火魅子伝   激情  終   (H:小説・ゲーム M:九峪・伊万里・志野 J:シリアス)   
日時: 03/25 00:11
著者: 志人





















 痛い。

痛い。痛い。

頭が。腕が。足が。体が。

 「姉様」

 どこからか妹の声が聞こえる。

 真っ暗な牢獄の中で奇声を上げながら激痛にのた打ち回る私は、

そんな自分の姿を生まれて初めて恥じる。

うずくまり、膝を手で抱えながら体を小さくし、ただ痛みを訴える。

 これが魔兎族の兎華乃なのだろうか。

 垂直に降り注いでいた雨もいつの間にか角度を鋭く変え、隕石のような凄まじさで私を叩く。

 大地が冷たい。

垂れた耳が水溜りの中に浸かり、色を白から茶色に変える。

 暗闇の中で蠢く私。

 キィィーーーーン

 「あああっ……痛……痛い」

 そうだ、これだ。

この音が聞こえ始めてから、何かおかしい。 

怪我も傷も負っていないし、血も流れていないのに痛みだけが加速する。

体中を駆け回り、全身の血が一気に熱湯に変わったかのような、

それでいて一つ一つの血管が破裂しそうな感覚。 

 私は自分の体を強く抱きしめ、痛みに耐えようとする。

だが、なぜか手を掴もうとすると全く違う部分、肘や肩などを触ってしまう。 

神経がおかしくなってしまったのだろうか。

 硬く閉じた目をかろうじて片方開けると、さらに頭が混濁した。

 自身の体が、自分の視界に映るはずなのに私の目に映し出されたのは、私であって私でなかった。

 成熟した豊満な肉体。

驚き、今度は痛みに耐えながらも両目を開く。

 なにこれ、と思いながらまだ自分の体に起こった異変を認識できない。

あるいはその自分の姿を拒絶しているのか。

 兎音や兎奈美にも負けないような体に成長した姿の私。

 なぜ急に。

強烈な痛みに加え、体の急激な変化。

 何が起こっているのか。

 キィィー…ーン

 「うっ」

 再び両目を硬く閉じ、痛みに耐える。

だが幸いにも、しばらくの間ずっと激痛に耐えていたためか、あまりの激痛に麻痺したのか、

少しだけ痛みが弱まったような気がした。

 自分の肺に溜まった空気をゆっくりと吐く。

吐いた息が自分の顔に当たり生暖かい。

 少しずつ、感覚が戻ってきた。 

そのおかげで全身が雨にひどく濡れていることに気付き、ゆっくりと体を起こす。

 まだ自分の体を抱きしめたまま離すことはできなかったが、

痛みにはなんとか耐える事ができそうだ。

 このまま死ぬのかもしれないと思っていたが、まだそのときじゃないらしい。

死ぬかもしれない、か。兎華乃は笑う。

 魔人の癖にそんなことを思うとは。

案外、臆病だったのだろうか。そんなはずはないけれど。

それとも、そういうふうに思わせるようにあの音が私の頭に響いたのだろうか。

 腕を静かに下ろす。

けれど、そんなことは些細な事だ。

何が起ころうと、

私が分からなければ、判断しなければならない事は一つだけだ。

 まだ、戦えるか。

 まだ、殺せるか。

それだけだ。

 殺意。

そう、殺意だ。

死を観察し、生を実感する術。

それが欲しい。

そのためにもこんなところで休んでいるわけにはいかない。

あの音を発したのが神の遣いかどうかはわからないが、そうだとしてもそうじゃないにしても

生かしてもらうつもりも生かすつもりもない。

 神の遣いを殺す。

 私がしたいのはそれだけだ。

 殺したいだけだ。

私が存在するのは人間を殺すためではないけれど、今はそのためにここにいる。

 理解できないといいたければ言え。

 馬鹿だと罵りたければそうしろ。

 だって、私たちは魔人。

 人間には理解できないもの。

 神の遣いを殺すために、今ここにいる。















王、とはすべての者を統べる者の称号であり、支配の象徴である。

支配、とは自分が他の者の思考や行為を束縛し、操る事にあたる。

操る、というのは支配しているものがその支配されているものを意のままに動かす事だ。

魔兎族の王、兎華乃。

彼女はそれを嫌う。

 魔兎という一族の特徴はその自由度の高さにあり、

それは魔人という人外の種族の中でもその度合いはかなりのものだ。

 普通、生き物の一族という枠の中では何かしらの制約が縛られ生きる。

責任感、誇りという重み、立場が上のものに対する敬する態度。

 だが、掟というのは決して悪い事だけではない。

役に立つ事も多々ある。

 連携という強さの保持、技の継承、教育の高さ、それは掟を守ることによって一族という特性に与えられる

ギブアンドテイクといったところだろうか。

 ともかくそれは一人で生きる動物には得られないものばかりだ。

 だから、少しぐらい癪にさわろうとどうしようと安易にそれを無碍にしたりはしない。

それは、人も獣も同じ。

だだ、魔人と呼ばれるものたちは少し違う。

 連携、技、教育?
       
