人もまばらな廊下を、彼女――姫坂千春は歩いていた。

 端整な顔立ち、豊かなプロポーションが、彼女を美女と形容するにふさわしくしている。

 無人の廊下を、歩く。首のあたりで無造作に切られた髪が、歩調にあわせて短く踊っている。

 私服だが、看護婦である。それは、胸につけてあるネームプレートで見て取れる。

 彼女は、この病院では結構有名だ。GS科に入院している最重要患者の専属看護婦として。

 GS科――最近、この白井総合病院に設立された新しい分野である。治療対象は、霊的外傷、および霊障に悩まされている人間。本当は霊能科なのだが、その特質上、必然的に主な治療患者がGSとなるために、GS科という名称で呼ばれている。

 GS科設立の際の人事異動には、霊能力が重視された。彼女はその対象ではないが――それはまた別の機会に話すとして――GSに会えるということで、異動希望が看護婦の間には殺到したらしい。

 ちなみに、設立にあたり、とある医者が、『医学は! 医学はああぁぁぁ!!』と笑気ガスを吸いながら叫んでいたというが、それはまあ、どうでもよい。

 無言のまま、彼女は廊下を右に曲がった。

 繰り返すが、彼女は看護婦にとって憧れの的であるGS科の、しかもVIPの、さらには専属の看護婦である。

 彼女だけに私服が認められているのにはワケがある。彼女の患者がかなりのスケベでコスプレマニアらしい、というのが、看護婦の間でのもっぱらの噂だ。そしてそれは、おおむね当たっていたりする。

 彼女の歩みが、止まる。

 目の前には、扉。普通の病室とは明らかに異なる、扉。

 そこは、彼女のただ一人の患者の病室だった。扉の横のネームプレートに書かれている名は、『横島忠夫』。

 こん、こん。

 ノックをする。が、返事はない。

「忠夫クン。入るわよ?」

 とりあえず断りを入れて、彼女は部屋の扉を開けた。

 まず目に入ったのは、開いた窓だった。吹きこむ風にカーテンが揺れ動いている。

 そして、その窓から外に伝わっている、白い布。それがなにか、すぐにわかった。はしごだ。シーツをつなぎ合わせて作ったのだろう、はしごだった。

 つまり。

 逃げたのだ。彼女の患者は。

 即座にかけより、彼女は窓の下を見た。彼の姿はない。どうやら、かなり前に出ていったようだ。

 きびすを返し、部屋にある受話器を手に取る。

 内線を押そうとし――

「――あっ……」

 目の前にあるカレンダーが目に入った。

 白の上の赤い印が目を引く。かこってある日付は、今日のものだった。

「そっか。今日は……」

 彼女はそっと、受話器を置いた。

「それにしても、私になんの断りもなしに出て行くなんて。そりゃ、気持ちはわかるけどさ」

 開いた窓を見つめ、髪をかきあげ――

「……私って、魅力ないのかなあ?」

 彼女は一人、寂しげに呟いた。

人魔 第一幕

シーシュポスの脱走


 校門の横に立ち、校舎を眺める。

 そこには、日常が広がっていた。彼と同年代の少年少女が、いつも通りに登校し、いつも通りの授業を受ける。ある者は真剣に。ある者はあくびをしながら。ある者はいびきをかき。

 ある一室の、窓際の一席。そこに、古びた机に座って授業を聞いている少女がいた。その目は真剣そのもので、教師の言うことを一言も聞き漏らすまいとしていることが、容易に見て取れた。

 フッと、彼は笑う。

 昔は自分も、あそこにいた。彼女と違い、ろくに登校せず、来たとしても、居眠りばかりしていたが。

 何もかもが懐かしかった。ほんの一年前のことなのに、何十年も経っているような錯覚を覚える。

 学校に登校し、退屈な授業を受け、友人とつまらない話しで盛りあがり――――

 そして、バイト先で――――

 やめよう。

 首を振り、彼は考えを追いやった。

 すべては、過去だ。過ぎ去った過去。懐かしむのは格好だが、戻ろうとしてはならない。無駄なのだから。

 そう。失われた日常をいくら取り戻そうとしても、無駄なことなのだ。

 目の前にあるもの。それは彼にとって、失われた日常。だが、それはそこにある。彼がいた時と、変わらず続いている日常。まるで始めから、そこにいなかったかのような――――

 ふう。

 もう一度首を振り、ため息をつき。

 彼は、その場を後にした。

 ガタン!

