火魅子幻想譚 第十七話・言霊(H:小説 M:九峪、伊万里、上乃 J:?)
日時: 01/30 18:20
著者: 由紀

火魅子幻想譚 第十七話・言霊



「お話とは………何でしょうか、キョウ様?」

恐る恐るというように伊万里が尋ねた。神社の戦いの時とは別人のように思われるほど伊万里は困惑しきっている。

未だ九峪が休んでいる中、伊雅達は先に砦跡に向かうことになった。
自分も、と当然思っていたのに、何故か、耶麻大国の神器の精であるキョウから、こちらに残って欲しいと言われて怪訝に思った。

が、道がわからないからと言われて納得した。
伊雅達は上乃が案内することで何ら問題はない。

だから他に特に思うことなく九峪の傍に残った。それが運命の分岐点だったとも知らずに・・・。

伊雅達がその場から去ってからしばらくして、それまで続いていた無言の時を打ち破るようにキョウが口を開いた。
自分に大切な話があるのだといわれた。

少し離れた所に座っていた神の遣い――九峪という名前だった――も目を閉じていたはずだが、いつの間にかこちらを向いていた。
その視線には無表情ながらも、どこか複雑な色が浮かんでいるのを伊万里は見たような気がした。

明け方近くといえどもまだ薄暗さが残っていたせいか、あるいはキョウと九峪のそうした重々しい様子が、伊万里を落ち着かない雰囲気にさせていた。

「あ、うん。えっと………」
どこから言えばいいのかな、という様にキョウが考え込むようにしてその短い腕を組んだ。
九峪から見ていると何やら愛嬌のある仕草だったが、耶麻台国民の伊万里にしてみればますます不安に駆られるものだった。

「伊万里は今幾つなのかな?」
「? 十七ですが……」

怪訝な顔をして伊万里が答えた。
自分の年齢が重要な話だったのであろうか、と考えているようだ。

が、そんな伊万里の疑問をよそに、

(十七……耶麻台国が滅びたのが今から十年前……確か一番最初に生まれたのが藤那で更にその八年前だったから……うん、年齢的には合う)

フヨフヨと空中に漂いながらキョウの思考は続いてゆく。

(それに伊万里がひとりになってみるとよくわかるし……火魅子候補に間違いなさそうだね)
一通り思索に決着をつけたのかキョウが顔を上げた。

伊万里は無意識のうちに姿勢を正していた。
キョウの視線にそれまでとは違う何かを感じ取ったような気がしたのだ。

ほんの少しキョウは間を置いて、

「伊万里……君はね」

そして、伊万里にとってずっと忘れらないであろうその瞬間が訪れた。


「――火魅子候補なんだ」


時が一瞬………止まった


――ガサリ


止まった時を動かしたのは、葉擦れの音だった。
ピクリともせずに止まっていた三人が一斉にそちらの方を向く。

そこには上乃が――おそらく伊雅達を砦跡に送ってからもう一度こちらへ様子を見に来たのだろう――蒼ざめた表情で唇をわななかせながら立っていた。

「あ、上乃……」
伊万里は消え入りそうな声でそれだけを呟いた。

ガサリ――

上乃がこちらに近づいてきた。
その足取りはふらふらと覚束ない。

「キョウさま……?」
上乃が掠れた声で聞く。

「何かの……冗談ですよね?」
そういって欲しいと切に願うように――それ以外の言葉は聴きたくないという風に上乃が問いただした。

だが無情にもキョウの言葉は、

「冗談なんかじゃないんだ。伊万里は間違いなく火魅子候補なんだよ」

嘘……、と上乃がポツリと呟いた。

「……何か……証明できるものはあるんですか?」
そう聞いたのは他ならぬ伊万里であった。

彼女自身もまた、そんなことは信じられないというように、何かを堪えるような表情で聞いた。
天魔鏡の精であるキョウの言葉を疑うことなど不敬以外の何ものでもないと分かっていたが、どうしても聞かずにはいられなかった。

「天魔鏡で証明できるんだ……」
それは罪悪感からか、それとも別の何かからかは定かでなかったが、どこかキョウもまた重い口調で返した。

そしてその言葉を受けて、座っていた九峪が立ち上がると、伊万里たちの方へ近づいてきた。その手には天魔鏡が握られている。

震える手で九峪から鏡を受け取る。
だが、なかなか鏡を覗こうとはしない。

先程の星華の時を見ているため、この鏡の力については上乃と伊万里は理解している。
それだけにこの鏡に伊万里の姿が映ってしまえば、もはや後戻りはできない。

心の底ではわかっているのにそれを信じたくないゆえか、変わることを怖れるが故か――
それでも意を決して、ゆっくりと伊万里は鏡をひっくり返し、表の鏡面を自身の顔に向けた。









