男―――九峪は、近づいてそう呟いた。呟きというよりも囁くような、あまりにもか細い声だ。

「・・・・・・・・・」

九峪の声にも真姉胡は反応しない。微動だにせずに、立っている。

九峪もそのことは予想していたのだろう。僅かな落胆はあったものの、怒ることも、失望することもなく真姉胡の隣に立つ。

「・・・・・・風邪、引くぞ」

言って、真姉胡を自分の傘の中に入れる。肩を掴んでという少しばかり強引なやり方だったが、仕方が無い。これくらいしないと真姉胡は自分からは動かないのだから。

無理やり入れたにも拘らず、真姉胡は反応しない。少し声を出したような気がするが、雨音のせいでよく聞こえなかった。

傘はそう大きくない。自然と、体が密着する。真姉胡はずぶ濡れになっており、そのため九峪の服も濡れてしまう。

だが、かまわない。かまうものか。

今はそんなことよりも、この壊れた人形のような真姉胡のことが心配だ。

雨の無情な仕打ちから逃れた真姉胡は、九峪に支えられている。その肩を掴まれて、抱きしめられるように。

すると、ここにきて初めて真姉胡が反応した。ゆるゆると首を上げて、九峪を見上げる。

その瞳はぼうっとしていて、焦点が合わさっていない。

だが少しずつピントが合わさったように、瞳に光が戻っていく。

―――ほんの、少しだけ。

「・・・・・・九峪、さま?」

囁くような言葉は、やはり呆けたものだった。覇気も何も感じられない、ただ吐いた息のような、そんな空っぽの言葉。

それでも真姉胡が自分から言った、言葉だった。

「おう。俺だ」

それに九峪は、何てことの無いようないつも通りの調子で返す。努めていつもどおりの、自分らしい言葉を。

九峪を見上げていた真姉胡は、視線を前にある木に戻す。濡れた木の棒は、変わらずそこに立っている。

「―――天目様」

真姉胡の口から漏れたのは、九峪にとっては敵であり味方でもあった、一人の強かな女性の名前。

高い野心と、それを叶えるに足る実力を持った、女性だ。

「・・・・・・」

九峪は何も言わない。真姉胡の次の言葉を、じっと待つ。

「―――天目様、死んじゃいました」

言葉だけを聞くと軽いが、その声にはやはり覇気が感じられない。

虚ろな真姉胡を見下ろしながら、

「ああ」

と、短く答える。気の聞いた言葉も、今は不要だろう。

「・・・ここで、こうしていると、昔のことをなぜか思い出すんです」

涙も流さない。あるのは唯虚ろ。過去を想ってなお虚ろ。

それだけが、今の真姉胡を満たし、表していた。

「―――天目様は」





































真姉胡の両親は九洲人で、狗根国による九洲制圧後は不当な扱いを受けて来た。

その娘である真姉胡も、極めて貧しい生活を余儀なくされていたのだ。

そんな環境下での生活が数年続いたある日。山で狩をしていた真姉胡の元に、一人の妙齢の女性が現れた。

装飾された白い外套を纏い、その言動や立ち振る舞いから高貴な人だと真姉胡は思った。

そんな人が私に何のようだろう。真姉胡に思い当たる節はなく、内心でオドオドしながら女性の話を聞く。

「お前、中々いい動きをするな。狩の様子をしばらく見させてもらうぞ」

なんとも不遜な物言いだ。いくら相手が子供とはいえ、初めての相手には些か不躾なものだろう。

それでも真姉胡はむっとすることなく「は、はぁ」と、生返事をする。逆らわせない威圧感が、目の前の女性から発せられていたからだ。

「行っていいぞ」という女性の言葉に従って、真姉胡は狩に戻った。後ろから突き刺さる視線がどうにも気になるが、今は狩に集中する。動物は人間以上に危機察知能力に優れていて、簡単に捕らえることが出来ないのだ。