 いきなり席を立った生徒を見て、教師はいささか面喰った。

 授業中に彼女が席を立つなど、今までになかったことだった。

「どうかしたか、愛子君?」

 不審に思い、教師はその女生徒に尋ねた。だが、彼女は反応しない。

「愛子君?」

 もう一度、呼びかける。だが、反応はない。ただひたすら、窓の外を凝視するばかりである。

「愛子君?」

 三度目の呼びかけ。今回は反応があった。それは、教師の呼びかけに対してのものではなかったが。

 窓の外を凝視したまま、彼女はぼそりと呟いた。

「……横島クン?」

 その一言に――教室が一気に喧騒に包まれた。

「横島だと、愛子!?」

「どこどこ? ねえねえ、愛子。どこにいるのよ!?」

「さっきまで校門にいたような気がしたんだけど」

「誰もいないぞ!?」

「タイガー。横島はたしか入院中……」

「そうじゃが、たしか――えっと、ピートさん?」

「月に一度は外出許可があったはずです。いつかは知りませんが」

「それが今日?」

「さあ」

「でも、愛子は見たんでしょ?」

「わからない。見間違いだったかもしれないし……」

 その喧騒は、授業が終了するまで――いや、授業が終了してからも、続いていた。

 まだ人の少ない通りを、歩く。ゆっくりと、歩く。一歩一歩を踏みしめながら、歩く。

 月に一度の外出。月に一度の檻からの脱走。月に一度の、自由の日。

 街はまだ、目覚めきってはいない。人通りも少ない。自分の白髪を不審に思う人間も、いない。

 風を感じながら、歩く。陽の光を感じながら、歩く。日常の中にいることをかみしめながら、歩く。

 一年前は当たり前の事だったそれも、今の彼には特別だった。格別だった。

 日常の中にいること。それが今の彼にとって、一番の望みだった。

 今日一日だけは、外出が許可されている。自由行動が許可されている。

 今日一日だけは、日常の中にいられるのだ。

 ある建物の前で、彼は立ち止まる。そこが、目的地だった。

 扉を前にし、彼は悩んだ。

 どう言えばいいだろう? どう振舞えばいいだろう?

 ただいま、だろうか。もうバイトは止めているというのに。

 ごめんください、だろうか。そんな他人行儀な。

『いつも通りでいいと思いますよ』

 悩む彼を見かねたかのように、虚空から、声が響いた。

「人工幽霊一号か。久しぶりだな」

『お久しぶりです、横島さん。

 横島さん。私はあなたを、一度もただのバイトと思ったことはありません。それは美神オーナーも、おキヌさんたちも同じです。自然でいいです。いつもどおりにしてください。それが一番です』

