銀色の髪飾り

作者:welsper さん


 あれは確か夏休みもそろそろ終わりに近づいた頃のことだったと思う。

 その日俺は、新学期から使うノート等の文房具を買うために夕方に家を出た。

 無事目的の物を手に入れると、さっさと家に帰ろうと駅に向かって歩き出した。

 改札口で定期を取り出し、まさに改札機に入れようとしたとき、一陣の風が吹き俺は定期を風にさらわれてしまった。

 慌てて振り返ると定期は俺のすぐ後ろに裏面を表にして落ちていた。

 溜息一つでそれを拾い上げる。そのとき鮮やかな夕焼けが目に入った。

「歩くか……」

 なぜだろうか、そんな気持ちになった。

 きっと夕焼けのせいだろう。

 拾い上げた定期をポケットにしまい込むと、夕日を見上げながら歩き出した。

 どこまでも深い紅。なぜか心をわし掴みにされたような感覚が俺を包んだ。

 どれだけ歩いたか。

 とりあえず電車に乗っていれば余裕で家についたであろう時間だけは歩いた。

 八月も終わりとはいえ、まだまだ夏の盛り。夕方といえどもまだ充分に暑い。

 既に俺の身体からは大量の汗が吹き出ている。

 しかし暑さに文句を言っても始まらない。

 そのまま黙々と歩きつづけると一本の橋にさしかかった。

 橋の上には水面を撫でて冷えた風が強く吹きつけ、熱くなった身体を心地よく冷やしてくれる。

「いい風だなぁ」

 そんな言葉がひとりでに口から漏れて、その場で立ち止まった。

 水面に映った夕日を見ていると数分もしないうちに急速に身体の熱は引いていった。

 再び歩き出そうと顔を上げる。すると数メートル離れた所に一人の少女が佇んでいた。

 年の頃は俺と同じくらいだろう。しかし、この夏には似つかわしくないほどの透き通るように美しい肌の白さと、風になびく綺麗な茶色の髪が強く目を引いた。

 彼女も俺と同じように水面に映った夕日を見ているのだろうか?