砦跡に残された幾つかの粗末な木の薄暗い小屋の中、伊万里は眠れずに居た。
本当なら隣で寝ているはずの――幼い頃からずっとそうしてきた親友はそこにはいなかった。

あのあと、鏡にはくっきりと自分の顔が――今にも泣きそうな自分の顔が映った。
信じたくはなかったが、それでも信じざるを得なかった。

誰も何も言えないまま、四人で砦跡へ向かった。
その間も、砦跡に着いてからも上乃とは何も喋ることはできなかった。

どうしてかはわからない。
何かを言おうとしてもお互いに、何を言っていいのか分からなくなってしまったのだ。

少し休んでから、これからのことを話し合った後には再び日が暮れかかっていたためそこで解散となった。

その後で伊万里は、ようやく上乃に呼びかけることが出来たが上乃はそのままどこかへ行ってしまった。
去ってゆく上乃の悲しげな表情が伊万里の心を傷つけていた。

あんなに苦しそうに、悲しそうに見られたら何も言えない。
上乃はどう思っているのだろう。何を考えているのだろう。

自分は王族の娘、かたや上乃は山人の娘。
火魅子候補ならば今までのように接することはできない。

伊万里はそうしたことをずっと考えていた。けれど考えれば考えるほど気が滅入ってくるばかりでどうすればいいのか思いつかなかった。
当然眠れるはずもない。

次から次へと同じことばかりが浮かんできてその度に泣きたくなった。

(…………どうすればいいんだろう)

何度その言葉を思い、時には口に出したことか。
けれど答えてくれる人はいない。今までその役目を担ってくれていた親友は……いない。

気付いたら望楼に足を運んでいた。
眠れないから少し夜風に当たろうと思って表に出てきたのだが…………。

偶然か必然か―――
無論この時の伊万里には知る由もなかったが。








望楼の下まで来ると、階段に手をかけて朽ち果てそうな梯子を慎重に登ってゆく。
上部には十畳ほどの広さの板敷きの場所があった。見張りの人間が立つ場所だったのだろう。

が、そこに立つと先客がいることに気がついた。

「…………九峪様」
ぽつりと呟いたその名は風に乗って運ばれてゆく。
凛々しいという表現が一番似合いそうな雰囲気の横顔だった。

「……………」
それ以上は何かを言うことも忘れていた。ただ見惚れていた。

と、九峪がゆっくりとこちらに視線を向ける。そこに驚きの色はない。既に気配でわかっていたのだろう。

「…………どうしたんだ?」
「え、あっ………」
と言いかけて、気付いた。
自分の眼の前にいるのは「神の遣い」なのだ。

「す、すみません!!」
慌てて平伏した。

これにはさすがの九峪も呆気に取られたらしく、それでも無表情のまま伊万里を見ていた。どう言葉をかければいいのかわからないらしい。

が、如何せんそれでは空気が重い。
ふぅっ、と一つ息を吐くと、

「…………普通にしてくれて構わない」
「えっ、で、ですがっ」
「構わない」
有無を言わせぬように言い切る。

これ以上は、と感じたのか伊万里は、それでも遠慮がちに立ち上がった。

それを見た九峪は再び視線を正面に向けると、それ以上何も言わなかった。
伊万里もまだ、畏れがあるのか押し黙ってしまう。

結果、場に重苦しい空気が垂れ込める。

痛いほどの静寂である。
ザアアッと夜風が奏でる葉擦れの音だけが辺りを包んだ。


(……………ここに来た理由はなんとなくわかるが………)

沈黙の中九峪は思った。

最初にどうしたんだと聞いたもののそれとなく察していた。何かに悩むような姿。突然明かされた出自ついてのことだろう。
それしか九峪には思い当たるものがなかったとも言えたが。

が、少なくとも何かに悩んでいることは確かだと思った。どうしてそう判断出来るのかと問われれば答えに窮するが………

(…………昔の自分にもこうしたことがあった)

それが一番の理由かもしれない。

今ではほとんど曖昧な記憶となっているが、七、八歳の頃、何か辛いことがあった気がする。

どうやってそれを解決すればいいのか分からず、家のベランダに逃げ込んだことがあったのだ。
眼の前の伊万里のように………。

「あの人」がかけてきた声にも耳を貸さず、ただ、ベランダで泣いていた。
夕方を過ぎても、夜になって空に星が広がってもそこを動こうとはしなかった。

そんななか彼女もベランダにやってきた。寒いからと持ってきてくれた、やけにフワフワとしたケープのようなものを掛けてくれたのがひどく嬉しかった覚えがある。
さらに、どこに持っていたのかカップに入れたココアを渡してくれた。無論彼女は自分の分もきっかり持ってきていたが。