感覚という感覚を研ぎ澄ませて、真姉胡は獲物を追った。

草より低く身を屈め、猿のように木に登り、駆け、跳ね。そして獲物を仕掛けた罠に的確に追い込む。

いつもどおりの狩だ。

「ほう・・・」

真姉胡の狩の様子を、気配を消した状態で追いかける女性は、そのあまりの手際の良さに溜息を吐いた。

「いいな。顔も悪くないし・・・頭のほうはどうか知らんが、あの追い込みは計算してのものだろう。・・・ふん、悪くない」

木々の間を飛ぶ真姉胡の目で追って、女性は瞬時に計算する。

ここに来たのは本当に偶然だった。所要で阿蘇の知人の下へ出かけていて、その帰りにこの近くを通った。

近くで何者かが狩をしている気配がして、生来の好奇心に任せてきてみれば、さあどうだろう。

男みたいな容姿だが、女性はそれが女だと瞬時に見抜いた。美しい女を見抜く眼力にはかなりの自信がある。

狩をしているということは山人だろうかと思ったが、その動きと手際に女性は感心した。

軽い身のこなし、気配の消し方にいたるまで、もはや山人の域を超えていた。鍛えればさぞ優秀な戦士か乱波になるだろうと、その未来の姿を想像する。

「ふふ・・・・・・気に入った」

口元を吊り上げて、女性は呟く。

本当に偶然だったが、ここまでの掘り出し物などそうはないだろう。

欲しい。あの娘が欲しい。

どうしても欲しい。

「さて、では勧誘でもするか」

そう言って女性が真姉胡に近づくのと、真姉胡が罠にかかった獲物に止めを刺したのは、ほぼ同時だった。

仕留めた獲物を担ごうとして、真姉胡は振り向く。さっきの女性が近づいてくるのを感じたからだ。

「あの、なんでしょう?」

女性は笑っていた。それも妖艶な笑みで、真姉胡は背筋が冷たくなるのを感じた。

「いやなに。お前の働きに感服してね。素晴らしい狩だった」

「はぁ」

女性が賛辞の言葉を送るが、真姉胡はまたしても生返事で返す。

女性の発言になにか裏があるような、そんな気がして素直に喜べない。

(勘もいいな。ますます気に入った)

真姉胡とは対照に、女性は喜色満面だった。容姿や能力もさることながら、その少し怯えた態度が女性の被虐心をくすぐる。

こんな女を苛めてみたい。女性はかなり本気でそう思った。

(ビクゥ!!)

真姉胡は悪寒を感じて震えた。女性の笑顔がどんどん怖く感じる。

「あ、あの・・・」

声を振り絞る。こんな恐怖は初めてだ。

しかし真姉胡の言葉なんぞは無視して女性は話し続ける。

「そこでだ。私のところで今人手を募集しているのだが、優秀なのがいなくてね」

「そ、そうですか」

「そうなんだ。優秀な人材というのは少ないからこそ価値がある。有象無象は所詮有象無象でしかない。だが」

そこで女性は言葉を区切り。

血色の良い唇と、ニヤリと曲げる。

ニヤリと。

あ、何か嫌な予感・・・。

「お前は中々優秀だな。どうだ、私のところで働かんか?給金は弾むぞ?」

「へ?」

意外な言葉に、真姉胡は素っ頓狂な声を上げて、ポカンとする。

狩しか取り得のない自分を?優秀?