 それはなにか、“ため”になるのか。

 すでに強さを持っているのに。

人間も魔獣も仙人も魔人には敵わない。

天空人ならばまともにやりあえるが、今は天空人との接触は皆無だ。

 唯一の強さを欲する理由は魔人同士の諍いだが、下等な魔人が上級の魔人に対して争いを

誘うことはできないし、上級の魔人同士なら自分の住処が荒らされない限り、お互いを滅ぼすことはない。

 一部の輩は魔界を自分たちの一族で征服するという動きがあるらしいが

そんなことに興味があるほうが魔人としては稀だ。

 ならば群れなど、一族など必要ないではないか。

魔人たちはこういう結論に至った。

 もちろん種族というのはある。

それを一族というかいわないかは別にして、同じような姿をしている事はある。

だからといってそれが仲間であるという事にはつながらない。

 ならばなぜ、魔人であるにもかかわらず魔兎は一族なのか。そして王という称号があるのか。

 それは、兎華乃がいるからだ。

彼女に惹かれ、集まったのだ。

その強さ、残虐さ、気ままさ、その外見に似合わず彼女は誰よりも魔人らしい。

 九峪が耶麻台国の神の遣いなら、兎華乃は魔兎族の神だ。

 神は生き物を統べる。すべてにおいて。

 キィィ……ィ…ーン

 音が少し小さくなった。 

それに従い、兎華乃を襲っていた痛みが引いていく。

 大人の体へと変化した体を自由に動かす事は、さっきまで子供の姿をしていた彼女には

少しばかり大変な事だったが、痛みが引いたことでそれも何とかなった。

 立ち上がり、軽く手を握って感触を確かめる。

次に自分の足に目をやると、うずくまっているときは胸に邪魔されて見えなかった

すらりと伸びた足が姿を見せる。

腰はくびれ、胸は豊かに発達している。

 これが大人の体。

兎華乃はさっきまでとは打って変わって自分が高揚していることに気付く。

もちろんまだ、痛みが引いたといってもまだ余韻めいて体が痛いのには変わりないし、

不快な音もまだ微かに聞こえるはずだったが。

 自分は痛みを凌駕して体の変化に喜んでいるのだろうか、と思った。

こんな事は戦いの、殺し合いのさなかではまれにあるのだが、

今それを感じるとは。

 ともかく。これでまた戦えそうだ。

そう思い、兎華乃は邪魔な前髪が雨のせいで額にはりついているのを鬱陶しそうにはらうと、

辺りを見回した。

 真っ先に視界に映ったのは、兎音。

金髪の巻き毛が雨にぬれて垂れ、体が妙に艶めかしい。

 けれどやはり、かなり驚いているみたいだ。目を大きく見開く。

いつもは冷静沈着なあの子も、自分の姉がこんなに代われば驚くのか。

軽い驚きを感じながらもなにか愉快になる。

 兎音のやや右には同じように驚いた表情の伊万里。

彼女の長く美しい髪は少し乱れている。

兎音と戦ったせいだろう。

よく見ると体にも切り傷が何箇所か目立つ。

洗い流されたのか止まったのか、血は出ていない。

 さらに辺りを見回す。

 そこで、兎華乃は周りが若干変化している事に気付いた。

それは地形や周囲の状態のことをいっているわけではない。

それについてはさほど変わっていないし、天候も相変わらずの豪雨だ。

空も暗い。

 九峪さんはどこに……?