そのあとは何も言わず、隣にずっと一緒に座っていてくれたのだ。
自分が言葉を発するまで。何があったのかを言うまで。

そして九峪が少しずつ話し始めると、穏やかに微笑みながら聞いてくれた。
全部聞き終わると、今度は彼女が話し始めた。
それは直接答えに結びつくものではなかったけれど、それを聞いているといつの間にか、「ああこうすればいいんだ」とわかったのだ。

九峪が自分で答えを出せるように、いつも彼女はそうしてくれていた。

(…………まさか今度は自分がそれをやるとは………)
過去の記憶を思い起こしていた九峪が、心中慨嘆した。

何とはなしに、伊万里に視線を向ける。
と、期せずして伊万里もこちらを向いたため、自然向き合うような格好になってしまう。

「………」
「………」

気まずく重い空気である。
互いに何かを言おうとするものの、どこから、そして何から言えばいいのかわからず、なかなか最初の言葉が発せられなかった。
だが……、

「伊万里……」   「あの………」

こういう時はどこまでも間が悪い。
ほとんど同時に声が重なってしまい、更に気まずさが増した。

「す、すみませんっ」
伊万里が謝罪して押し黙った。九峪様から先に、ということなのだろう。

九峪は九峪で伊万里に譲りたかったが、それでは埒が明かない。
仕方なく、それでも幾分遠慮がちに九峪が口を開いた。

「すまなかった………な」
「え……?」

九峪から謝罪の言葉を聞くことなど予想だにさえしていなかったのか、伊万里は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにその意味するところを悟って、

「……九峪様が謝ることはありません。間違ったことを……言ったわけではないのですから」
「だが………」

ふるふると伊万里は首を横に振って、

「私は大丈夫です………ちょっと戸惑っているだけですから」

言葉とは裏腹に、その揺れている瞳からは涙が零れ落ちそうである。
だが、そんな伊万里の姿を見ても、九峪はどう言葉をかければいいのかわからなかった。

今まで信じてきた己の出生が根底から覆され、そして親しい人との間に生じた距離をどう埋めればいいのか。
これからも生きていく自分の出自は何を寄る辺としていくのか。

そうした、ある意味どんな答えも正解とも間違いとも受け止められる疑問が、幾つも重なって伊万里を悩ませているのだろう。
時として最良の答えが最良の選択肢とは限らない。

だから余計にわからなくなってゆく。
答えを出したところで、それは簡単に形を変えようとする。

だが――それでも答えは出さなくてはならないのだ。
それがなければ人は動くことは出来ない。


(戸惑っている……か…)
ふと、九峪は思った。

他人と深く関わりたくはない自分が――少なくとも今までそうしてきた自分が、伊万里の悩みをなんとか助けてやりたいと、何の迷いもなく思った。

彼女の様子が昔の自分のようだったからか。
この世界に来てからいろいろなことがあったせいなのか。
それともどこか彼女の雰囲気が――眼の前の山人の娘がどこか「あの人」に似ているからなのか。

そうした思いを九峪に抱かせたものが何かははっきりとはわからなかったが、力になってやれれば、と思った。

だが――

だが、繰り返すように結局最後は自分で選ばなくてはならない。
そしてそのことを九峪も十二分に承知している。


――背中を押してあげて


ふいに九峪の脳裏にあの人の言葉が甦る。

手を差し伸べてもいい。背を軽く押してもいい。けれど最後の欠片はその人自身に委ねることが大事なのだと。

その時はどうしてそれが大事なのかわからなかった
しかし、他人の迷いに苦しむ姿を見て初めて分かった気がした。

それは責任――人が生きていくうえで必ずついて回る重いもの。
責任を考えない決断ほど脆いものはない。所詮上辺だけの言葉に過ぎず、言葉を発した本人でさえその答えに意味が持てない。

だからこそ、最後に残るのは自分しかいないのだ。
重くても、逃げたくても、誰かに押し付けたくなっても、自分で責任を負ったものは必ず助けになるはずだ。

(それに………)
もう一つの大事なことは、本当に単純なものだ。

結局は――究極的には、自分がどうしたいのか、という問いに集約することも出来る。
それが実現できるかどうかはわからない。ひょっとしたら半ばで諦めざるを得ないかもしれない。
だが、最初にその問いに対する答えがなくては何もかも始まらない。
その気持ちこそが人を動かすことになるのだから。