「私が・・・ですか?」

「そうだ。お前ほどの能力を持った者はそういなくてね。先ほどの狩を見させてもらったが、問題ない。少し訓練すれば十分使える」

「・・・・・・・・・」

意外な申し出に、真姉胡は黙り込む。

何の仕事かは疑問だが、自分のような小娘に興味を持った目の前の女性に、真姉胡も興味を持った。

意外なところで現れて、意外なことを言い続ける。

少し怖いけど。

だが真姉胡は直感した。目の前の女性は『普通じゃない』と。

「・・・・・・何の、お仕事ですか?」

真姉胡はそう聞いた。

聞いたが、きっと自分はやるのだろう。それほどに目の前の女性が、気になる。

何か、面白いものを見せてくれるのではという期待が、真姉胡をそうさせた。

そんな真姉胡の様子に気づいたのか、女性もまた唇を歪めて、言葉を紡いだ。

この女性の言葉と自身の興味が、後に馬車馬の如く働かされて後悔することになろうとは、真姉胡は露と思わなかった。

「ふふ・・・なに、大した仕事ではないさ。―――お前には、私直属の乱波になってもらう」

そう言ったときの天目の顔はなんとも晴れ晴れとした、それでいて妖艶な、美しい笑顔だった。

それが『人生の死刑宣告』だと真姉胡が気づいたのは、一年先のことである。




















これが、真姉胡と日輪将軍・天目の出会いだった。

























「―――天目様は、出会ったときからすごく偉そうで・・・。でも、それが全然嫌味じゃなかったんです」

昔を語る真姉胡の口元には微かな笑みが浮かんでいた。それでも、その笑みもどこか虚ろに感じられる。

九峪は包帯の巻かれた左腕で真姉胡を抱きしめたまま、黙って話を聞く。

何かを言える場面じゃないし、言うべき言葉も見つからない。

「『私の部下になれ』って言われたときは、すごく驚きました。私は山人ではなかったけど、よく狩をしていて・・・・・・そのことを褒められたのも、生まれて初めてだったし」

言って、息を吐く。

視線はずっと盛り上がった土とそこに立っている木の棒―――天目の墓に、向けられている。

その瞳は虚ろだが、過去を思い出しているためだろう、悲しみと共に嬉しさも感じられた。

真姉胡は今、天目と出会ったときのことを思い出して、その目には天目が映っているのだろう。

それはとても悲しくて、真姉胡にとっては残酷に優しいことだと、九峪は思った。

「面白そうだな、っていうのもあったんです。乱波が危険な仕事だとは知ってましたけど、それ以上に天目様に興味が出てきて。誰かにあんなふうに必要とされたのも初めてで」

だが思い返してみれば、仕官してからは殆ど馬車馬のように働いた。何かいろいろと苛められた記憶も山のようにある。

自分をからかって楽しんでいたあの顔を忘れることは、おそらくないだろう。

それらを思い出すと、少しおかしくなる。あのころはそれに対して愚痴も言ったりしたけど、今ではどうしようもなく懐かしい。

「楽しかったんだろうな、きっと。忙しくて忙しくて、何度も悲鳴を上げたけれど、それでもそんな毎日が楽しかった」

本当に目まぐるしい日々だったけど。

狗根国の正規の乱波ではなかったから、私用としてもよく遣わされた。そう言う意味では親衛隊員並に忙しかった。

「天目様のやることにはいつも何かしらの意味がありました。私達はそれが何かまではわからないんですけど、終わったときにようやくそれがわかるんです」

そう言った真姉胡の口元には、笑みが浮かんでいる。小さいけれど、それは笑みだった。

―――空っぽな、笑みだった。

「そんなところに、私達は惹かれたんです」










































「一網打尽・・・反乱軍をですか?」

真姉胡がそう言ったのは天目の執務室ではなく、浴槽いっぱいに張られた湯の中でだった。

天目から出頭の命令が下って、もしかしてお叱りか?とビクビクしながら天目の執務室まで行くと、今度はどういうわけか風呂まで連行された。

内心困惑しまくりのままで天目に促されて、湯に体を沈めて腑抜けているとき、天目は真姉胡に『反抗勢力一網打尽作戦』について語った。

真姉胡の問いに、天目は微笑みながら頷く。

「そうだ。今九州には亡国の残党共が潜伏している。やつらが決起したところでいまさら怖くもないが、一々相手をするのも骨だ。そういう場合は、どうすればいいと思う?」

「え?ええっと・・・」

いきなり問いかけられ、真姉胡は狼狽しながらも必死になって考えた。

天目は有能な人間しか手元に置かない。逆を言えば、天目の期待に応えることの出来なかった者は、容赦なく切り捨てられてしまうのだ。

彼女は誰一人として特別扱いはしない。皆平等に、鬼のような仕事を与える。

それはつまり、切り捨てられる可能性も皆平等にあるのだ。

だから真姉胡は必死になって考えた。ここで天目の満足のいく答えを提示できなければ、待っているのは破滅しかない。

こちらを見つめる天目の視線に焦らされるが、ここで焦ってはいけない。

慎重に考えるのだ。

「・・・反抗勢力を一箇所に集めて、これを叩く・・・・・・です」

少し自信なさ気に、しかし出来るだけわかりやすい声で、考え抜いた答えを口にした。

自信なさ気だが、これ以外に考えられなかった。

考え方は単純明快。一回の戦闘で壊滅させる、これに尽きた。

それでも自信がないのは、もしも間違っていたらと言う恐怖からだ。

こんな弱気なところを、天目は『小動物』と例えていた。

様子を窺うようにちらちらと目を向ける真姉胡に、天目は満足そうに頷いた。

それにほっとした真姉胡の耳が、「これくらい出来てもらわねばな」というあまりに小さな天目の呟きを不幸にも聞き取ってしまい、風呂の中だと言うのに風邪を引きそうな寒気を感じた。