 いないのだ。

神の遣いがいないのだ。

さっきまで伊万里の横にいたはずなのに姿がない。

 ドクン

兎華乃は魔人として初めて悪寒を感じた。

気味の悪い感覚、降り注ぐ雨の温度が下がったような高揚していた自分が冷めるような変な感じ。

それを一刻も早く拭い去りたくて後ろを振り向いた。

 このとき、兎華乃がおかしいと感じたのは九峪がいないからだけではない。

前方にいるはずで、いなくなっているものがもう一人いるのだ。

志野を殺し、九峪の恨みと憎しみをひときわ大きく受けるはずであろうはずの彼女が、いない。

いないということは、どういうことだ。

 兎華乃の頭に一つの結論が浮かぶ。

まさか――

 「兎、兎奈美…?」

 目線が、一点を凝視する。

横一文字に真っ二つに切り離された胴体。

上半身の近くには大量の血がどくどくと流れており、

水の溜まったところに血が溜まり、濃い赤が水を含んでいる。

紅い水溜りの中にできる波紋は、見た事がないほど気味が悪く地獄という空想の場所を連想させる。

 さらによく見ると、上半身の腕も切り飛ばされており足元には指が転がっていた。

 「なんだ…魔人の癖に血は赤いんだな」

 兎奈美だったはずの下半身の膝に鉄剣をズブズブと突き刺しながら男が嘲る。

背負っている志野の髪が九峪の顔を覆い、悪鬼のように見える。

 兎華乃は、いや兎音も伊万里も気付かなかった。

それほど素早く、いつのまにか兎奈美は殺されていた。

 九峪にとって兎華乃の体の変化など、どうでもよかったのだ。

 「九峪さん……貴方が?」

 「何いってるんだ、当然だろう」

 そういって、突き刺した剣を抜き、面白そうに眺める。

 「……そ、う」

 「………」

 九峪の兎華乃を見る目が細くなる。

それを見て、

 「妹だろ、返してやるよ」

 兎奈美の首級を兎華乃に投げた。

兎華乃はそれを胸で受け止めた。ゆっくりと兎奈美の顔を見つめる。

瞳孔が開き、目が開いたままの姿。

苦しかったのだろうか。それとも死を自覚できないほど一瞬だったのだろうか。

 彼女からはなにも聞くことはできない。

兎奈美は、死んでいる。

 「………兎奈美…」

 雨が降っているのは、幸いしたのかもしれない。

兎奈美の首から下は血がだくだくと流れているが、

雨水で拭い去られたのか顔には血がついていなかった。

 まだ暖かいそれは兎華乃にとって奇妙に美しく見える。

やさしく緑がかった髪を指ですくと、冷ややかな感触が指に伝わる。

 ドスッ

 けれど。

九峪が投げた剣がさらに兎奈美の後頭部に刺さった。

 兎華乃は思わず兎奈美を地面に落とす。

 九峪の口が面白そうに歪んだ。

 「あ……」

 「き、貴様ぁぁぁぁあ!」

 凄まじい威圧と殺意、これを発したのは兎音だ。

結構な距離の九峪との間合いを一気に詰める。

手には鉄剣。剣の柄が折れてしまいそうなほど強く握っているためか、兎音の手が赤く見える。

 「殺す!!」

 「……殺す…?」

 九峪が目を細め、兎音を射抜いた。

 「……違うな。殺されたんだよ、志野は」

 キ………ィィ……ン

 まだ、音は消えていない。

兎音の視界から九峪が消える。

 「死ね」

 志野を背負っているのはずなのに魔人である兎音の後ろをとるほどの驚異的なスピードで動く九峪。

兎音が振り返るが、遅い。

そこには大きく振り上げた剣を今振り下ろそうとする九峪の姿があった。

 ガキィィィ

 しかし、兎音の肉には届かず剣が交差する。

兎華乃だ。

九峪と同じく驚異的なスピードで九峪の剣を弾く。

 九峪はやや体制を崩し、今度は標的を兎華乃に変えなおしたのか剣を兎華乃に向ける。

同じように、兎華乃も手に持った短剣を九峪へと向ける。