だからこそ聞こう、と九峪は思った。

「伊万里は………」
「はい……?」

九峪の言葉に伊万里が顔を上げた。
一拍間を置いて、言葉を選びなおす。

「……火魅子候補でも山人でもない、伊万里としての伊万里はどうしたい?」
「え…?」

虚を突かれたように、伊万里の表情が呆けた。
思ってもみなかった言葉か、意味が捉えきれなかったか。

しばしそうしていると、困ったように伊万里が、

「私がどうしたいか……ですか?」
戸惑ったような色がその口調に滲んでいる。

「ああ……」
「…………」

九峪が短く肯定の返事を返すと、自身に注がれる九峪の真摯な視線に導かれるように、ゆっくりと彼女の中であやふやながらも、思いは形を成してゆく。

「私は………私は以前から、いろんな村で………虐げられている人達を見てきました」
ゆっくりとした運びで、まるで旋律を歌い上げるように、彼女の口から言葉が出てくる。

「それを見て私は助けたい……と思いました。どうすればいいのかは全くわかりませんでしたが……狗根国の奴らを追い払いたいと思いました」
「…………」

九峪は何も言わない。ただ促すようにほんの少し頷く。

「ですがそれは……誰かの下で戦おうと決めていたんです。だから突然火魅子候補で、命令する側になったと言われても……」
「………そうか」

夜空を見上げながら――あたかもそこに何かを探すように――返事を返し、少し間を置いてから九峪は背を押す『言葉』を放った。

「それで十分…じゃないか?」
「……?」

わからない、という風に伊万里が九峪を見る。

「伊万里の……どうしたいかがわかっているんなら今はそれでいいんじゃないか?」

九州に住む耶麻台国民を助けたい――それが伊万里が出した、自分で考えて導き出した答えなのだ。
それは山人も、火魅子候補も関係なく、純粋な伊万里の気持ちなのだ。

「山人でも、火魅子候補でも……伊万里自身がやるべきことは変わらないだろ……?」
「私自身が……」

使う者と使われる者。
両者に大きな違いはあっても、本質的な部分は変わらない。

「私がどうしたいのか………」
自分の思いを確認するかのように繰り返す伊万里。

「上乃に対しても……それが大事だと思う」
「………」

言外に九峪は、例え火魅子候補という立場にあっても、伊万里自身が上乃とどういう関係でありたいのかと聞いたのだ。

そしてそのことから導き出されることを知って伊万里は愕然とした。

自分が火魅子候補であることを知らされて、上野との関係がギクシャクして……伊万里は疑ったままなのだ。
そのことに思い至って伊万里は激しい後悔の念にとらわれていた。

伊万里が上乃に対した事は、自分はあなたを信じないけど、自分のことは信じて欲しい、という虫のよい願望と変わりなかったのだ。

その含むところを知った伊万里は、心の底から――本当に心の底から上乃に対する自分の想いを言葉に紡いだ。

「上乃は……大切な友達です。例え二度と元のような関係には戻れなくても……私は上乃を友達と信じています」

他に言う言葉を伊万里は知らなかった。その短い言葉が逆に彼女の思いの深さを物語っていた。

迷いが少し晴れた。
伊万里は確かにそう感じていた。胸の辺りに燻ぶっていた重い何かがほんの少し霧散したように思えた。

「そうか………」

とても穏やかな口調で九峪はそう返す。まるで伊万里の答えに満足したかのように。

そして伊万里もまた、先程とは別人のように感じられた。
未だ迷うこともあるのかもしれないが、何か自分の中で決着をつけられたようだ。

「今はまだ決めなくてもいいと思う」
「はい………」
「伊万里がこれから助ける人達が……いつか伊万里に教えてくれるはずだ………」

きっとこれから多くの耶麻台国民が集まってくるだろう。そうすればいずれは伊万里が火魅子候補であることも遠からず知られることになる。
そんなときに、伊万里の成した行動の一つ一つがやがては答えを作り上げてゆく。

伊万里が素晴らしい行動をすれば、山人という出自など民は誰も気にしなくなるだろう。
だが逆に迂闊なことをすれば、所詮は山人の出に過ぎないという声が届いてくる。

結局、自分の在り方など自分では見ることは叶わない。
それは………他人という鏡を通して知るものだから。

だが、今はまだそれを気にすることはない。

自分がどうしたいのか?

