火魅子幻想譚 第十六話・代償(H:小説+オリ M:九峪、キョウ、伊雅、瑞禍、忌瀬、紅 J:シリアス+コメディ?)
日時: 01/04 19:12
著者: 由紀





火魅子幻想譚 第十六話・代償




「九峪、大丈夫………?」

傍に浮かんでいるキョウがいつになく心配そうな口調で聞いてきた。
一瞬勘付かれたかとも思ったが、単純に疲弊している九峪を慮っての言葉だったようだ。

出来る限り平静に、いつもと変わらぬように答えた。

「少し疲れただけだ……。いろんなことがありすぎたから」
「そっか。ならいいんだけど………」

どこか納得していないながらも、それ以上深く詮索はせずにキョウは引き下がった。
普段は軽そうな性格なのに、時折この精霊は妙な勘の鋭さを見せることがある。

自分の今の状態を知られたくはない。
別に同情を買いたくて切り札を使ったわけではないし、代償のことも覚悟してのことだったのだ。

わざわざ士気を下げるようなことを言う必要もないだろう。


(…………気持ち悪い)
九峪はそう思った。さりげない仕草で口元を押さえる。
まだ嘔吐までには至っていないが、臓腑の辺りに沸々と不快感のような物が生じてきている。
既に代償の兆しが出始めているようだ。

以前子供の頃に、入り口間際に入っただけでも三日近くに渡って衰弱し続けた。
他にも、微量ではあったが吐瀉物に血が混じりもしていた。

今回は入り口を通り越して奥深くまで入ってしまったのだ。
どのような代償が出てくるのか、想像もつかなかった。
最悪死に至る可能性だってある。

はっきりとした症状はまだ出てきてなかったが、遅かれ早かれ身体を蝕んでくるだろう。

「キョウ」
「なっ、何?」

九峪の呼びかけの口調に何か違うものを感じ取ったのか、キョウが慌てて答えた。
そんな妙に人間くさい精霊に微笑ましさを感じながらも、

「悪い、少し一人にしてくれないか………?」
「ど、どうしたの? やっぱりどこか痛めたの!?」

キョウが勢いよく九峪の左肩に乗ってきて尋ねた。

心配してくれているのはわかっている。
感謝しているし嬉しくもある。が、今はそれが少しわずらわしかった。

高熱を出した人間と同じだ。
今の九峪は会話することさえも億劫であった。

「心配はいらない。ちょっと考え事をしたいだけだ」
「でもさ……」
「………頼む、キョウ」

九峪のその言葉が決定的だったのか、力なく頷くと、少し離れた所で捕虜となっていた少女達の様子を見ている伊雅達の方へ飛んでいった。
その後ろ姿を見てほんの少し罪悪感が芽生えたが、無理矢理押し殺すと、木の幹に大きく体重を預けるようにして寄りかかった。

背中越しに伝わってくる幹の冷たさが快い。
視界がぐにゃりと歪むので、目を閉じた。
僅かながら不快感が薄まった。これもおそらくは代償の一部なのだろう。

考えてみれば先程も危なかった。
何の脈絡もなく九峪は意識を失いかけたのだ。
幸い近くにいた伊万里が――今は上乃を介抱している――咄嗟に支えてくれたから良かったものの、もしそうでなかったらそのまま崩れ落ちてしまっただろう。

今もそうだ。
油断をすればすぐに気を失ってしまいそうな気がする。

フゥーと大きく息を吐き出す。
ほんの少し、身体の不快感の塊のようなものが外へ出て行ったように思う。
所詮は気休め程度だったが………。


(それにしても、久しぶりに領域に入ったな………)

領域――それが九峪の切り札の名称であった。
「あのひと」が便宜上つけた呼称であったが、言いえて妙だと九峪は思っていた。

実際に使っている九峪も、この力に関しては理屈はよくわかっていない。今回も以前の時もほとんど感覚的に使いこなしていた。

領域に入ると、「敵」以外の不純物が形と色を失ってゆき、白色の世界へと変わってゆく。
そんな中で変化が起きていない「敵」が動くと、通常の何倍もの速さで察知することが出来るという代物だ。

真っ白な画用紙の上で異物が動くと、それがどんなに小さくとも視界の端に止まる。言ってしまえばその原理の強化版のようなものだ。
加えて身体能力も一時的にではあるが、飛躍的に高まる。