 「兎音、九峪さんの相手は私よ」

 兎音の方は少しも見ずに言ったため、少し兎音の反応が遅れる。

 「…で、でも姉様」

 「下がりなさい」

 反論は許さない。兎華乃の語調が強まる。

それを聞いて、兎音が一歩ニ歩と下がっていく。

九峪もそれを追うようなことはしなかった。

 ごろごろと空から唸り声にも似た音がする。

 空気は湿気が多かったが今この場ではピンと張り詰めていて、

すべてがたやすく動く事をよしとしなかった。

 それはもしかしたら、すべての決着がつくまであとわずかだと暗示していたのかもしれない。

 たぶんそれは、この場にいる誰もがわかっていたことだった。

 九峪と兎華乃は石像のように動かない。

どちらの体からも殺気だけは消えていなかったが。

 「もう、音は聞こえないわ」

 唐突に兎華乃が口を開いた。

 なんのことだ、九峪が目を細める事で伝える。

 「あの音のおかげだったのね、あなたが変わったのは」

 九峪は握った剣に力をこめた。

兎華乃は九峪の急激な強さの変化はあの奇妙な音だと推理する。

あの音が聞こえ出してから、何かおかしい。

 自分の体にしてもそうだ。

いきなり急激に成長するなんてありえない。何か原因があるはず。

だとすれば、あの音がしてからだ。

 あれが聞こえ始めてから私の体は成長しだした。

あの音が聞こえなくなった今、勝機はこちらにある。

 それに、と兎華乃はさらに思う。

あの強さのままでもかまいはしないのだ。

その方がより楽しめるかもしれない。

より殺しに快楽が伴うかもしれない。

 だとすればあのままでいい。

だが、睨めっこをしていても始まらない。

あちらが動かないのならこちらが動くまでだ。

 兎華乃が前に一歩出ると、景色は動いた。

動いた兎華乃に対するように九峪がゆっくりと兎華乃へと歩み始めた。 

ぴしゃりぴしゃり、と大地を踏みしめながら。

 幽鬼のようにも見える九峪の姿に兎華乃は不信感を強める。

 まるで無防備。

少し本気でも兎華乃が出せば、すぐにでも殺せてしまいそうな考えを連想させる。

 距離が5メートルとまで縮まったところで不意に九峪が止まる。

顔は志野の髪がかかり、窺う事ができない。 

 兎華乃が短剣を左手に持ち替え、やや上体を前に出した。

そして――

 九峪が兎華乃へと思い切り踏み込む。

かなりの速さで右手に持った剣を横に剣を滑らせ、兎華乃の左のわき腹へとめがけた。

 兎華乃は短剣で弾く。

九峪が次に狙ったのは足。

弾かれた剣をそのまま振り下ろして左足を、

開いた右足には自分の左足を踏みつけるように持っていく。
 
 兎華乃は冷静に、剣を短剣で、右足を引っ込める事で防ぐ。

逆にその引っ込めた足で勢いをつけて腰をひねり、九峪の脛を蹴り上げた。

 九峪は思わず兎華乃のほうへとよろめく。

 倒れてきたところで兎華乃が思い切り右こぶしを九峪の腹に叩き込む。

にやりと笑みが浮かんだ。

 ―――九峪に。

 下げた頭をおもいきり振り上げる。

そこにあるのは、兎華乃の顎だ。

 ドゴッ

 兎華乃の顔が跳ね上がる。 

それを見て九峪が剣を胴へと薙ぐ。

 けれど兎華乃はそれを右手で止め、剣筋を押さえる。

 笑ったのは、九峪だけではない。

兎華乃は右手に力をこめ、九峪の体を持ち上げた。

 九峪の表情に驚きが生まれる。

志野と合わせれば100キロは超えるはずなのに兎華乃の顔に苦はない。

 そしてそのまま地面にたたきつけた。

急いで九峪が立ち上がる。

 が、兎華乃の姿がない。

 「こっちよ」

 後ろから聞こえてくる声に驚き、後ろに剣を薙ぎながら振り向く。

 10メートルあまりの距離をとった兎華乃が短剣を胸へと添えた。

 そして言葉をつむぐ。