その問いに対して出した答えに素直に、そして自信を持って信じられれば十分である。
それこそが本当に大切なことだから。

「九峪様は……」
「……?」

不思議そうに呟く伊万里。
怪訝に思って視線を向けるが、

「いえ…何でもありません」

少し微笑みながら、そして少し楽しそうにそう言った。

「九峪様のおかげで、少しわかったような気がします。」
「………力になれたか?」

はい、と伊万里が力強く頷いた。

「山人も、火魅子候補も、どちらも同じように『私自身』だったんですね」

ふっきれたように伊万里が、自分なりに出した答えを口にした。
それは所詮屁理屈――詭弁に過ぎないものだったかもしれない。

だが、時として言葉は力を持つ。
それは人の口を通して形を変え、やがてその人そのものを作り上げてゆく。

伊万里がそうしたことを知っていたか定かではないが――あるいはそれとなく感じ取ったのか、自分に誓うように、迷いを振り払うように伊万里は『言葉』を発した。
他の何者でもない、一人の人間としての伊万里自身を確かめるがごとく。

「大丈夫……のようだな」
「はい……ご心配をおかけしました」

照れたように笑っている伊万里の目元には、かすかだが涙が光っていた。
が、九峪はそれには気付かないふりをして、

「……元に戻れるといいな」
「はい……」

九峪の遠まわしな応援の言葉――彼の性格上はっきりとは言えない――に伊万里は笑顔で答えた。
そこから先は九峪の力は借りれない。
本人達が解決しなくては意味が無いのだから。

「…………」    「…………」

その後は二人とも特に何も言わず、望楼から先に広がる夜の風景を眺めていた。
静寂である。しかし不快な空気ではない。

まるで恋人の「逢瀬」のように、心地よく優しい暖かさがそこにはあった。

しかしではあるかな、いつの時も場の空気を読めない――いや読もうとしないのかそれどころではないのか――存在はいるものである。
この時も闖入者は、フヨフヨと望楼の上にやってきた。

「九峪〜」

視線を向けると、青が色の構成要素を七割ほど占めている物体が――天魔鏡の精、キョウがこちらへ飛んできた。
その声もそうであったが、ひどく恨めしげな怒ったような目つきをしていた。

「………」  「………」

反応に困る九峪と伊万里。
眼の前の青い物体は、本来耶麻台国最高位の神器の精として大いに崇められる存在である。

が、どうにもこうにもキョウは威厳に欠けている。
気の抜ける喋り方、見るものの嗜好心をくすぐる……かどうかは好みの分かれるところであったが、玩具のような容姿。

ハッと、伊万里は我に返ると慌てたように、

「あ、あの、それじゃ私は先に失礼します。ありがとうございました、九峪様」
「ん? あ、ああ」

別に疚しいことは何もしていないのに、何故か顔を赤くして焦る伊万里につられて九峪も焦ったように返す。
去り際に再度一礼すると伊万里は早足で望楼と地面を繋ぐ梯子のところまで行き、結構な勢いで降りていった。

別にそれほどの高さがあるわけではなかったが、あの調子では足を踏み外すのでは?と心配してしまうほどの速さであった。

「九峪ってば!!」

そんなことをぼんやりと眺めながら考えていた九峪を引き戻すように、キョウの怒った声が耳を打った。

「? 何だ……?」
「何だじゃなくて!! 寝てなくていいの?」

どうやら体調の悪い九峪が大人しく寝ていなかったことに腹を立てているようだった。
キョウなりに心配していたのだろう。
それが気付いたら床がもぬけのからだったのだから、怒るのも無理はなかった。

「何とかな……痛みは今はない」

感覚はあまり戻っていないが、とは口に出さず、胸中で呟くだけに留まったが。

「ほんとうに?」
「ああ」

短く肯定する九峪の様子に――どこか頑なともとれる様相にそれ以上聞いても意味は無いと諦めたのか、キョウが溜息をついた。
そんなキョウを横目に九峪は再び夜空を見上げた。

心の中だけで、心優しい山人の娘が……大切なことを取り戻せるように願いながら。





「ずるいなあ………九峪様……あたしの言いたいこと言っちゃうんだもん」
望楼からほんの少し離れたところで、それまでの伊万里と九峪の言葉を聞いていた上乃は力なく、やや自嘲気味に笑っていた。

壁にもたれかかって俯くと、前髪で目元を隠すようにする。
背中から伝わってくる壁の冷たさが心地よかった。

今誰か傍を通ったらやだなと思った。
きっと、泣く一歩手前の顔になってるから。

(そんなのあたしには似合わないよね)
そう思うと我ながら苦笑が零れる。

「迷うことなんて……ないんだよね」
確かめるように言葉にする。二度と同じことを繰り返さないために。

出自がどうであれ、子供のころから共に育ってきた大切な友達であり姉妹。
彼女を二度と裏切らないために。

(ありがとう、九峪様)

