Lie


 悪霊蠢く街の一角、高く赤くそびえる塔の上に、彼女はいた。

「霊気のない肉体はただの化学物質の集まりよ! お願い! 目を開けて!」

 彼女は愛する男の体を抱きしめ、彼の名を呼ぶ。

 だが、男はピクリとも反応しなかった。

「――死なせない。どんな事をしてもよ!」

 意を決したように呟き、彼女は男の唇に、自らのそれを合わせた。

 生きて、と、願いながら。









 自分の愛する男が、目を閉じ、安らかに眠っている。その隣りで、彼女はその寝顔を見つめ、小さくため息をついた。

「ごめんね。もう、こうするしか――」

 苦しげに呟く。その顔には、死という名の刻印がしっかりと刻み込まれている。

 彼女は、ぼやけた視界に男の顔を映し、震える手で、彼の頬に触れた。

「――あたたかい。落ち着いたようね。

 人間と魔物の霊基構造の違いが心配だったけれども、どうやら、安定してくれたみたいだわ」

 彼の命を救う為に与えた自分の霊基構造は、思惑通りに働いたようだった。

 しかし、自らのそれを大量に間引いてしまった為に、彼女自身は、もう――――

「仕方ないよね。お前のいないところに行くのはいやだけど、お前が死ぬほうが、もっとつらいもの」

 彼の頬に触れているはずの左手。だが、すでにその感触も失せかけていた。

 男と出会い、彼女の人生は変わった。

 道具として生きるはずだったその一生を、自分が正しいと思える事に使えたのだ。悔いはない。

「初めてお前と出会った時は、お前なんか、気にも止めなかった。

 きっと、私がその頃、道具として生きていたから。

 でも、お前と言葉を交わしていくうちに、次第にそれが、楽しくなってきた。

 思えば、なんであの時、ペットであったはずのお前に、礼なんか言ったのかな」

 兵鬼逆天号の艦橋で、自分の妹の作ったお世辞にもセンスのいいとは言えない服を着ていた彼に、彼女はその手を取って、感謝の意を表した。

「あの時から、もう、お前の存在は、私の中で膨れ上がっていたんだろうね」

 そして、逆天号が敵の攻撃によってダメージを負った時――

「お前は、断末魔砲に吸い込まれそうになった私を助けてくれた。

 その理由が、あの夕陽が最後じゃ寂しいから、なんて」

 彼の頬に置いた左手を、その頭に移動させる。

「お前は、そんな小さなことで敵を見殺しに出来ないような、優しい人。

 そんなお前だからこそ、私は、好きになった

 一緒に逃げようって言ってくれた時、とても嬉しかったよ。

 夕焼けなんか、いくらでも一緒に見てやるって言ってくれた時、涙が溢れそうになったわ。

 迎えに来るって言われた時、素直にその言葉を信じられたの。

 お前……は、本当……に……」

 言いかけて――――強烈な脱力感が、彼女を襲った。

「あ……ぐ……」

 世界が揺れ動き、その感触が希薄になる。

「――かはッ!」

 口から出る、彼女の残り少ない霊気。呼吸機関が狂い始め、息をしても、ヒューヒューと音がするだけ。視界はもやのようになり、背にしているはずの塔が、崩れて揺れる。

 彼女の姿は、少しずつ、だが、確実に、その姿を保っていられなくなっていく。

(ダ……メ……

 まだ、死ねな…い。まだ、消えちゃ……ダ……メ……!)

 薄れていく意識の中で、彼女は必死に、この世界にとどまろうとする。

(笑わな……きゃ。笑顔で、送り出してや……らなきゃ。

 それが……私がお前に出来る、最期の……事。

 お前に、なにもしてやれなかった私が出来る、唯一の……事……なんだか……ら!!)

 その、儚いまでに強大な意志は、彼女の意識を蘇らせた。

 呼吸が正常になり、めまいも収まる。

 だが、それが一時凌ぎにすぎない事は、彼女自身が、一番よく知っていた。

「悔いはない。そう言えば、やっぱり嘘になる、かな……」

 自分の死を改めて実感して、彼女のその目に浮かぶ物。それは、涙。

「もっと、もっと、お前と一緒にいたいよ。

 もっと一緒に、夕焼けを見たかった。

 もっと――お前と一緒に、生きていたかったな」

 ふと、空を見上げる。暗雲が立ち込めた夜空には星などなく、彼女を照らす物は、赤い塔の照明のみだった。

「やりたい事は、たくさんあったんだよ。

 お前との買い物。きっと、楽しいわね。お前は、どんな店を知っているのかしら。

 お前との食事。こう見えても、私、料理は結構うまいのよ。お前の好きなもの、なにかしら。

 お前とのケンカ。きっと、つまらない事でケンカするわね。私は意地っ張りだから。

 お前との仲直り。きっと、小さな事がきっかけね。でも、そうでもなくちゃ、お互いに言い出せなくて…………」

 彼女の言う、やりたい事。その全てが、彼との生活。彼とのなかで育まれるだろう、愛だった。

「そして――お前との結婚」

 愛しげに、隣りで眠る男を見つめる。

「お前はその時も、バンダナをつけているのかしら?

 純白の礼装を身につけたお前は――似合わないわね、多分。

 お前は、普段が一番いいもの」

 視界の中で、男が少し、動いた気がした。意識を取り戻すのも、もうすぐだろう。

 彼女は口を閉じ、あふれ出てくる涙を拭った。

 笑う為に。笑顔で送り出す為に。

 泣きたくはなかった。そんな事で、彼に心配をかけたくはなかった。

 そんな事で、彼の顔を不安に曇らせたくはなかった。

 最期に見る彼の顔は、笑顔であってほしいから。

 そのために、自分も笑おう。

 悟られてはダメ。不審に思われてはダメ。

 笑顔で。

 最高の笑顔で。

「私のドレス姿。お前は、きれいと言ってくれるよね、きっと」

 そうなれば、どんなに幸せだったか。

 そうなれば、本当に最高の笑顔を作り出せただろう。

 出来る事なら、今、その笑顔を作りたい。

「嘘……うまく、だまされてね」

 彼女は、今から嘘をつく。

 最初で最後の嘘。

 だけど、必要な嘘。

 愛する者のためにつく嘘。

 きっと、怒られるだろう。

 何故と、責められるだろう。

 それに対する答えは、すでに、彼女は持っている。

「だって……お前を、愛しているもの」





















 そして――彼女は、『嘘』をついた。 

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