「いつも通り……っていうと、あれか?」

『はい。あれです』

 虚空から――いや、建物から響く声は、心なしか苦笑しているようだった。

「ま、それでいくか」

 軽くため息をつき、苦笑いしながら、彼はドアノブに手をかけた。

 いつも通りに、それを回し。

 いつも通りに、ドアを開け。

 いつも通りに、叫ぶ。

「ちわーっす。タダ飯食らいに来ましたー!」

『こんにちは、横島さん』

 いつも通り、人工幽霊一号が答えてくれた。

 シロとタマモは疲れ果てていた。精神的にも、肉体的にも。

 まったく。何でこんな朝っぱらからこんな苦労を。

 それが、二人に共通する想いだった。

 その原因となるものは、今も隣りで泣き喚いている。

「ほ〜ら、ひのめ。シロおねーちゃんでござるよ。アップップ〜」

「びええええええーーーーー!!!」

「ほらほら、ひのめ。タマモおね―ちゃんだよ。たかいたかーい」

「うええええええーーーーー!!!!」

「いないいないばあ!」

「あううううううーーーーー!!!!!」

「ほらほら、お馬さん。ヒヒ〜ン!」

「ぶぎゃあああああーーーーー!!!!!!」

「かにゃこだよー!!」

「ぼくはばうわ!!」

「おぎゃあああああーーーーー!!!!!!!」

「たーーらーーこ!!!」

「はあ!!!」

「ずわえあういいいいーーーーーー!!!!!!!!」

 思いつく限りのネタを振ったのだが、どれもひのめの注意を引きはしなかった。

 ネタも尽きた今、彼女たちに出来る事は何もない。

 そもそも育児経験皆無の二人。母も姉もいないと知ったひのめを泣き止ませることなど、おキヌでもなければ出来ないだろう。

 しかしながら、このまま泣き続けさせるのは、双方にとって良くない。

 そう思い、必死にネタを考えている時だった。

『ちわーっす。タダ飯食らいに来ましたー!』

 天の助けとも思えるその声が響いて来たのは。

 そしてその声は、ひのめにも聞こえたようだった。

「あういあおえあああ…………あう?」

 チャンス!

 ここぞとばかりに、二人はひのめをたたみ掛けた。

「ほらほら、ひのめ。先生が来たでござるよ。にいにでござるよ!」

「……にいに?」

「そう、にいにだよ。だから泣き止もうね。にいには泣き虫とは遊んでくれないぞ〜」

「…………」

 なんとか涙を止めようとするひのめ。

((おっしゃやった絶対危機回避!))

 二人は心の中でガッツポーズを取った。

「それじゃ、シロ。ひのめを――」

「先生ーーーーー!!!」

 そんな叫びを残して、シロは階下に消えていった。

「あのバカ犬ったら。

 ああ、待った待った、ひのめ。今行くから」

 たどたどしく歩いて階下に下りようとするひのめに、タマモは駆け寄る。

 そのまま抱き上げ、階段を降りていく。

「まったく。アンタもシロも、なんであいつになつくのかねえ。

 ま、気持ちはわからないでもないけどね」

 階下では、横島がシロに顔を唾液まみれにされているところだった。

「美神さんは?」

 シロの攻撃をなんとかかいくぐり。

 リビングのソファでひのめをひざに抱き。

 紅茶にミルクを入れて一口含んだ後のこの一言。

 はっきりいって、禁句だった。

「よ、横島……」

 脂汗のタマモとシロ。ひのめを見ると、なにやら必死に涙をこらえている様子。少し前の地獄が脳裏をよぎった。

 横島も、そんなひのめの様子に気がついたようだった。

「どうしたんだ、ひのめ?」

 ひのめの頭に手の平を置き、横島が尋ねる。

 だが、ひのめに答えを返す余裕はない。にいにに嫌われないよう、涙をこらえる事に必死なのだ。

「隊長や美神さん――ママや姉ねがいなくて寂しいのか?」

 頷くひのめ。

「でも、タマモ姉やシロ姉がいるだろ?」

「……わんわ、いや」

「わんわ!!?」

 言葉の刃に臓腑を抉られ、うずくまる約二名。

 苦笑する横島。

「つってもなあ。隊長はGメンの仕事だし、おキヌちゃんは学校だろ。美神さんは――仕事か?」

「うんにゃ。おキヌちゃんとこ行ってる」

 なんとか回復を果たしたタマモが言う。その隣りでは、シロが「わんわ違う」と泣いていた。

「六道女学院に!?」

「そ。なんだっけ、えっと、クラス対抗戦のゲストとか何とか」

「ああ、あれね」

 納得する横島。しばし思案し――やがて、ニヤリと笑みを浮かべた。

「よし、ひのめ。姉ねに会いに行こう!」

「え?」

 予想していなかったその一言に、間抜けな声を出すタマモ。

「姉ねに?」

「そう。おキヌちゃんもいるぞ」

「キヌ姉も?」

「ちょ、ちょっと待って、横島」

 タマモを無視する横島。

「ああ。行きたいだろ?」

「ちょ……」

「うん。行きたい!」

「ま……」

「よし。じゃ、さっそく行くとするか!」

「待ちなさいって言ってんでしょ!!」

 バンッと、机を叩く音がした。

 タマモだ。憤怒の表情で、彼女は横島を睨みつけていた。

「横島。あんた、自分の立場わかってんの?