が、当然のことながらデメリットも――代償も存在する。

それは意図的につかえないということだった。
実際何度か試したことがあるが、入れたことは一度もなかった。
何がきっかけとなって、あの世界に入ることが出来るのか、その理由は良くわからない。だからある意味、切り札というにもおこがましい。

そしてもう一つ、決して軽くはない代償。
それが、既に九峪の身体を侵食しつつある症状のことだった。

肉体の衰弱、喀血、内臓器官の不活性。
ありとあらゆる負の症状が、身体を絶え間なく襲ってくるのだ。

「っ………!」
突如身体を激痛が駆け巡った。
歯を食い縛って耐える。声を上げてはならない。伊雅達に気付かれでもしたら面倒だ。

そうして身を硬くしてじっと蹲っていると、ようやく痛みが遠ざかった。
フゥッ、フゥッと荒い息を吐く。

脂汗をかいた額を拭う。死人のように冷たい肌にゾッとする。
心底夜の闇の中で良かったと九峪は思った。きっと今の自分の顔色は蒼白となっているはずだ。
自分でも、血の気がないということをはっきりと感じられる。

このまま眠りに入ったら、もう二度と目を覚まさないのではないか。
そんなことを感じさせる意識の重さが頭を擡げ始めてきた。
それに必死で耐えながら、

(…………駄目だな)
夜の暗さのせいなのか知らないが、思考がネガティブな方ばかりに入ってしまっている。

嫌なことは考えないほうがいい。

――どうせ死ぬ時は死ぬだけ。

「あの人」が笑顔で言っていた言葉を思い出す。
不思議なものだ。それだけで、生じかけた恐怖が完全に消え去る。

知らず心が穏やかなもので満たされる。
それが一瞬気の緩みに繋がったのか、

「九峪様?」
「!?」

横からかけられた伊雅の声にビクリと反応する九峪。
外部への意識を完全に失うほど、思考が沈んでいたようだ。
伊雅と一緒に戻ってきたキョウが再び九峪の左肩に止まる。その表情は相変わらず心配そうである。

「九峪様……? 大丈夫ですか?」
「あ、ああ、悪い。少し考え事をしていたんだ………彼女達は?」
「今意識を取りもどしました。目立った外傷もなさそうですし大丈夫なようです」

火魅子候補を含む四人と無事合流を果たせたことが伊雅にとっては何よりも嬉しかったようだ。その声も弾んでいる。

「とりあえず落ち着いて話すためにも場所を変えようと思いますが……」
「わかった。さすがにここじゃな……」
苦笑しながら廃棄された社殿を見やる。腰を落ち着けるためには、控えめに言ってもボロボロ過ぎる。

社殿だけではなく、その前の広場も戦いの余波を受けて荒れまくっている。
特に、瑞禍がやったと後で聞かされた、隆起した岩石群は凄まじいことになっていた。

「何でもここから西に少し行った後に昔の砦跡があるそうです。ひとまずそこへ向かおうかと」
「ああ……!?」

返事と共に背を起こして立ち上がった九峪が、不自然な風にバランスを崩した。
膝が折れて前のめりになる。咄嗟に手をついて事無きを得たものの、九峪本人も予想外の事だったのか、その表情には驚きがあった。

「く、九峪様!?」
伊雅が驚いたように呼びかけるが、ほとんど九峪の耳には届いていなかった。

自身の身体を襲っている代償の酷さに理解を追い付かせるのに精一杯だったのだ。

(覚悟してたとは言え……)
やはり辛いものがあった。

感覚がない。

それが今九峪を襲っている症状だった。
今も立ち上がろうとしたのに、踏みしめた地面の感触がわからなかった。だからバランスを崩してしまったのだ。

いや、僅かではあるがそこに意識を集中させるとうっすらと感じることが出来る。
だが意識しなければ無感覚の状態と変わらない。

バランスを支えた手の感覚も、遂今しがたまで身体を癒していた幹の冷たさも、ほとんど消えうせてしまっている。
全てから取り残されてしまったような、全てから見捨てられてしまったような寂寥感を覚えた。

それでも、身体が覚えている感覚や感触を思い出しながら、何とか立ち上がると伊雅に言葉を返す。

「……悪い、少し疲れたみたいだ……」
「大丈夫ですか……? 少しここで休まれては……」
「いや、砦跡に行ってから休むから平気だ…………出発しよう」
「………承知しました」