「そうだ。残党を一箇所に集めて、叩く。実に簡単な方法だが、だからこそ効果は高い」

真姉胡の様子に気づいているはずなのに、天目は知らぬ様子で説明を進める。いや、おそらく態と放置しているのだろう。

実に恐ろしきは、そのS気質。初めて出会ったときの衝動を、実直に行っていた。

「そ、そのために、今は泳がしているということですか?」

纏わりつく悪寒を振り払うように、真姉胡は天目にそう聞いた。

現在の九洲には『復興軍』として火魅子の旗を掲げる集団が存在していた。

彼らは嘗ての副王・伊雅と、四人の火魅子の資質を持つ女子、そして『神の遣い』なる人物を中心に、その勢力を着々と拡大させつつある。

いつもなら反乱が起こればすぐさま鎮圧されていたのに、今回は何と当麻の街を陥落されてしまったのだ。

大方の予想を裏切る展開に、都督府に勤める連中は僅かに騒ぎ出した。

しかしそんな状況でありながら、怠惰に生きる長官・紫香楽。人望皆無。

実質九洲を収めているのは天目一人と言っていい。

だからこの反乱を鎮圧させるのも、天目の役割なのだ。

それだというのに、天目は何もしない。しないどころか、復興軍に忌瀬を送り込むなど、手を貸してさえいるのだ。

天目の真意はどこにあるのか、誰も彼もがわからなかった。

「ここで潰れる程度ならば、所詮そこまで。しかし生き残るに足る力があるなら・・・・・・まだまだ大きくなってもらわなければ、な」

そう言って、天目は妖しい笑みを浮かべた。見る者を凍てつかせ、それで尚逸らすことの叶わない、笑みだ。

このとき、真姉胡は天目の言った『反抗勢力一網打尽作戦』が、額面通りのものではないと確信した。

(また何か考えているな・・・天目様は)

そう内心でため息をつく。

こういった場合は、割を食うのは親衛隊だ。手足はもちろんのこと、馬車馬ですら引いてしまうほどに働かされるのだろう。

(虎桃さん、案埜津さん。生きてたら・・・また会いましょうね)

心の中で、二人の冥福を祈る。今度こそ過労で死んでしまうかもしれないからだ。

だがそこまで思って、真姉胡はふとあることに気づいた。

何故天目は、自分にこの話をしたのだろう。いくら私兵とは言え、親衛隊ではない自分に。

そして、真姉胡の額から汗が一筋頬を伝って落ちた。

それは、決して湯のせいではないだろう事は確かだった。

今風呂場にいるのは、侍女以外には天目と真姉胡の二人だけ。

それだけで、判断材料は十分だった。

真姉胡は唾を飲んで、天目の顔を見た。

ばっちりと、目が合う。

そして真姉胡の目を受け止めたのは、天目の笑顔だった。

「実はお前に頼みがあるのだが」

(やっぱり〜〜〜〜〜〜〜!!??)

あまりに予想通りの展開に、叫びを上げる。もちろん心の中で、だ。

そんな真姉胡に気づかず―――気づきつつ華麗に無視して、天目は話を続ける。

彼女の中では、既に真姉胡は了承していることになっているのだ。それも潔く、快く。

絶対王政、此処に極めり。

「お前には、忌瀬を手伝うために反乱軍に潜り込んでもらう」

「そんな潜り込むなんて・・・・・・なんですって?」

何か信じられない言葉が聞こえてきて、真姉胡は聞き返してしまった。

私が手伝う?誰を?忌瀬さん?潜り込む?誰が?私が?