 そんな体で、そんな左手で、あんなに霊力が濃い場所に、行けるはずないでしょ!」

「ひのめを送るだけだ。別に支障はないだろ」

「送れば、すぐに戻ってくる?」

「さあ? ひのめがぐずれば、残らざるをえないよな」

「詭弁ね」

「知った事か」

「バカじゃないの!? 自分から死にに行くなんて!」

「死ぬと決まったわけじゃない」

「同じよ!」

「タマモ――」

 激昂するタマモに、横島は静かに語りかける。

「今日は『自由の日』なんだ。オレがオレの裁量で動ける一日なんだ。いいじゃないか、俺が行きたいところに行っても。今日だけは、誰にもそれを止める権利はないよ」

「制限はあるわ。

 一つ。霊力を使用しない事。

 二つ。霊力の乱れた場所、濃い場所へ赴かない事」

「それについては訂正させてもらう。

 一つ。オレは霊力を使わないんじゃない、使えないんだ。

 二つ。ここへ来ている時点で、すでに制限は破っている。いまさらどこヘ行こうと、同じことだ」

 何を言っても無駄だ。オレは行く。

 横島の目は、タマモにそう語っていた。

 タマモはそれを、理解していた。理解していたが、それでも、出来る事なら止めたかったのだ。

「…………わかったわよ」

 結局、徒労に終わってしまったが。

「その代わり、私もついていくからね」

 その言葉に、シロが「拙者も」と主張したのは言うまでもない。

 他人の視線が、痛い。

 徐々に人が増えていく通りを歩きながら、横島の思うことはそれだった。

 まあ、無理もない。

 両隣をどう見ても中学生――よくて高校一年――のシロとタマモに囲まれ、そして右手で抱くは一才児のひのめ。

 ここが重要だ。一才児。そう、一才児だ! まだ赤ん坊なのだ!

 思うに、他人から見た横島は、まだ年端もいかぬ若い子に子供をはらませた挙句――と言うことは、とりもなおさずそれ以前にそういう関係にあったということだが――女をもう一人はべらせている、少しロリコンはいった鬼畜野郎、とでもなっているのかもしれない。

(あるいは、赤ん坊を誘拐してきたとか?)

 心の中で付け足す。

 実際、先ほど警官に職質されたのだが……

 ものの見事に逃げ切ってしまった。まあ、人外の能力を持つものが三人そろっているのだから、当然と言えば当然だが。

(あの後どうしたんかなあ、あの警官。まだ探しまわってんのかな。だったら面倒だな。表通り歩けねえや)

 『貴様のような反社会的な人間は法で裁かれねばならんのだー!』と叫びながら自転車をこいでいた警官を思い浮かべる。

(やっぱ、探してそうだよな。目が血走ってたもんなあ、あの人)