「黒き炎!そはすべてを焼き尽くす。暗き昏き腐禍き根の国より来りて、紅き魔火き荒ぶる須佐ぶる災厄なり。

漆、失、悉。黒、酷、獄。炎、煙、怨。漆黒獄炎呪!」

 ―――瞬間、大地が裂けた。

獰猛な地響きをたてながら地面を上下に揺らす。

視界が二重三重にと幾重にも重なり、重力がなくなったかのような、

自身の体が把握しきれないような奇妙な感覚になった。

 けれど、空を圧迫し前方からの風は体を切り裂くかのごとく鋭い。

 九峪は思わずバランスを崩しそうになり、膝を折り、左手を地面についた。

ちょうど豪雨のためにできた水溜りに手を濡らす。

 しかし、なぜか水の温度が高い。熱湯、とまではいかないが確実に体温に近い温度になっているものがそこにあった。

気がつくと、自分の体を前から後ろへと頬を切り裂くかのようなスピードで駆け抜ける空圧も熱くなっている。

 九峪は眉をひそめた。 

 兎華乃が短剣を天に掲げる。

曇天の天空を貫くように掲げられた剣が雨の雫に濡れて、キラリと光る。

 バキィィィィィ 

一際大きなゆれが地面を上下に、九峪の体が一瞬宙に浮かぶほど揺さぶった。

右手に持った鉄剣を地面に突き刺し、しがみつく。

 ――ゾク

 初めに、それ、を見たのは九峪ではなく、伊万里だった。

伊万里は幸か不幸か九峪とは揺れをしのいでいた場所が違い、 

九峪の位置が兎華乃の前方なら伊万里は兎華乃に対して左側、

つまり、二人の位置がよく見渡せるところにいたのだ。

それが一番初めにそれを視認するに至った理由だろう。 

 そして、理解した。

それを見た瞬間、見たものが見てはいけないものだったということを。

 雨が全身を濡らし、体温を奪っているはずなのに。 

背筋に悪寒が走り、汗がしっかりと背中に流れるのを感じた。

 ―――竜。

 黒以外の色の色彩は体のどこにもなく、豪雨に関わらず燃えるようにゆらゆらと揺れながらも

どこまでも大きな体を持ったそれは、伊万里がとても小さな――地面に蠢く蟻や小虫のように判別する。

 口を開けば誰もが恐れ慄き、薄く開かれている目は酷薄に獲物を見つめる。

爪はその大きさだけで人間一つ分の大きさもあり、鋭く強大。

 ガクガクと震えるからだを感じながら伊万里は一点しか見ることを許されない自分に気づく。

意識を何とか九峪の姿を捉えるように懸命に努力するが、なぜかそうする事ができなかった。

 これが力か。

何者もが屈し、抵抗や反抗、あるいはそういった意識に反するようなものを

一つ残らず刈り取るような絶対的な力。暴力。

 伊万里など、きっと赤子をひねるように殺されるに違いない。

 もはや、どうすれば生きられるかでもどうすればこの場面をきりぬけられるかでもない、

どうやって死んでいくか。

 それしか選択権はない。

そんな考えが頭をよぎる。

 けれど、もう後がないのだ。

一人なら、きっとこのまま潔く殺されていただろうけれど、

今はそうじゃない。

 九峪がいるのだ。

人は自分のためなどよりも、他人のための方が自身の命を使える。

 「ああああああっっ」

 殺させるわけには、死なせるわけにはいかない。

 ほんの少しでも自分の体を自分の手に戻すために黒い竜に向かって叫んだ。 

足の腿を鉄剣で少しだけ斬り、震えを抑える。

同じように左手を思い切り噛む。

 立ち向かうために。

 それでも震えは止まらない。

 いったいいくら時間がたっているのか。

まだ一秒もたっていないのか。それとも、もう何時間もたっているのか。

 感覚は、ない。

 思いとは裏腹に腰が砕けて、地面に座り込んでしまった。

伊万里の目に九峪が竜に叫びながら向かっていく姿が映る。

 まだあの人を死なせたくなんか、ないのに。

 死ぬ?九峪様が?