上乃にもはや躊躇いはなかった。
自分の思いを伊万里に伝えよう。自分の言葉でしっかりと。

それが伊万里と「友達」である上乃のしなくてはならないことだから。









とんとんとん、と音が聞こえてきた。伊万里が梯子を降りているのだろう。

そのまま普通に声をかけようかと思ったが、ほんの少し悪戯心が生じてきた。
一瞬迷いはしたが、別に大丈夫だよね、と自身を無理やり納得させた。

伊万里の反応を予想すると笑いが零れそうになるので、手で口を覆いつつタイミングが来るまで耐える。
断続的に聞こえてきた音がやむと、交代するかのようにざっざっと土を踏む音が聞こえてきた。

(………おっし)
小さく気合いを入れると…………決行した。
単純にして効果絶大の悪戯を。

気取られぬように回り込んで、そーっと伊万里の背後に忍び寄る。
山人として育ってきたから気配を消すのは朝飯前である。

微妙に技巧を無駄なことに使いながら、上乃がそろそろと忍び足で近づいてゆく。

距離にして約十歩ほど。
そ〜っと、そ〜っと距離を縮める。

あと五歩

四歩

三歩

二歩

気付くと結構望楼から離れたところに来ている。
と、頃合かと見て、雰囲気を出すために口元に手を両手で包むように当てて、

「わっ!」
「うわっぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

大仰な叫び声を上げながら前方にぴょーんと跳びはねる伊万里。襲撃者の気配にまったく気付いてなかったのか、かなりの驚きようである。

が、驚いたのは上乃も同じである。あまりの反応に思わずのけぞって尻餅を付いてしまった。

「なっ、なっ、ななな………」
こちらを振り返る伊万里。ぜーぜーと息を乱している。心なしか涙目になってるような気がする。

身を硬く縮めるようにしてこちらを見る伊万里。そんな彼女をあっけに取られて座ったまま見る上乃。
両者の視線が交わされて……………なんとも言えない沈黙が降りた。

だが、ひょいっと上乃は立ち上がると、
「元気?」
殊更明るい声でごまかすように、「やあ」みたいな感じで声をかける。そんなに驚いてどうしたの?みたいな。
が、それでタガが外れたのか、伊万里がふるふると肩を震わせる。

「あっ、あれ?」
上乃が素っ頓狂な声を出す。ゴゴゴゴゴッと音が聞こえてきそうなくらい得体の知れないオーラが伊万里の周りに見える………ような気がする。

「あ〜が〜の〜……!」
地獄の底からわいて出たような迫力の声が、空気を震撼させる。
ダラダラと嫌な汗を出しながら、上乃が弁解するように言葉を発した。

「あっ、あははは。いやあー、なーんかさっきから伊万里が暗かったからさー、ちょっと雰囲気をあかるくしてみよっかなーなんて思ったりして」
「…………おまえってやつは……!!」
グーの形に握られた拳がプルプルと震えている。かなり一杯一杯な状態らしい。

「まあ、落ちついて、伊万里」
「ね?」と両手を後ろで組みながら覗き込むようにして可愛らしく言う。

男ならば完全にノックアウトされるような仕草だが………

「おまえが言うな!!」
当然伊万里に効果があるはずもない。
ふーっ、ふーっ、と荒い息を吐く伊万里。必死に落ち着こうとするも怒りがなかなか静まらないらしい。

と、ふいにある事に思い至ったのか、ビシッと彫像のように固まった。

「って、『さっきから』…?」
「ん?」
「ま、まさかさっきからって……全部聞いてたのか!?」
「うん」
「んなっ!?」

当然だと言わんばかりに力強く頷く上乃に、伊万里が絶句する。

一応断っておくと、上乃のやったことは俗に、いや俗に言わなくても盗み聞きというものである。
当たり前のことであるが……褒められる行為では決してない。

が、上乃は気まずそうにするどころか、むしろ何で?という風に堂々としている。
そうした彼女を見ていると、問いただす気力もなくなった。

そんな伊万里の様子を気にすることもなく、先程の伊万里の反応にまたも悪戯心が刺激されたのか、にまぁーっと上乃は笑うと、

「それにしてもすごかったよねー伊万里は」
「うっ」
ビクッと身を硬くする伊万里。

その様子を見た上乃は胸の前で手を祈るように合わせると、何故か寸劇をはじめた。
その瞳がキラキラと輝いているのは気のせいではあるまい。

「九峪様。私は突然の王族という事態に混乱してしまっているんです。どうしたらよいのでしょうか………?」

中空を見上げながら悲しげな声を出す。本人は伊万里のモノマネらしいが、似ても似つかない。

なおも完全に事実をすっ飛ばした劇は続く。

今度は腰に手を当て、何やら格好をつけて、

「心配はいらないよ。伊万里。たとえ誰がなんと言おうとも俺だけは……」
こちらは九峪の真似らしいが、当然カケラも似ていない。というかそもそもそんな台詞を九峪は言っていない。