「ねえ、横島。ここって、横島の学校じゃない?」

 タマモの言葉に考えを中止して、横島は顔を上げた。

 たしかに、一年前まで自分が通っていた学校だった。どうやら警官をまいた際に、近くに来ていたらしい。

「ああ、本当でござる。懐かしいでござるなあ」

 シロが目を細める。

「何度、先生を迎えに行ったことか」

「ほう。校門で待ち伏せて人をサドルにくくりつけて散歩に強制連行することを、人狼の里では『迎えに行く』というのか。初めて知った。いや、勉強になった」

「うぐう。せ、先生〜」

「毎回付き合ってたの? 逃げればいいじゃないの」

「人狼の狩りから逃げきれると思うか?」

「全戦全勝でござる!」

「威張るな!」

「ハイハイ、バカ犬の相手なんかしてないで。でも、懐かしいでしょ。ちょっと覗いていく?」

「いいよ、別に。今朝覗いたから」

「あ、そうなの。で、どうだった、久しぶりのクラスメイトは?」

「会ってはないぞ。ただ、こうやって、校門から顔を出してだな――」

 実際に動作をつけて説明してみせる横島。

 校門から顔を出し、校庭に目をやって――

 そこで、生徒の一人と目が合った。

 目のあった生徒は、最初は驚きに目を見開き、そして次に、喜びに頬をほころばせた。

「横島クン!」

 その言葉を放った笑顔が絵にならないのは、やはり背中にくくりつけた古机のせいだろうか。

 腰まで伸ばした漆黒の髪を揺らしながら体操着とブルマ姿でかけて来るという、ある意味たまらない姿がどこか滑稽に見えるのも、やはりそのせいだろう。

「よう、愛子。久しぶり」

 包帯を巻いた左手を上げ――右手はひのめを抱いていたので――横島は言った。

「うん。久しぶり」

「元気だったか? って、妖怪に聞いてもなあ」

「ああ! それ、差別発言よ!」

「ハハハ。わりぃわりぃ」

「別にいいけどさ。横島クン、ケガしてんの?」

「ヘ? なんで?」

「包帯」

「あ。これね」

 自分の左手を見ながら、横島は答えた。

「除霊に失敗してなあ。その時に受けた傷だよ。別に痛みはないんだが、傷痕が酷くてね。隠してる」

「そ、そうなの……」

 申し訳なさそうにする愛子。

「お〜い、愛子。なにやって……ってあれ? 横島!!」

「よう」

「久しぶりだなあ。元気してたか?」

「まあ。ぼちぼちだな」

「横島さん!」

「おう、ピート!」

 メガネのクラスメイトに続き、横島に気付くピート。そして、タイガー。

「横島さーん!!」

「ぐはあ!タイガー、さば折りはやめ……!」

「くちゃい〜!」

 汗だくの体操着男に抱きしめられる。この世で最も嫌な事ベスト3に入りそうな苦しみを受けた横島とひのめだった。

 残りの授業時間の大半をつぎ込んで雑談をした後、横島は旧友達と別れた。

 ちなみに、この日からひのめはタイガーを毛嫌いし始めたという。

 それはさておき。

 警官からの逃走、そして雑談と思わぬところで時間を食ってしまった横島達は、急ぎ足で六道女学院へと向かった。

「着いたぞ」

「早いわね」

「途中何もないからカットだとさ」

「誰に言ってんの?」

「さあ」

 六道女学院到着。

「ほんじゃ、入るか」

 校庭に入っていく横島。

 だが。

「ちょっと、あなた!」

 どこかで誰かの叫び声。

「あなたよ、あなた! そこの赤いバンダナの白髪野郎!」

 自分の事だと理解して、声のする方向を見やる横島。

 そこには、当然だが、六道女学院の生徒がいた。

「この学校は、本日関係者以外立ち入り禁止です。特に男子は絶対ダメ! 速やかにお引取りを」

「神野殿、久しくでござる」

「久しぶり」

「ヘ? あれ? シロちゃん! タマモちゃんも!?」

 先ほどまでの横島への態度とはうってかわって、警戒を解く巫女姿の女生徒。

 去年の決勝でキヌのチームの対戦相手だった一人だと、横島は思い出した。

「なに? お前ら、知り合いなの?」

「拙者もタマモも、よくここに来るんでござるよ。皆仲良しでござる」

「顔見知りよ。幻術の効果的なかけ方についてよく論議してるの」

「は〜」

 感心のため息が漏れる横島。

「この男と知り合いなの、シロタマちゃん?」

 シロタマ……二人揃った時の愛称である。

「神野さん。それはやめてって言ってるでしょ」

「いいじゃない、別に。で、どうなの?」

「前に話したでござろう。拙者の先生でござる!」

「え!? この人が!?」

 驚きの神野。シロの話から、もっとダンディーというか、たくましく頼り甲斐のある男性を想像していたのだ。

 いぶかしげに、横島を見つめる神野。

「…………? どこかであったような――あああ!!!」

「な、なんだ?」

「あなた、もしかして去年学校に来た――」

「え? ああ、そうだよ。横島忠夫。よろしく」

 とりあえず自己紹介する横島。

 しかし、その返答たるや――

 

  ばきい!!

 

 腰、握り、ひねり、すべてにおいてパーフェクトな拳であった。

「「「な!?」」」

 唖然とするシロタマと、当の横島。

 その横島の胸倉を掴んだ神野は、それはもうスゴイ形相だった。

「アンタ、そのちっちゃな子はなに? シロタマちゃんともなれなれしいし――もしかしてあんたの子供!? 母親は誰なのよ? シロちゃん? タマモちゃん? それともおキヌちゃん? ハッ! もしかして美神おねーサマ!!? きぃぃ――――!!!!」

 

 ばき! ばき!! ばきごりぃ!!!