「ん、聞こえなかったか?ではもう一度今度は懇切丁寧に虫でもわかるよう説明してやるからよく聞くのだぞ」

言外に「お前は虫と同列」と言われているのだが、真姉胡はもちろん聞いていなかった。

だが天目の説明は辛うじて聞こえていた。

二度目の説明が終わったとき、真姉胡は開いた顎が塞がらない心境だった。

それはそうだろう。何処をどう行って、自分が反乱軍に参加することになるのだ。

冗談ではないが、面白くなりそうだと期待している自分が恨めしい。

「手伝う、と言うのは・・・具体的にどうしろと?」

「何、難しいことではない。復興軍のために行動する、これだけでいい。あとは・・・忌瀬の監視だ」

「はぁ・・・監視ですか?」

生返事を返す真姉胡。

まさか天目配下、正式な狗根国兵ではないとは言え、その自分がまさか反乱の手助けとは。

しかも仕事内容には『忌瀬の監視』も付いている始末だ。

人生、どう転ぶかわからない。それを、真姉胡は実感した。

「あいつは気まぐれだからな。何をするかわからん」

「たしかに・・・そうですねぇ。忌瀬さんですもんねぇ」

理由は情けないが、それだけで納得できるのだから忌瀬の人となりがよくわかる。

「潜入方法は自分で考えろ。それくらい出来るだろう」

「はい」

その言葉を最後に、天目は立ち上がった。

もう上がるのだろう、絹を持って立っている次女の下へ歩いていく。

凛々しい背中を見つめながら、真姉胡も立ち上がった。

(さて、どうなるかなぁ)