こういうときの九峪は決して折れることはないと、伊雅もわかってきたらしく、それ以上は何も言わず九峪の言葉に従った。
が、それでも伊雅も、そしてキョウも心配そうな表情だったが。

「行こう……」
二人の心配を無理やり無視するかのように告げると、九峪は歩き出した。

その足取りは酷く頼りなかった。










――――狗根国軍統治下の街にて――――



横に抱えていた瑞禍を乱暴に寝台の上に放り投げると、紅は兵士を呼んで忌瀬を呼ぶように言い付けた。

慌ただしく出て行く兵士を見送ってから、寝台の上で蹲る瑞禍に視線を向ける。
もうほとんど血は止まってきているようだが、それでも痛みは未だ押し寄せてくるらしく、じっとしたまま動こうとしない。

顔色も生気が失われたように蒼白となっているが、呼吸はしっかりとしている。
傷も致命傷には至っておらず、単純に出血量が多すぎただけのようだ。

「それにしても……」
おっとりとした口調で紅が口を開いた。

「あなたほどの人が負けるなんてね……」
そこに侮蔑の色はない。ひどく楽しそうな、意外なものを見つけたように微笑んでいる。

瑞禍は答えない。無言のままだ。

いつのまにか仰向けになって、薄汚れた天井をぼんやりと見つめている。
紅が言葉をかけても、興味がなさそうに顔すら動かそうとしない。

規則正しい呼吸に合わせて豊かな胸が上下している。
流れ出した血に染まった白の衣服は、文字通り血糊化して固くなっていた。

瑞禍の無反応に気を悪くした風もなく、紅は言葉を続けた。
「相当に強いのかしらね、あの蒼い瞳の子は……? あまりそんな風には見えなかったけど……。」

紅が考え込むようにして、どこか瑞禍の興味を引こうとでも言うように、言葉を紡ぐ。

「それとも、わざと負けた………のかしら。九魔の将の瑞禍ともあろう人が」
「………………」

やはり、瑞禍は答えない。変わらず天井を見つめたままだ。だが、その雰囲気にはどこか空々しさがあった。

僅かながら反応を返した瑞禍に気を良くして、

「でも、彼はいいわね……とても美しかった」
九峪の戦う姿を思い出したのか、紅の口調に熱いものが混じり始める。

「彼………殺したらいい声出すかしら………?」
紅が溢れる狂気のままそういった瞬間であった。

ギシィィ!!!

一瞬で空気が凍りついた。
先程九峪たちと戦った時とは比較にならぬほどの殺気。

一瞬で室内の温度が数度も下がったように錯覚する。
あたかも冷気が包み込むかのように、室内を侵食してゆく。

しかし、そんな中で紅はむしろうっすらと微笑んだまま佇んでいる
瑞禍から発せられる静かな殺気の波を心地良さそうに全身で感じていた。その表情は恍惚としている。

ユラリ、と寝台から瑞禍が立ち上がる。手負いの様子など微塵も感じられなかった。
明確な殺意を持った、情無き者の姿がそこにはあった。

「うふふ、嫌ですね。冗談なのに」
心の底から楽しそうに笑う紅。この状況でそうした態度を取れることから、彼女もまた相当の実力者であることが知れた。

「安心してください。貴女の邪魔をするつもりはありませんし、誰かに言うつもりもありませんよ。耶麻台国も狗根国も私は興味ないですしね……」
ニコッと笑顔で言う。
そんな紅を、疑わしそうに瑞禍は見ていたが、一応は信用したのか、部屋を震わせていた殺気を収めた。

普段から本心を見せることなく、今もそうしたように冗談を言うこともある紅だが、実はほとんど嘘をつかない。
それは彼女の先天的な性格に起因する。

嘘とは突き詰めれば、偽りを演じて相手を謀るということだ。相手を陥れる幻を作り上げ、それによって相手を包み込む。

だが、紅はどこか天然とした性格のためにそうすることはない。
あまりいろいろと考えることもなく、ただ自分の楽しみのために生きているような感がある。
だから、特定の存在や事物に執着することはまずない。