 俺と同じような、悲しい過去を……。

 何者をも寄せ付けまいとする強い意思。

 それに反して誰かにそばにいて欲しい、そんな気持ちが同居しているような、悲しい表情だった。

 だから俺は…

「どうかしたんですか?」

 そんな風に見ず知らずの女の子に声をかけてしまった。

「……」

 彼女の表情からは露骨な警戒の色が見て取れる。

 当然だろう。見知らぬ人に声をかけられて警戒しない人間はそうはいない。

「あ、いや、その、俺はナンパとかそういんじゃなくて……」

 慌てて弁解したもんだから自分で言ってても訳がわからない。

「わたしに…何か御用でしょうか?」

 慌てふためく俺とは対称的に、彼女はとても落ち着いた口調で返してきた。

「別に用って程のことじゃないんだけど…」

「でしたら、放っておいて下さい。」

 身も蓋もないな。しかしここで引き下がったらそれこそ何のために声をかけたか分からない。

「いや、ただ君がとても悲しそうだったから……」

 俺がそう言ったとたん、彼女は鋭い視線で俺をにらむと急に怒ったような口調になった。

「たとえそう見えたとしても、あなたには関係ありません!」

 有無を言わせない迫力だった。俺はただ一言謝ることしか出来なかった。

「ご、ごめん」

「どうして謝られるのですか?」

「え、あ、なんとなく」

 そこでまたもや彼女は露骨に眉をひそめる。

「なんとなく…?本当に謝罪の気持ちがないのなら謝って頂かなくて結構です!」

「え、いや、そう言う意味じゃなくて…。ただ、もし俺が君の気分を害させたのなら謝りたいと思った。なんとなくってのは咄嗟に出てしまっただけで…。すまない」

「…そうですか。では私の気分が悪いのはあなたのせいではありませんし、あなたと関係あることでもありません。ですから………」

 彼女が幾分落ち着いた口調になってきたとき、また一段と強い風が吹いた。

 パキィィィィン。

「きゃっ…」

 小さな金属音と共に彼女の軽い悲鳴とも驚きとも取れる声が聞こえる。

「あっ、お母様に頂いた髪飾りが…」

 小さな弧を描きながら、彼女の髪から離れたそれは、音も立てずに川面に着水した。

 水面に広がる波紋を見つめる彼女。その表情は一段と悲しさを増している。

「…大切な物だったんですか?」

 ためらいながらも尋ねると、彼女は俺へか、それとも彼女自身へなのか、どちらかは分からないが、嘲うような笑みを浮かべ静かに言葉を口にする。

「…まだいらしたんですか?あなたには関係ありませんし、私もあなたに関わるつもりはありません。そう、何度も言ってるじゃありませんか……」

「………」

「あなたに…あなたなんかに、大切なモノを失った者の気持ちなどわかりません!」

「…………ごめん」

 一言そう言うのがやっとだった。

 その言葉が彼女の耳に届いたかどうかは分からないが、彼女は悲しい背中で歩き出していった。

 俺は歯噛みしながら、静かに歩き出した。

 数分かけて橋を渡りきると、そこで方向を変え、さっき髪飾りが落ちた所まで進んでいった。

 当然足は膝の上まで水に浸かっている。

 夕日の光に銀色に輝くそれを拾い上げるとさっき彼女が言った言葉がよみがえった。

 ………大切なものを失った気持ちなんかわからない。

 この言葉は文字どうり大切なものを失った人にしか言えない、とても悲しい言葉だ。

 それを彼女は言った。

 俺には分かる。

 その言葉を言うとき、どれだけ悲しいか、どれだけ辛いかが。

 分かっていたのに、俺は何も言えなかった……。

 手の中には一つの銀色の髪飾り。

 しかし、これが彼女の髪に再び納まることは、恐らくないだろう。

 そして、夕日は海の向こうに沈んでしまった。

 …………………

 …………

 ……

「おーい、バカ智也ぁ、何やってんだ?」

「………」

「おーい」

 ………ガスッ。

 激しい鈍痛が頭に走る。

 こんなことをする奴は一人しかいない。信だ。

「何しやがる!」

「なにしやがる、じゃねぇ!さっきからずっと呼んでただろうが」

 どうも随分長い間考え事をしていたらしい。

 今日はもう新学期だと言うのに未だにあのときの女の子の悲しい姿が忘れられない。

 あの日から俺は何度かあの橋に足を運んだ。

 しかし、結局はあの女の子が現れることはなく、銀色の髪飾りも渡せないままでいる。

「…でな、………なんだってよ」

「…あ、何か言ったか?」

 またも信のことを無視してしまったようだ。

「…ったく、何かあったのか?」

「いや、ちょっと…な」

 ガララ…

 そこで担任が入ってきて、信は自分の席に戻っていった。

「あー、みんなおはよう。学生ってのはいいよなあ。夏休みなんてあって…」

 担任は教室に入るなりぼやきだす。

「まあ、そんな事はいいか。じゃ、連絡事項を………」

 自分にとってはほとんど関係ない話が担任から語られている。

 はっきり言って右から左だ。

 ―――――そんなことはどうでもいい。

 俺は強くそう思うとポケットの中の髪飾りを強く握った。

「最後になったが……喜べ男子、転校生を紹介する」

 ………はっきり言ってこれもどうでもいい事だったが周りがあまりにも大騒ぎしている。

 流石にそんな事態まで無視するようなことはできまい。

 俺は顔を上げるとその問題の人物を見た。

 ―――――!

 あ、あの子。

 俺は驚きを隠せなかった。あの橋であった女の子がいま、目の前にいるのだ。

 間もなくして自己紹介が始まる。

「双海詩音です。よろしくお願いします。」

 実に簡単な自己紹介だった。担任も驚いて一瞬その動きを止めたほどだ。

「ふ、双海さん、他には?」

 担任が促すも彼女の対応は冷たく一言。

「特にありません」

 結局彼女の席は信の隣になったようだ。

 さしもの信も彼女が相手ではいつものトークにも冴えがなく、しどろもどろになっていた。

 休み時間になっても彼女の周りには誰もいない。

 あの自己紹介では無理もないかもしれない。その上彼女は本に読みふけっており、どうにも近寄り難い。

 しかし俺はそんなことにはお構いなしに彼女、双海さんに声をかける。

「あの、双海さん。ちょっといい?」

「………」

 本に集中しているのか、反応がない。

「おーい、双海さーん。ちょおーっと話聞いてくれない?」

 今度は少し大きな声で言ってみた。

 するとやっと彼女は本から視線をはずす。

「…なんでしょう?」

「あ、俺のこと覚えてない?俺、三上って言うんだけど…」

「知りません」

 ちょっとショックだったが、そんな事はどうでもいい。

「あ、そう。ま、いいや。えっと、これ。君のだろ?」

 そう言って俺はポケットの中から銀色の髪飾りを取り出し、机の上に置いた。

「あっ、これは……」

「君の…だよね?よかった、渡せて」

「そんな、確かに川に落ちたのに」

 ……俺のことは覚えてなくて髪飾りが川に落ちたことはしっかり覚えてるのか?

「どうされたんですか、これ?」

「別に、あの後拾いに行ったんだけど、君はもういなくなってたから」

「こんな、他人の髪飾り一つのために川に入ったんですか!?」

「え?ああ、あの川は結構浅いから…」

 彼女は困惑したような表情になった。

「どうして、他人の私のためにそんな……」

「それ、大切な物なんだろ?」

「……はい」

 彼女は慈しむように髪飾りを見つめている。

「俺も大切なものを失ったときの気持ちはよく分かる。それがどんなに辛く、悲しいか、よく分かるから…」

「そうですか…」

「ああ、それだけだ。じゃな」

 そう行って俺はその場を立ち去ろうとした。

 そこに彼女の声がかかる。

「なに?」

「すいませんでした。あの時、あんなことを言ってしまって」

「別に気にしてないさ」

「…もしよろしかったら、今度私の入れた紅茶をお飲みになりませんか?…その、お礼と言ってはなんですけど……」

 そう言って彼女は俺が渡した髪飾りを付ける。

「ありがとう、ぜひそうさせてもらうよ」

 そのときの彼女は夕日に照らされた悲しい表情ではなく、とても優しい笑顔だった。