大いなる不安と僅かな期待を胸に秘めて。

























そして、真姉胡は九峪と出会った。




















回想が終わって、世界は再び雨音だけになる。

真姉胡が話したのは、少し昔の話。ここに来るきっかけとなった、天目とのやり取りだ。

それは、九峪も知っている話だった。















いつだったか、それは酒の席のことだった。

何時になく飲んだ九峪は、宴席から一人離れて夜風を感じながら、徳利一つとお猪口二つで夜空を見上げていた。

出ているのは三日月で、残念ながら満月ではなかったが、それでも九峪は構わなかった。

これはこれで風流かもなと、二つのお猪口に酒を注ぎ、その一つを仰いだ。

飲み干して、九峪はくくと自嘲気に笑みを漏らした。

「俺ももう二十歳・・・なのにまだ遠征軍と戦争なんてな。・・・・・・俺は何時になったら、帰れるのかな・・・・・・・・・なぁ、日魅子?」

天に向かって、九峪は呟いた。

空けられていない杯は、日魅子の分だ。今はここにいない、何時会えるかもわからない幼馴染と、九峪は今飲んでいるのだ。

九峪は杯に酒を注いで、再び口に含んだ。ささやかな苦味と柔らかい甘みが、体に染みこんで行く。

遠征軍との戦いが始まって、既に二年。

枇杷島の陥落から、戦況はこう着状態に陥った。

物量で押す狗根国に、策で切り抜ける九洲勢。

二人の智将を相手に遜色ない戦を見せる彩花紫が凄まじいのか。

はたまた、智将と大兵団を有する遠征軍と互角に渡り合う九峪と天目の実力か。

どちらにしろ、戦況は一進一退を繰り返していた。

そして今回勝利したのは、九峪たちだった。だからこその、宴なのだ。

皆は勝利と酒に酔っていた。酔って盛り上がらなければ、この進まない戦況に挫けそうになるからだ。

明日の戦いのために、無理やりにでも心のボルテージを上げる。それは、九峪も十分に承知していた。

上げすぎて珠洲に殺されかけたけど、それも遠い過去だ。

だが、今の九峪は皆とは少し違った。酔ってはいるのだが、今一盛り上がらない。

それは、先ほどの月を見上げならが呟いた一言が全てを語っていた。

この世界に着たばかりの頃、あの頃の自分はなんとも幸せなやつだったと自分自身を評価する。

何れ終わるだろうと高を括って、直ぐ帰れるだろうと楽観していた。

そしてあれからもう三年が経ち、自分は二十歳になってしまった。

かつてのクラスメートの顔はおぼろげとなり、自分が現代人であることを忘れそうになる。

そんな中にあって、今でも忘れないのは日魅子のことだ。日魅子のことだけだ。

顔も、声も、笑顔も怒り顔も泣き顔も。まだ自分は忘れていない。

それだけが、もう自分と現代を繋ぐ絆だった。それすらも失えば、自分はもう戦えない。

続く戦争。終わらない戦争。終わりの見えない戦争。

九峪は、些か疲れていた。


「あれ、九峪様?」

背後から聞こえた声に、九峪は振り返った。

そこには、頬を赤らめた真姉胡が立っていた。

「こんなところで、お月見ですか?」

九峪の横に腰掛けて、真姉胡はそう問うてきた。

九峪は杯をクイッと傾けて、「ああ」と、それだけ短く応えた。

「真姉胡は、どうしたんだ?」

「わたしは夜風に当たりにきたんですけど・・・・・・お月見も、いいですね」

笑ってそう言った真姉胡に、九峪は笑顔でもう一つの―――日魅子に捧げていたお猪口を、真姉胡に差し出した。

「あ、ありがとうございます」

受け取って、真姉胡は酒を飲んだ。飲んでいるのは宴席のと同じだが、場所や環境が変わるだけで味が変わるのが、何となく面白かった。

杯を口から放して、ふぅっと息を吐いた。

それを見て、九峪がすかさず酒を注ぐ。

「い、いいですよ。自分でやりますから」

神の遣いに酌をやらせるなんてと、真姉胡は九峪を諌めようとする。

だがそれで引き下がらないのが、九峪と言う男だ。

「気にすんなって。今は神の遣いもなんも関係ないんだからさ」

「でも・・・」

尚も言い募ろうとする真姉胡に、九峪はどうするか考えた。

真姉胡は基本が奔放なくせして、真面目で義理がある。そしてどうにも自分という存在の価値を低く設定しがちだ。

それは九峪にもわかるくらいに、相手を高くする。

それが神の遣いならば、真姉胡などは蟻も同然だ。

だがそのことが、九峪は面白くなかった。まるで人間と見られていないようで、腹が立つのだ。

どうすれば真姉胡が砕けて付き合ってくれるか。今だけでいい、そうさせられる理由が欲しかった。

そう思って夜空を見上げて、ふとある考えが浮かんだ。

「なあ真姉胡。今この場で一番偉いのは、誰だと思う?」

「え?」

九峪のいきなりな質問に、真姉胡は頓狂な声を上げて返してしまった。

九峪がまさかそんなことを言うなど考えてもいなかったのだから、当然の反応ではある。

質問の意図はわからないが、真姉胡はとりあえず考えた。だが、考える必要もないかと、直ぐに思考を中断させた。

「それは、九峪様でしょう?神の遣いなんだから」

もしもこの場に他の者がいれば、同じように応えるだろう。

それだけ、真姉胡の応えは無難なものだった。

しかし九峪は、それに対して指で×を作って否定した。

「残念ながらはずれだ。正解は、アレ」

そう言って、九峪は夜空に浮かぶ月を指差した。

それを、真姉胡はきょとんとして見上げ、次いで九峪を見た。

「えっと・・・どういうことですか?」

真姉胡の、至極もっともな質問。

何故いきなり月なのか。わかるはずもない。

ましてや今は酒が入っているのだ、思考も鈍い。

「今は夜、出てるのは月。さて、耶麻台国の旗の象徴は何でしょうか?」

そう聞かれて、真姉胡は耶麻台国の旗を思い出した。

描かれているのは、天に昇る日輪。

それを思い出して、真姉胡はあっと声を上げた。

そんな真姉胡の反応を見て、九峪は笑顔を浮かべた。

「耶麻台国の象徴は『火』と『日』だからな。けど今は太陽はないだろ?出てるのはお月様だ。だから夜の今、一番偉いのはあの月だ」

何ともこじつけ見たいな理論だが、それだけで真姉胡は微笑んだ。

目の前の男は、本当におかしい男だ。至上でありながら、あくまで人間的だ。

こういう風に言われると、彼と自分の違いがわからなくなる。

「・・・そっか、そうですね。今偉いのは、お月様、ですね」

「そう。月の前じゃあ俺は唯の人間。真姉胡と同じ、人間ってわけだ。だから」

言って、自分の持つ空の杯を真姉胡に差し出した。

それをまた、きょとんと見つめる。

「今度は、真姉胡が注いでくれ。そしたら、次は俺が酌んでやる」

そんなことを言った九峪に、真姉胡は思わず笑ってしまった。

こんなことを言うのが、神の遣いなのだ。

「はい、じゃあお願いしますね」

杯に酒を注いで、真姉胡は微笑みながら手元のお猪口を口に運んだ。

何とも、温かい気分だ。

こんな気分で飲んだのは、生まれて初めてだった。

(ほんと、憎めない人だよね)