わざわざ瑞禍と対立してまであの蒼い瞳の青年を殺そうとは思わない。
彼を殺そうとしたら瑞禍が怒った、ならばやめておく…………ただそれだけのことなのだ。

そうした紅の一面を、浅からず知っていたからこそ瑞禍は信用した。おそらく紅以外だったならばとっくに葬られているだろう。

なんとか殺伐とした空気が消えて、そしてそれを見計らったように部屋の扉が開いて、飄々とした女性が入ってきた。
女性は何やら手に持った大小様々な麻袋を適当に床に置くと、明るい声を出した。

「どうしたんです、紅さん?」
「よく来てくれましたね、忌瀬。…………ちょっと瑞禍を診てやっていただけます?」

スッとまた寝台に横たわっていた瑞禍を指差した。
忌瀬は視線を向けると、ほんの少し驚いたような顔をした。が、特に何も言うことなくスタスタと寝台の傍まで行くと、かがんで瑞禍の傷を診始めた。

時折触ったり、内部の様子を調べるために少し傷口を外側に開いたりした。その度に軽くはない痛みが襲っているはずなのだが、反応を返すこともなく、かといって痛みに必死で耐えているような様子も見せることなく、瑞禍は忌瀬のなすがままに任せていた。

やがて、ふむ、と一つ頷くと忌瀬は振り返ることなく、腰に下げた袋からいろいろと取り出しながら紅に声をかけた。
 
「紅さん、そこの麻袋から消毒薬と薬草とってくれません?」
「? ええと、これかしら?」

きょとん、と困ったように紅が返しながら、一番近くにあった袋を調べ始める。
だが、中から出てきたのは明らかに身体に良くなさそうな色の液体が入った瓶であった。

………何と言うか、毒と言うのも可愛らしいと思わざるを得ないような色である。
とりあえず丁重にそれを戻しながら、今度はその奥の袋を調べた。が、出てきたのは大量の蛇の死骸や、植物の根であった。おそらくは薬の原材料にでも使うのであろう。

これも違いますね、と呟くと紅は同じように丁重にそれらを袋の中に戻した。そんなとことんマイペースな彼女に忌瀬は苦笑して、

「ちょっと黒ずんだ、大き目のぼろぼろの袋の中に入ってますよ」

瑞禍の傷口を、竹筒に入っていた清水で丁寧に洗いながら、紅に言う。
該当する袋を見つけ出すと、早速中を調べ始める紅。何故かひどく楽しそうだ。

「随分と風雅な袋ですね」
「そ、そうですかね〜……」

キラキラと目を輝かせる紅に対して、少し頬を引きつらせながら同意しかねるように忌瀬が答えた。

まあ、百人中百人が間違いなく「ボロい」と答えるような袋を風雅だと言うのは紅ぐらいのものだろう。

かわいい物や美しい物が大好きな紅であったが、少々彼女の美的センスは変わっている。

ともあれ、縛っていた木の紐を緩めて口を開けると、ようやく目的の物が出てきた。
小瓶と、束ねられた薬草を取り出して、忌瀬に手渡す。

それが済むと、再び紅はその袋を楽しそうに調べ始めた。脇目もふらず、玩具を与えられた子供のようにためつすがめつしている。

そんな彼女の様子を………まあ見なかったことにして忌瀬は、傷口の処置を再開した。
瑞禍の表情をみると、そこには若干紅に対して呆れている色があった。心情的には忌瀬と同じらしい。

ちょっと染みますよ〜、と軽口でいいながら消毒薬で傷口を洗浄する。それが終わると先程腰の袋から取り出した容器と棒で薬草をゴリゴリと磨り潰していく。
少しずつ粘性を持った粉末になってゆくにつれて、強烈な異臭を撒き散らしてゆく。
わかっていても顔を歪めてしまう様な匂いだ。

自分は慣れているから気にすることもないが、瑞禍と紅はどうだろうか。
何とはなしにそう思って忌瀬がそっと窺ったが………瑞禍はまったく表情を変えずに、紅は知ったこっちゃないと言うように袋をがさごそ扱っている。

(この人達に普通の反応を期待するのがアホらしかったね〜)

真面目な顔で薬草を磨り潰しつつ、心中そんなことを考えていた忌瀬であった。

頃合良くなったところで適量を取り、傷口に万遍なくぬっていく。

最後に、瑞禍の上体を起き上がらせると服を捲り上げて腹部をさらけ出させる。ほっそりと見事なラインを描く腰が見えた。
おお〜、と感嘆の声を出しながら(ちょっと瑞禍に睨まれた)慣れた手つきで切り取った布を押し当て、その上から包帯を巻いていった。