 ………なら、わたしのできることは一つだ。

 それが唯一で、憧れていて、もっともやりたかったこと。

 たぶん、あなたに会ったときから。

 伊万里はもう一度、立ち上がる。 

 そして―――

 戦いは終わった。




















                         *




















 志野が死んだ。

俺の背中に居る志野は、もう志野であって志野ではない。

ただの死体だ。

 自分でもわかっているのだ、こんな事をしてもまるで意味がないと。

志野の体を背負い、制服でくくりつけたのは咄嗟の事で自分でもなぜそんなことをしたのかわからないし、

それからどうすればいいのかもわからない。

だが、何もせずにはいられなかったのだ。

 いつもの流麗な顔についた地面の泥。

綺麗な青い髪についた赤い血。

薄めの煌びやかな服には、これ異常ないくらいに泥と赤い血がついていて、

降り注ぐ豪雨はそれを拭ってくれさえしない。

 とても我慢なんかできなかった。

我慢なんかしてはいけないと思った。

ただ、触れたかった。

触って、できるならもう一度志野のぬくもりを感じたかった。

あの、

―――温かさを。

いつもの光り輝いた笑顔を。

 だが、もう無理らしい。

何をしても志野が生き返る事がないし、何をしても死んだことには変わりない。

今俺にできる事があるとすればそれはただ、志野は死んだ、それを認識する事だけだ。

 けれど、それすらもできなくて、俺は志野の体を背負っている。

こんな姿であっても、死体であっても、背負っているのは、

志野だ。

 そんな子供じみた、狂った考えが自分の頭を支配して、ただ体を突き動かしている。

 気付いてしまった。

気付かなかった方が、それこそ最後まで気付かずにいられればそれが一番よかったのだが。

 悪かったのは、いや悪いのは俺だ。

 神の遣い。

そのプレッシャーを人にぶつける事で少しでも自分の荷物を減らそうとした愚考した俺が。

つらさも苦しさも重さも俺だけじゃなかった。

みんなそれぞれ背負っていたはずなのに。

 それに考えようによっては一番楽だったのは、俺だったんじゃないだろうか。

最高責任者という名目を盾に、ちょっとした計略以外すべて仲間に任せ、

後は気楽に上座でふんぞり返っていた俺が。

 為政者、なんてテレビで見ていて誰も彼も自分の事しか考えていない糞野郎だと思っていたけど、

自分はそれと何か違いがあるのだろうか。

 何も違わない。

むしろ、それを人のせいにして責任放棄した俺のほうが屑だったのかもしれない、

 実際、それに気付いたのは志野がいなくなったからだ。

志野があの時説得しに来てくれた時に気付くべきだったのに、

俺はただ志野を言い負かしたと思って満足していただけだった。

 俺は、本当に神の遣いではなくなった。

そして、もう戻る事は絶対に不可能だということを理解した。

 神は俺に報いを与えたのかもしれない。

神の遣いという使命にをまっとうできなかった俺に。

 その対象が俺自身でなく、大切な仲間なのは俺に対して効果覿面だった。

 そう考える自分は神の遣いだったという驕りなのだろうか。

いや、どちらかといえば憎悪からできたものだ。

それは志野を殺した兎奈美という魔人に対して?

それとも俺のふがいなさに対して?

どちらも、違う。

 それは、神というものに対してだ。

なぜこんなにも神というのは理不尽なのか。
 
なぜこんなにも神は唐突なのか。

神はとても崇高で絶対的なものであるから俺たち人間には理解できないとでもいうつもりか。

 馬鹿げている。

それならば、人間などという脆弱なものを創らなければいいではないか。

こんな悲劇的な運命を用意し、それを見ているなど悪趣味以外の何でもなく、

悪という存在と何も変わらない。

 元はといえばすべてお前のせいなのだ。

神という畏敬な存在がいたからこうなった。

もちろん今の俺に対してお前はそんな大層なものではなく、

ただの俺の憎悪の対象だ。

今すぐにでも殺してやりたくてたまらない。

どうすればいい。

―――決まっている。

元に戻すために、壊せばいいのだ。

壊してしまえばいいのだ、何もかも。

壊して壊して壊して、考えるのはそれからだ。

そのときにもし志野が近くにいたら聞いてみよう。

こんな俺でも神の遣いに見えるかと。

神の遣いに見えるというのなら、それはとても悲しいけれど仕方ない。

もし見えないというのなら、その時は今度は俺が“志野”という存在を殺そう。

そして、迎えるのだ。

新たな志野を。

光り輝くあの子を。

その時。

その時志野は、喜んでくれるだろうか。

あの美しい顔で。

………どう思う?君は。

すべて終わった今でも。

まだ、俺は神の遣いか?




















                         *




















 「―――お久しぶりですね」

 「ああ、うん」

 「こうやって面と向かって話した事はあの時以来かしら」

 「そうだったかな」

 「ここは、いいところだとは思いませんか」 

 「……うん、そうだね」

 「………」

 「………」

 「……あの後もずっと、拝見させていただきました」

 「そう、なんだ」

 「ええ」

 「……ごめん」

 「謝らないでください。あれでよかったんです」

 「でも、」

 「それに謝りたいのはこっちですから」

 「え?」

 「誰を想っているか、気付いていたんでしょう?」

 「………」

 「ごめんなさい、邪魔をして」

 「そ、そんなこと」

 「でも、謝罪はしても後悔はしません…私は卑怯ですから」

 「……うん」

 「どうしても、欲しかったんです。生まれて初めて何を捨てても人のものでも得たい思った。

 だから……ごめんなさい」

 「……死んだら文句も言えないよ。まだ、生きてる人もいるんだから」

 「……そう、ですね」

 「これで、これからは変わるんじゃないかな」

 「どうしてそう思うんですか」

 「……信じてるから。それに―――」



















 「―――私はどんな風になろうと九峪様はやっぱり九峪“様”なんだと思うし」

 「……そうですね。では、そろそろ行きましょうか。伊万里さん」

 「そうだね、志野さん」




 「「九峪様、信じていますから」」


























                         激情・完

























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