そう思ったと同時に、真姉胡の心が僅かに痛んだ。

それは、彼を騙しているという良心の呵責。日々の中で、悶々と考えていること。

非常に、冷徹に接するには、真姉胡はあまりに『少女』だった。

それが、今は苦しい。

(虎桃さんとかなら、なんともないんだろうな)

寧ろ人生を冗談で生きているような猛者である。この程度では響くまい。

あの図太さが心底欲しいと、真姉胡は切に思った。

「ん?どうした?」

いきなり暗い顔をして黙り込んだ真姉胡の顔を、九峪は怪訝そうに覗きこんだ。

九峪の顔を近くに感じて、真姉胡は余計に罪悪感を感じる。

この人は、自分のことをまったく疑っていないのだろう。そう人だと、思い知らされたのだから。

だから、余計に苦しい。まるで自分が汚く見えてくる。

こんな感情は余計だと、理性はわかっているのだ。

それでも、感情が追いついてこない。どうして自分はこうも『子ども』なのだと、嫌気が差してきさえする。

真姉胡は九峪の顔を見つめた。

もう、この瞬間だけで。

真姉胡は、限界だった。

「あの・・・お話があります」

真姉胡の唯ならない雰囲気に、九峪も僅かに顔を引き締めた。

こういう雰囲気の人間は、覚悟を決めて何かを話す。伊雅が清端の話をしたとき、悲しみと諦めの中に、決意を九峪は感じていた。

真姉胡の話は、決して笑い飛ばせるものではない。そう直感がする。

だから、聞かなければならない。九峪雅比古の持つ、全身全霊をかけて。

真姉胡は最初僅かに逡巡していたが、意を決して口を開いた。

これ以上、この人を騙したくはない。

騙し切るには、自分はあまりに『子ども』だった。

騙し切るには、彼はあまりにも『真っ白』だった。

だから、これ以上は限界なのだ。

(すみません・・・・・・天目様)