ものの数分もせずに、一通り処置が終わる。なかなかの手早さだ。

寝台で服を整える瑞禍を横目に、忌瀬は洗った道具の水滴を布でふき取ると、袋の中に一つ一つ仕舞っていった。
と、ふと気付いた素朴な疑問を訊ねた。

「にしても、瑞禍さんが怪我するなんて珍しいですね。誰にやられたんです? …………ひょっとして喧嘩とか?」
瑞禍と紅に交互に視線を動かしながら忌瀬が悪戯っぽく言う。

が、よくよく考えてみるとこれは愚問である。
何故なら、仮に本気でも遊びでも、瑞禍と紅が喧嘩したら傷一つでは済まない。

………それこそ村の一つや二つ平気で吹っ飛ぶからだ。

「痴話喧嘩ですよ」
紅が同じく悪戯っぽく返す。が、これは失敗であった。

ギュォン!!

物理上ありえないような飛来音をたてて「何か」が忌瀬と紅の鼻先を掠めると同時、ガスッ、と軽い音が横から聞こえてきた。

嫌な汗が流れるのを感じた忌瀬が恐る恐るそちらを見ると、木の壁に箸が刺さっていた。
ビィィィィンと未だ上下に勢いよく揺れているその様が力の凄まじさを物語っている。

今度は、やっぱり恐る恐る反対側を見ると、瑞禍が何かを投擲したような格好で止まっていた。
その傍にはこの部屋の持ち主のものであろう食器一式が置かれてあり、そこの箸が片方なくなっていた。多分今飛んできたのはそれだ。

「えっと……瑞禍さん、箸を投げるのは女性としてどうかなーと……」
こんな時でも軽口をたたける忌瀬はなかなか大したものであったが、さすがに命は賭けられないらしく、何も言いませんし何も聞いたりしませんと、ぶんぶんと首を縦に振った。
紅はあんまりこたえなかったようだが、それ以上は何も言わなかった。

一応二人の反応に溜飲が下がったらしい。というか血が足りなくてそのまま寝台の上で大人しくなった。

そうした瑞禍の様子にさすがの忌瀬も真面目な表情に戻って、

「とりあえず処置はしましたんで、後はしばらく安静にしていてくださいね〜。それと定期的に食事を取ってきちんと血を作るように」

反対するようなことは何もないので、素直に頷く瑞禍。

「じゃあ、お大事に〜」
最後まで軽い口調で言うと忌瀬は、床に転がった麻袋を担いで部屋を出て行った。

紅も、なにやら先程の気に入った袋をぎゅーっと抱きしめながら後を追うように部屋を出て行った。
最後に珍しく優しい視線を瑞禍に向けながら。

忌瀬と紅が出て行くと、途端に部屋が静かになった。
いかにあの二人が空気を騒がせるのかがよくわかる。

よろよろと扉の方へ行って鍵を掛けると、そっと自らの仮面をとった。

ふらつく足取りで再び寝台の方へ向かった。

途中仮面が手から滑り落ちて、カランと響く音を立てた。

バタリ、と倒れ込んでそのまま美しい瞳を閉じた。
程なくして、スゥーと静かな寝息がたてられ始める。

その寝顔は………綺麗だった。
とても優しく、穏やかで。

眠りに落ちる彼女の脳裏には、一人の青年の姿があった。

蒼く輝く、澄んだ水のような刀を構える青年の姿が……。












(……くそっ……)

いつもの九峪であれば決してつくことの無い悪態であった。さすがに自身の胸中だけで、口に出すことはしなかったが。
やはり変わらず足取りが頼りない。

一行は、廃棄された神社から西にあるという砦跡に向かっていた。
夜の森を歩くのには少なからず危険があったが、さすがにあの神社では落ち着いて話すことも出来なかったので仕方なかった。

が、その行程はなかなか進まなかった。言うまでもなく九峪が原因であった。力を使った代償に感覚を失い、そして痛みだけは変わらず身体を襲っているため、その動きは重い。
それでも、なんとか伊雅達に遅れないように進んでいたのだが、踏みしめる地の感触がわからないためにバランスを何度も失い、次第に遅れつつあった。