 

「……相変わらず突っ走る人でござるな」

「それがなければいい人なんだけどね」

「でも、ごりぃって……」

「考えないほうがいいわ」

 ボロ雑巾になっていく横島を見つめながら、どうする事も出来ないシロタマだった。

「あ〜、う〜。きゃはは」

 タマモの腕の中で、その惨劇をひのめは愉快そうに見ている。

「止めた方がよくはござらぬか?」

「今の神野さんをなだめるってわけ? なら、アンタやってちょうだい。私まだ死にたくないわ」

「……まあ、少し落ち着いてからにするでござるか」

 神野が少し落ち着いたのは、それから十分後のことだった。髪を振り乱し、両手を真っ赤な血に染めて肩で息をしているその姿は、鬼を連想させた。

「神野殿、まあ、そのへんで。先生、死んじゃうでござるよ」

(他の奴だったら絶対死んでるけどね)

 心の中でつっこむタマモ。

 ちなみに、横島はボロ雑巾と呼ぶのもおこがましいほどの姿である。

「そ、そうね。今日はこれくらいにしといてやるわ。

 それで、今日は一体どうしたの、シロタマちゃん?」

「見学に来たでござる」

「見学に?」

「そうでござる。後々のために、よりいっそう精進するべく――」

「ひのめがぐずって、美神さんに会いたがってるの。それで来ただけ。まあ、ついでに見ていくつもりだけど。あ、ひのめってのはこのコの事。美神さんの妹なの」

 大義名分を振りかざすシロを制し、タマモが言う。

「妹!? 美神おねーサマの!?」

「そ。で、どうなの? 見学して構わない?」

「あ、OK、OK、構わないわ。一応部外者立ち入り禁止だけど、うちの理事長そういうとこ頓着しないし。結構歓迎してくれるんじゃないかな」

「ありがとう。行くわよ、シロ」

「あ。待つでござるよ」

 勝手知ったるなんとやら。神野に礼を言い、闘技場へと歩き出す。

「ちょっと待って。美神おねーサマに会うなら、ゲスト席のほうに案内してあげるから」

 三人の後を追う神野。

「…………シ、シロ?……タマモ?……………」

 あとには野ざらしの死体が一つ、風に吹かれていた。

 

 その存在を思い出したシロとタマモに救出されたのは、それから20分後のことである。

 現在、霊能科クラス対抗戦は二年の部の一回戦が終了したところだった。

 ちなみにゲスト席には、美神、シロ、タマモ、ひのめを抱いたミイラ男こと横島が座っている。

 横島が来た事に、美神とおキヌは驚愕し、ついで怒り始めたのだが、結局は見学を許可された。

「二回戦第ニ試合を始める。両チーム、前へ」

 鬼道の合図に、二年B組と二年A組が試合上に立った。

「おキヌちゃん、頑張れ〜!」

「おキヌどの、ファイト〜!」

「ゲストなのに、片方を応援していいのかしら?」

「いいんじゃないの、好きにやらせれば。あ、ひのめ、そこダメ! イテテ!」

「試合――開始!」

 試合が始まった。

 最初に陣に入ったのはおキヌ。対するはキョンシー使いである。

「ちょっと! 私に名前はないの!?」

 ない。考えるのめんどいし。

「こ、この……!」

 一回きりの脇役に名前を与えるほどの余裕はない。

「脇役…………!!」

 脇役も脇役。出しただけありがたいと思え。

「う……うわああああぁぁん!」

「あ、あの――!?」

「ちょ、ちょっと、どこへ行くのよ!?」

「精神汚染!? そんな様子なかったのに。なんて恐ろしいの、あの氷室ってコ!」

「私、何もしてません〜!」

「タッチせずに結界から出たので、戦意喪失とみなす。B組の勝ち!」

「「えええ〜〜〜〜〜!?」」

「やるじゃない、おキヌちゃん!」

「拙者、感激でござる!」

「横島、あれ、おキヌちゃんのせいだと思う?」

「……聞くな……」

「ちゃい〜、う〜」

 ……B組勝利。いいのか、これで?