心の中で、天目に向かって謝罪する。

天目の怒鳴り声が、聞こえてきたような気がした

「私は・・・・・・・・・私は、天目様の部下なんです」

そうして、九峪は真姉胡の真実を知った。



真実を知った九峪は、このことを己の胸の奥にしまうことにした。

いまさらという思いもあったが、話しているときの真姉胡のあまりに思いつめた表情とともに過ごした時間の長さが、九峪にそうさせた。

ただこのことは唯一人、忌瀬にだけは話した。彼女も身の上では同じだからだ。

話したとき、忌瀬には珍しい神妙な表情で、

『真姉胡が話したなら、いいわ。それに九峪様は信じられるからね〜。よ、この色男!!』

しかし最後はやはり忌瀬な締めくくりで、話は終わった。

それから、九峪と真姉胡の新たな関係は始まった。別に恋仲と言うわけではないが、真姉胡が変に遠慮しなくなったのは嬉しい限りだった。

天目との昔話も、そのときに少しばかし聞いた。

真姉胡がここに来る理由となった話も、その時聞いたのだ。

















いつの間にか、雨は上がっていた。

心を沈めるばかりだった雨音は、昔話の最中に消えていたらしい。

だがそれでも気づかなかったほどに、二人は過去を思っていた。

真姉胡は相変わらず顔を俯けていた。九峪は、未だ傘を差している。

「・・・天目様の」

ぼそっとした呟きは、真姉胡から放たれたものだ。

それは、誰に向けてのものなのか、九峪かもしれないし、違うかもしれない。

独り言かと聞き違うような、そんな声で真姉胡は話す。

「天目様は、どんな風に死んだんでしょう」

真姉胡の問いに、九峪は何もいえなかった。それを知る者は、ここには誰もいないからだ。

遠征軍との戦闘中、天目隊は敵に包囲された。如何な巧妙な作も、圧倒的物量の前では紙屑同然だった。

天目とは別の戦場で、九峪もまた負傷していた。体の傷は、その時のものだ。

限界を知った天目は、親衛隊に共和国へと亡命するよう言って、一人立ち向かった。

数日して、山中で天目の死体が発見された。体中傷だらけで、なのに気高い死に姿だったと、発見した老兵は語っていた。

天目の死後、親衛隊は共和国に身を寄せた。天目の弔い合戦と意気込む彼女達を、九峪はそれこそ必死で抑えた。

今では各々がそれぞれの仕事をしている。調査から、中には工事を手伝う者もいた。

しかし真姉胡は、未だショックから抜け出せないでいた。それを訝しいと感じた幹部もいたが、忙しさがそれを忘れさせた。

唯一人、九峪は仕事の合間を縫っては真姉胡の様子を見ていた。

共有する時間が長くなったからだろうか、真姉胡が妹のように感じられるのだ。

だから、どうにも放っておけない。

「・・・きっと天目のことだからな。命乞いはしなかったと思う」

あの気高い天目が、そんな惨めなことをするか。そう考えて、九峪は言ったのだ。

プライドの高い女。だがそれだけでなく、そのプライドは絶対的な実力に裏打ちされた自信の表れだった。

「きっと狗根国の連中に向かって、高笑いしてたんじゃないかな」

その姿が容易に想像できる辺り、天目は只者ではなかったと改めて認識させられる。

「・・・そう、ですよね。・・・・・・天目様なら」

覇気のない声で、真姉胡は言った。

もはや憧れであった天目だ。

その姿は雄雄しく、気高く、凛々しく、そして美しかった。

体現された究極。子供の真姉胡には、天目はそう映っていた。

「・・・俺さ、思うんだ。今の真姉胡を見たら、天目きっと怒るだろうなって」

「え・・・」

不意に漏らした九峪の言葉に、真姉胡は顔を上げて九峪の顔を見つめた。

暗い顔だ。そして、悲しい顔だ。

それでも、見つめられればやはり恥ずかしい。九峪は頬をかきながら、言葉を続けた。

「俺から見た天目って、仕事に厳しそうな人でさ・・・自分の部下とか、馬車馬のように働かせていたような気がするんだ」

実際その通りなのだ。天目は仕事に関しては完全無欠な鬼だった。

彼女の前では働けない=無能・役立たず・切捨ての公式が成り立つのだ。

だから誰もが、自分が有能であることを常にアピールしていた。例外として、虎桃や案埜津がいるが。

それを見ていた九峪は、天目のことを仕事に厳しい人だと判断したのだ。

だからきっと今の真姉胡を見たら、それはそれは怒鳴り散らすだろう。

そう思ったのだ。

「『お前は何をしているんだ?』とかってさ。天目なら、そう言うと思うんだよな」

そう言う九峪の顔を、真姉胡はじっと見つめた。

だが不意に、その表情に笑みが差した。

僅かな、小さな笑みだった。

「・・・そう、ですね」

そう小さく呟いて、また黙り込んだ。

だが今度は、俯かなかった。

「俺の世界の言葉にさ、こういうのがあるんだ。―――『止まない雨はない』って」

「止まない雨は・・・ない」

九峪の言葉を、反芻する。

何故か、その言葉を理解できた気がした。

「どんなに悲しくても、人は歩いていくんだっていう、そう言う言葉」

そう、歩いていく。

日魅子に会えない自分も、歩いていく。

天目を失った親衛隊も、歩いていく。

そして、真姉胡も―――

九峪は傘をたたんだ。もう必要ないからだ。

まだ、止んではいないだろう。

だけど、いつかは止むのだ。

―――それが、雨だから。

「これ以上、天目に迷惑かけるわけには行かないだろ?」

その言葉に、真姉胡は小さく頷いた。

もう、十分だ。

真姉胡の雨は、いつか止む。

俺は、ただその手伝いをするのだ。

必ず、止ませて見せる。

雲の切れ目から、日が差し込んできた。二人を、温かく包み込む、そんな光だ。

光は、天目の墓も照らした。

「行こうぜ」

「・・・はい」

冥福を祈って、立ち去る二人。

戦いは終わっていないのだ。強大な力を持った敵は、厳然と聳え立っている。

そして立ち止まることは、何よりも天目を冒涜する行為だ。

彼女は強かったのだ。何よりも、誰よりも。

ならば自分も、ただ駆け抜けるだけ。

悲壮と決意を胸に秘め、真姉胡は歩みを進める。

その後姿を、日輪に照らされた幻は、静かに見送った。