そして今、何度目かの小休止をとっていたのだ。
休んでいるのにもかかわらず、絶え間なく九峪の身体を激痛が襲う。
この分ではまた歩き出してもすぐに遅れ始めるだろう。

だが、どれだけ九峪が足取りを乱しても伊雅達は責める事はしなかった。
それも当然である。

圧倒的な強さを誇った瑞禍に手傷を負わせ、結果的に見逃されたとはいえ命が繋がったのは九峪のおかげであったからだ。
ただ、彼らは今九峪を襲っている症状は知る由もなかったし、戦いによる消耗だと思っていたからその表情に深刻なものはなかった。

そして何よりも、九峪のことを疑いなく神の遣いと思っているのだから、責めるなどとんでもないことであった。
先程も移動する前に、互いに簡単な紹介をしたが、そのときの亜衣達と伊万里達の九峪に対する驚きは言葉にしづらいものがあった。
(加えて九峪の神の遣いらしくない態度も拍車をかけていた)

特に伊万里達は、星華が火魅子候補であることにも驚いていたが、九峪に対するそれは遥かに上回った。
現代人と違って(もちろん現代にも熱心な信仰者はいるが)この時代の人達は信仰に対して非常に真摯であり、敬虔だ。

だから、神の遣いである九峪に対しては畏敬の念があって当たり前であった。

当初の予定通り、火魅子候補を超える求心力の存在をつくるというキョウの狙いはほぼ成功したことになる。
が、そうした策に万全などありえない。少なからず亀裂もまた表裏一体に存在しているのだ。

伊万里と上乃、星華や衣緒、羽江は耶麻台国復興に希望が増えたことに素直に喜んでいたが、亜衣の心境は複雑であった。
無論彼女にとっても喜ばしいことではあったのだが、同時に懸念も生じていた。

少し思考を巡らせてみればわかるだろう。

今この場に居る全員の目的ははっきりしている。

――耶麻台国の復活

だが、少なくともそこで物事は完結しない。

当然のことながら復興の後も諸問題が山積みとなっている。
そしてそれを先頭に立って解決してゆくのは言うまでもない、火魅子候補だ。

が、九峪の存在が予定調和に楔を打ち込んでしまう。
火魅子候補と言っても所詮は生身の人間だ。神の遣いだとされる九峪とは存在の格が違う。

星華を火魅子にうちたてることを目標としている亜衣にとっては、戦時中から主導権を握れるかどうか微妙なところである。

策士の亜衣らしく、そうしたことを冷静に考えている彼女の思考を、自分を見る視線から感じ取った九峪だったが、別段嫌悪感は覚えなかった。
むしろ、人間なら当然のことだと思っている。

もっと醜い、人の汚さを現代で嫌というほど知った九峪にしてみれば、亜衣の考えなどまだかわいいものであった。
それに復興が終われば自分はこの時代から消えるのだから、あまり気にすることもないだろうと思った。



いささか話がそれた。元に戻そう。



伊雅達は九峪の様子を、消耗と考えていた。
だが、それは全員ではなかった。

違和感を感じていた二人がいたのだ。

キョウと伊万里である。

ほとんど直感ではあったが九峪の様子のおかしさにそれとなく勘付いていた。

特に伊万里は、唯一九峪と瑞禍の戦いを間近で見ていたために、その直後の様子と今の九峪とに違和感があるのをどうしても拭えなかった。
だが、おいそれと九峪にそのことを聞く勇気はなかったから、ただ黙って見ているしかなかった。

しかしキョウは、何度もバランスを崩したり、他に誰も気付いていなかったが九峪の無表情が微かに歪んでいるのを見かねた。

もとはと言えば自分が九峪をこの時代に呼んだ。
そもそもの原因はその一事に尽きるのだから、それを気にしない厚顔さなどキョウは持ち合わせていなかった。

「ねぇ、伊雅」
「? どうされました、キョウ様?」

全員が、その場に思い思いに腰を下ろして休んでいたところ、キョウが伊雅の肩に乗って囁いてきた。反射的に伊雅も小声で返す。

「九峪がね、まだ回復するのに時間がかかりそうだから、伊雅達は先に砦跡へ行っていてくれないかな」
「む……ですが……それは」

神の遣いを一人残して先へ進むことなど、と言おうとした伊雅を遮る様に、

「いろいろと考えるのにも丁度いいから九峪が一人になりたいって言ってるんだ」
「む、ううむ……」

何やら唸っていたが、

「それと伊万里もこっちに残ってもらうから大丈夫だよ。まだ言ってなかったけど彼女はね……」

キョウが何やら耳打ちする。すると伊雅の顔が驚愕に染まった。そして全て合点が行ったと深く頷いた。

「伊万里を残すことにも抵抗があると思うけれど、ここからもう砦は近いから大丈夫だよ。少し休んだらすぐに追い付くから」
「……わかりました。あまり気が進みませんが……」