と、そこまで言ったところで伊万里が、

「…………あ・が・の?」

ものすごく静かな、氷点下を余裕で突っ切るような冷たい声を出しながら、グワシッと上乃の頭を両手でつかんだ。
ギリギリと万力のように指に力を込める。現代で言うところのアイアンクローみたいな状態になっている……………それもダブルの。

上乃が無理やり笑いながら、

「いやっ、あの、伊万里、物凄く痛いんだけど………」

が、なおも伊万里は力を弱めない。というかますます強くなっている。

「いたたたたたた」
ジタバタと暴れる上乃。が、頭を押さえつけられているため逃れられない。

さすがにこれ以上はまずいと思ったのか、すっと指が離された。
が、痛みがすぐさま遠のくわけもなく、上乃はその場にへたり込んでしまう。

ズキズキと痛む頭を抑えながら、

「うー、痛いー……」
「……………自業自得だ」

はぁーっと大きくため息をつくと伊万里は疲れたように肩を落とした。

ヒューッと吹き抜けていく夜風がやけに侘しい。
何故か哀愁を感じずにはいられない。

さっきまで王族だの火魅子候補だの身分だので気まずかったというのに、今の状況は一体何なのか?
悩んでいた自分が馬鹿みたいに思えてくる。

(まったく………)

そんな言葉しか出てこない伊万里であった。
呆れてどっと疲れたように感じながらまだ地面にしゃがみこんでいるはずの上乃に視線を向ける。

だが、上乃はいつの間にか立ち上がっている。
そこには先ほどまでの悪戯っ子のような表情はない。

何か別の………決然とした表情になっている。
その顔を見て思わずドキリとした。

「ねえ、伊万里」
普段からは考えられないような真面目な声。真摯な瞳で伊万里を見ている。

「…………ごめんね」
「えっ……?」

謝りながら、上乃が悲しげに笑った。自身の情けなさを笑うかのように。くだらないことで悩んでいた自分を笑い飛ばすかのように。

「九峪様の言葉、あたしも聞いてた。大切なのは本人の気持ちだって。本人がどうしたいのかって……ほんとにそうだよね………」
上乃の瞳が揺れる。涙を堪えるかのように。

「あたしは伊万里が何だったとしても……伊万里が火魅子様でも大好きだよ? 小さいころから一緒に遊んできて……一緒に笑って……一緒に泣いて……誰よりも大切な友達って思ってる……」
「あ………が……の」

伊万里の声はかすれていた。

「だからね……あたしは……えっと……」
言葉が紡がれない。伝えたい思いはたくさんある。限りないほどある。それを全部伊万里に伝えたい。

なのにうまく言えない。後から後からこみ上げてくる思いが多すぎて言葉が出ない。それを全部放り投げて泣きたくなる。

だけど言わなくちゃならないのだ。きちんとその言葉を。
もどかしさだけがつのってゆく。

「私だって……!」
上乃の言葉を継ぐ様に伊万里が、決意を込めるように叫ぶ。上乃が泣きそうな顔でこっちを見ている。

上乃は大切な言葉を、自分の思いを言った。それに答えなくてはならない。本当に「友達」だと思うのなら。

「私だって、上乃のことが大好きだ………!。いっつも冗談ばっかり言っていて、今みたいな悪戯をしたって、私は、私は……」
「………ほめられてるのかなぁ…………」
二人ともうまく言葉が出せない。嗚咽が込み上げてきそうになる。

「だから……王族なんて関係ない。上乃は私の大切な『友達』だ………死ぬまでずっと………!」
そう叫んだ。

それは自分への、上乃への誓いの言葉。二度と友達を裏切らないために。

何度でも言う。
何度でも叫ぶ。
胸をはって、誇りを持って言ってやる。大切な友達の名前を。
何を迷うことなどあろうか。

「…………ありがとう、伊万里」

上乃がギュッと伊万里を抱きしめた。

伊万里は言ってくれた。自分は友達であると。出自なんか関係ないと。

涙が零れた。心が安らぎに満たされる。
嬉しく温かさに満ちた、心の底から良かったと思える涙であった。

それから身を離すと、眼が合った。
何となく照れくさくなって、二人ともはにかむように笑ってしまう。

互いにもう大丈夫と感じた。これから先は、きっと迷うことはないと。








余話


「さって戻ろーか」
上乃が明るく言った。いつものように、周りの人を明るくさせる無邪気な(というか邪気だらけの小悪魔みたいな)笑顔で。
普段の上乃の調子に戻ってきたようだ。