「……よくねえよ」

「誰に言ってんの、横島?」

「いや、別に」

 何かに違和感を感じ、横島は空を見上げた。

「? どうかしたの、横島クン?」

「え? ……いえ、別に……なんでもないっす」

「そう? しゃんとしなさいよね、もうすぐ決勝なんだから」

「はあ」

 生返事をし、彼はもう一度空を見上げる。

 先ほど感じた違和感。その答えを、彼は捜し求めた。

「ふうん、あれが横島忠夫ね。結構、カンが鋭いですわね、私の気配に気付くなんて。最も、場所まではわからないみたいですけど」

 空を見上げている彼を見ながら、彼女は愉快そうに笑った。

「……それとも、わたくしだからかしら?」

 笑いをおさめ、彼女は一人呟いた。

 そうであればと思いながら。

「ま、これからそれを確かめるんですけどね。

 さて、と。お仕事お仕事」

 決勝戦が始まろうとしている闘技場。

 その中心に位置する六名の顔ぶれは、去年と同じものだった。

「やっぱり、決勝に残るのはあなた方だったわね。去年の借り、返させてもらうわ」

「いくらでも来なさい。返り討ちにしてあげるわ」

「今度こそ、私の餌食にしてやるよ」

「ほう。ガンたれでこのあたしに勝とうってのかい? やれるもんならやってみな」

「神野さん、シロちゃんとタマモちゃんを案内してくれたそうで、ありがとうございます」

「いいわよ、そんなこと。でも、勝負は勝負だからね。手加減無用よ」

「はい」

 各々自己流の挨拶を交し合い、自軍コーナーへと下がる両雄。

 それを見て、審判の鬼道が宣言する。

「これより、霊能科クラス対抗格闘戦二年生の部、決勝戦をとりおこなう。両チームとも、悔いのない試合をするように」

 右手を、高く掲げる。

「決勝戦――――」

 それに最初に気付いたのは、招かれざる客の横島だった。

 彼は、無言で空を見上げ――いや、睨みつけていた。

 そして一言、呟いた。

「――――来る!!」

 その呟きは、歓声にかき消されてしまったが。

 鬼道が、掲げた右手を、勢いよく振り下ろした。

 異変は、突然に起こった。

 空から落ちてきた何か。それが結界に接触し、紙のように易々と付き抜けた。生徒たちが全力を出しても耐えられる結界が。

 落ちてきた何かはその勢いを減じることなく、地面に落ちる。

 突然の過負荷に、結界を形成していた力が荒れ狂う。

 爆風のごとく、中心から外へと圧力が広がる。

 たまらず吹き飛ぶ、選手と鬼道。

「おキヌちゃん!?」

「おキヌどの!?」

「おキヌちゃん!?」

 風と舞い上がる砂ぼこりに目を瞑りながらも、美神たちは叫んだ。

 後ろの生徒たちからも、悲鳴が上がっている。それほどに、『爆風』はすさまじかった。

「…………」

 ここに、ただ一人、何も変化を見せない者がいた。

 悲鳴もあげなければ、顔もそむけない。砂ぼこりから目を守るため、右腕を上げているのが、変化といえば変化か。

 その両目は、落ちてきた何かを睨みつけていた。その正体を、見極めようとするように。

 すべての変化が、弱まり、そしておさまった後。

 『爆風』の中心には、人がいた。紅い、人型のなにか。

 人間とは、誰もが思わなかった。あれほどの速度で落ちてきて無事な人間など、この世には存在しない。

 いや――――

 彼ならどうだろう、と、美神は隣りの男を見た。先ほど、唯一微動だにしなかった男を。

 ゆっくりと、落ちてきたそれは、身を起こした。

 『紅』の正体は、それの着ている服だった。修道服だ。真紅の――血の色のような緋色に染まった、修道服だった。

 それの首から、何かが垂れ下がっていた。

 ロザリオだ。神に仕える従僕の持つ、十字架のペンダント。

 しかしながら、それをロザリオといってよいものだろうか。逆十字となっている、そのペンダントを。

 立ちあがった『修道女』は、ゆっくりと、顔を上げた。

 その瞳が、横島のそれと交錯する。

 『修道女』の唇が、弧を描く。

 紅い修道女が嗤った。

 ぞっとする笑みだった。