それで話がついたのか、キョウが伊雅の肩から離れた。

そのままフワフワと飛んで今度は座り込んでいた九峪の肩に止まった。
近くで見ると血の気が引いて蒼白になっているのがはっきりとわかる。

九峪が顔を上げると視線があった。
その瞳は少し輝きが弱まっていたが、それでも意識はまだはっきりとしているらしい。

「何でそんな心配そうな顔なんだ……?」
「な、なんだよ、心配してどこが悪いのさ……」

軽く苦笑いしながら軽口を叩く九峪に、キョウは気持ちが沈むのを感じた。
普段とは異なる九峪の口調が、逆に今の九峪の症状の激しさを教えているような気がした。

「それよりも……伊雅と何か話していたみたいだが……」
「あ、うん。それなんだけどね……」

キョウが恐る恐る伊雅に話したことを伝えると、案に相違して九峪は不平は言わなかった。
ただ一言、わかった、と言うだけであった。

「いいの……? 砦跡に行くまで休むことに反対していたから、これ以上休むのには文句言うと思ってたんだけど……」

だが、九峪は、

「もう、伊雅に言ったんだろう? 何度も変更したらそれこそ怪しまれる……。それよりも何で伊万里を残すんだ?」
やれやれと微笑むと、生じた疑問をぶつけてきた。

「砦跡までの道のりを知ってるのが彼女と上乃だからっていうのと、伊万里はね………間違いないと思うけど火魅子候補なんだ」

火魅子候補、と言う単語にピクリと反応する九峪。
伊雅ほど驚きはしなかったが、やはり予想できはしなかったらしい。
しばらく押し黙って思案すると、

「………そうか。そうするとおまえが感知した二つの火魅子候補の反応の数が合うわけだ……」
「天魔鏡に映すまでは絶対じゃないけど、まず伊万里がそうだと思う」

天魔鏡はただの鏡ではなく、火魅子やその資格を持った者しか鏡面に映さないという代物だ。
先程も星華が火魅子候補であることをそれで証明した。

「やっぱりまず最初に伊万里本人だけに打ち明けようと思ってね」
「俺はいいのか?」

九峪がひどく真面目な表情で聞いた。
が、それにはキョウが微笑んで、

「九峪は神の遣いでしょ? 君が聞かなくてどうするの」
ことさら明るくそう言った。少しでも九峪の気が晴れればと言う様に。

「もとはお前のせいだろう………?」
どこか皮肉げに、弱々しく微笑みながら九峪が返した。気のせいか少し蒼白の度合いが増しているように感じられた。
だが、糾弾するような口調ではなかった。キョウとの言葉の軽妙なやり取りを楽しむかのような。そんな雰囲気であった。

「う、うん……それは悪かったと思ってるよ。………でも九峪が選ばれたことは間違いないんだ。耶麻台国を復興させるための鍵として……」
「選ばれた……か」


そんなことを言われてもよく分からない。実感も湧いてこない。あるのは、巻き込まれたという思いだけだった。

「選ばれたから……きっとあんなことも起きたんだと思う」
キョウがやや遠慮がちに言った。

あんなこと、とは死人兵の戦いの時に起こった紅い陣のことだった。
一段落して九峪はそのことをキョウから聞いたが、最初は信じられなかった………というよりもそんなことを言い出したキョウを一瞬本気で疑った。
が、思い返してみても何か妙な声が聞こえたような記憶はあるが、その後のことは全く覚えていない。