「ああ」
伊万里も微笑んで頷く。

と、歩き出したところで、

「あ、ねえねえ、伊万里」
「ん?」

怪訝そうに伊万里が振り返って、

「うっ………」
ギクリとした。

上乃が微笑んでいる。
何かを企んでいるときの様な。

伊万里の本能が必死に警告する………何かやばいと。

「ちょっと聞きたいんだけどなー」
「な、なに?」

ややひるみながらも律儀に返事を返す伊万里。何故か腰が引けている。

上乃は、むふふーと奇妙な笑いを零すと、

「伊万里………九峪様に惚れた?」

ゴシャァッ!と伊万里がこけた。物凄く盛大に。

「伊万里ってばはしたないなぁ」
上乃がからかう様に言う。ガバッと立ち上がった伊万里がすさまじい剣幕で上乃に詰め寄る。その顔は真っ赤になっていた。

「なななな、何を言ってるんだ、おまえは!? どうしてそんな結論になった!?」
焦っているため、ところどころどもりながら懸命に喋る伊万里。

「えー、だってさっきの伊万里の顔ってば、なんて言うか恋する乙女みたいな顔になってたよ?」
「そ、そんなっ……!」

伊万里がペタペタと手で自分の顔を触った。そんなんで「恋する乙女みたいな顔」を判断できるはずもないのだが……伊万里は真剣だった。

第一肝心なことに伊万里は気付いて………いや、今気付いたらしい。
弾かれた様にハッと上乃を見て、

「っていうか上にいた私の顔が何で上乃に見えるんだ!?」
「あ、わかっちゃった?」

軽く舌を出す上乃。茶目っ気のある仕草だったが…………

「でも図星でしょ?」
この一言が火に油を注いだ。

「おーまーえーはー…!!」
伊万里が全身を震わせながら絞りだすように言った。もうそろそろ限界が近いようだ。

「伊万里、あたしは応援するからね。なんたって大切な友達だから!」
グッとガッツポーズをするように拳を突き出す上乃。

「うっさい!!」
怒りの境界線を越えたのか、上乃に飛び掛る伊万里。
が、ひょいっと身軽にかわすと上乃はそのまま笑い声を上げながら走ってゆく。それを伊万里が顔を真っ赤にして追いかけた。

「そんな怒った顔じゃ九峪様に嫌われちゃうよー?」
「誰のせいだ、誰の!!」
言い争いながら子供のように走る伊万里と上乃。


彼女達二人のそんな光景は何故かとても微笑ましいものに見えてくるから不思議だった。

それはきっと、当の本人たちは気付いていないが、その姿が文句のつけようがないぐらい「友達」であるからかもしれない。






後書き


こんにちは、由紀です。火魅子幻想譚第十七話はいかがでしたでしょうか?
前回の投稿からやや間隔空いてしまったことをお詫びします。
なかなかまとまった時間がとれずにずるずると今日まで来てしまいました。申し訳ないです。

さて、今回の主役は伊万里と上乃でしたが楽しんで頂けましたでしょうか?
自分の出自を明かされて迷う伊万里が不器用ながらも歩く姿、そして上乃との関係をうまく書きたいなぁと思ったのですが……。

今回のように論理展開系の文章は本当に難しいです。
余程緻密に書かないと読まれる方に感情移入してもらえず、また論理構成もきちんと組み立てないといけないのがこのての文章なのですが……。
正直自分でうまく書けたかどうか不安です。
ざっと見直してみると、何だかまとまりに欠ける中途半端な文章になってしまったような感があります。
十分に話数をとって二人がどう変わってゆくのか書けるのが一番いいのでしょうが、今の私では不可能でした……。

直そうかなとも考えましたが、それでもこの形で出そうと決めましたので投稿しました。
こんな稚拙な文でも何かを感じてもらえれば、と思っております。

もしも何か意見があれば(文句でも構いません)遠慮なく感想掲示板の方に書いてください。
それを読んで修正したり、今後の参考にしたいと思います。
どうかよろしくお願いいたします。

次はようやく本格的に軍が興っていく話となります。
舞台は多分小説と同じように当麻となる可能性が高いですが、原作とは違った流れで戦いを書きたいと思っておりますので、よろしかったらお付き合いください。

それと、短編の後編(ひょっとしたら忘れられているかもしれませんが……)も、近いうちに出したいなと思っていますので……。ほんとに申し訳ありません。

ここまで読んでくださった方に感謝の言葉を。
本当にありがとうございました。




追記

志人様、Eite様、ryo様、北野さま、感想本当にありがとうございます。
これからもよろしくお願いしますね。