そして意識を取り戻したら瑞禍がいて、そして何故か彼女と手合わせをしなくてはならない、という思いに駆られて………。

こうして思い返してみると、

(妙な星の巡り合わせに生まれたのか………)
別段運命論者ではなかったが、ここまで来るとそう思わずには居られなかった。

数奇と言えば数奇である。自分の人生はそもそも最初から奇妙な線の上をなぞって来たように思われる。

十数年前、まだ赤ん坊であった自分は、この刀―幻桜―と共に「あの人」に拾われた。
本当の両親がいないことに悲しみを覚えたことはなかった。物心ついた時には既に傍に彼女がいたからだ。

「今はそんなことを考えても仕方ない………か」
「九峪?」

何となく呟いたのが聞こえたのか、キョウが怪訝な視線を向けてきた。

「いや、その紅い陣をもう一度やれと言われても………無理だと思ってな」
「だ、誰もそんなこと言わないよ。……第一、出来たってやっちゃ駄目だよ……あれだって相当負担がかかりそうなんだから」
「………ああ」

奇妙な精霊を安心させるために、素直に九峪は頷いた。
その反応に満足したのか、九峪の肩からフワリと浮かび上がると、

「じゃあ、おいらは伊雅に今の内容をそろそろやるように言ってくるから………九峪はそこで休んでて」
「わかった……」

キョウが再び伊雅のもとへ飛んでいった。

それを見送って、視線を………少し離れた所にいる伊万里に向けた。
乳姉妹だと言っていた―確か上乃と言ったか―隣に座る親友と何かを話している。

彼女はこれから大きな分岐点に立つことになる。

自分の正体が火魅子候補であることなど、思いもよらぬであろう。
そのときに彼女がどんな選択を取るのだろうか、とほんの少し九峪は気になった。

視線を外して夜空に向ける。
そろそろ明け方が近いのか、遠くの空がうっすらと白みかけている

それをぼんやりと見ながら、明るさに霞む三日月が綺麗だな、と。

ただ何とはなしにそう思った。











後書き

正月休みがもっとあればお話をかけるのに、と自堕落なことを感じています。
こんにちは、由紀です。

火魅子幻想譚 第十六話・代償 はいかがでしたでしょうか?
ひょっとしたら批判もあるかもしれませんが、どうかご容赦を。

序盤が終わって物語も中盤に入りました。(この中盤もまた長くて曲者なのです………)

ともあれ、いつもここに書いているようにゆっくりと進めようと思いますのでお付き合いください。
にしても十六話消化して未だに復興軍が興されていないというのも、考えてみればすごいことですね。
この頃自己嫌悪に陥っていますが……。

多分もうすぐ軍が興る……ような気がしますので気長にお待ちください。



今回、話の途中に瑞禍と紅が登場していますが、それについて少し。本文にはうまく書ききれなかったので。

瑞禍が紅に対して殺気を放つ場面がありましたが、果たしてこの二人は仲がいいのか、悪いのか。
最初に言ってしまうと、まあ仲がいい方には含まれるのだと思います。

ただ、本当にお互い何もかも分かり合っている親友というような部類ではなくて、ある程度割り切ったような関係の方がニュアンス的には近いと思います。

(ちなみに瑞禍も紅も、九魔の将という役職となっていますがそれほど忠実と言うわけではありません。今だ反乱軍も起こっていない現状としては、九魔の将は特にやることはないですので。)

瑞禍には彼女なりの目的が、紅には目的は……ないけれども、いろいろと可愛いものや美しいものを集めたり見たり、そしてまだ出てきてませんが、趣味をしたいな、と彼女なりに思っています。
だから、ぶっちゃけ紅は敵も味方も関係ないよという性格の持ち主ですね。だから瑞禍が何を企んでいるのか知らないけれど、それを探ろうとは思わないし、誰かに言おうとも思っていないと言うわけです。

加えて紅は、それなりに瑞禍のことが好きですので彼女の邪魔をするつもりは毛頭ないと、そんな感じです。
お互い特に干渉することもせず、裏切りもしない関係。それでたまには気まぐれで力を貸し合う、みたいな関係をイメージしてくれれば、と思っています。
(こういう関係は私は割りと好きです)

ともあれ、こんなオリジナルキャラですが少しでも気に入ってくださればと思っています。


ここまで読んでくださった方に感謝の言葉を。
本当にありがとうございました。




追記

北野さん、Eiteさん、志人さん、感想を書いてくださってほんとうにありがとうございます。
とても励みになりました。
これからもよろしくお願いしますね。