「のわあ!?」
なにやら非常に不快な音を聞いたような気がして、横島忠夫は目覚めた。
目を覚ますと、彼女の姿はすでにない。当然と割り切っていても、失望感を感じずにはいられなかった。現実には、彼女はいない。出会えるのは、甘美な夢の中のみ。自分の思いを映す、眠りの国の中だけ。
時計を見る。すでに深夜近い。
時刻を認識すると、空腹を感じる。昨日目覚めてから、なにも食べていない。意識の覚醒と共に混乱に陥り、5時間にわたる捕り物張を演じたあと、疲れで10時間も眠ってしまった。腹が減って当たり前だ。
長時間の睡眠独特の気だるさを感じながらも、何かキッチンでインスタントをぱくつこうと、彼はベッドを降りた。
コン、コン。
そこに響く、夢の中で聞いた、音。
その方向に、横島は首を向ける。
響いて来た先は、病室のベッドの隣りにある、窓。そのガラス戸を一つはさんで、それはいた。
気付いてくれた事に心底嬉しそうに、それは手を振った。ちなみに、ここは三階だ。それの紅い胸元では、逆十時のロザリオが手の振りに合わせて揺れている。
それの名を、横島は思い出す。
マリー。
さて。
もし世の中を敵味方の二つでのみ区切るとしたら、彼女は横島忠夫にとって、間違いなく前者に入るだろう。加えて、彼は今、不機嫌だ。何しろ、もう少しでキスできていたのだから。そしてその原因は、なんとなくあの女にあるような気がする。
それら諸々の事実と邪推を列挙して総合的に検討した結果――――
コンコンコンコンスコココココカココココココ!!
横島が無視をぶっちぎり窓に背を向けたのは、まあ、当然とも言えるわけで。
「さてと。メシ、メシ」
しかしそこは横島を最高の男性と評する世にも奇妙な女、マリー。この位ではへこたれない。
彼女は横島をジト目でにらみつつ、おもむろに胸元に手を入れた。中から取り出したのは、一本の、白いチョークの形をした何か。
それを窓ガラスに押し当て―― 一気に、引く。
キャキキャキキ〜〜〜〜〜〜〜!!!
横島の眠りとキスを妨げた不快な音が紡ぎ出される。
部屋の中で悶絶する横島。振り返り、駆け寄って勢いよく窓を開ける。
「おま「あなた〜!」やめんかーー!」
先手必勝とばかりに横島に抱きつくマリー。そのまま唇を奪おうとするが、横島はなんとかそれを振り払った。
「てめえ、なんのつもりだ!」
先程の騒音も相まって、かなり不機嫌な横島。
「あなたったら。ただの夫婦の軽いスキンシップですのに」
「あーさいでっか。ほーそうでっか」
窓を閉めながら唇をとがらせるマリーに、しかし横島は取り合わない。小指で耳あかをほじくったりなんかしている。
「…………」
無言で再度白チョークを取り出すマリー。
キャキキャキキュキャキョ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!
「ぐはばあぁ!」
けたたましいその音にK・Oされる横島。
「チョーク型発泡スチロール、威力抜群、と」
何やら怪しい手帳にかわいいウサギのシャープペンで書き込むマリー。
「でも、まだ信頼性に乏しいですわね。もう一回……」
「するな!」
嬉々としてチョークを構えたマリーだが、横島に没収されてしまった。
「せっかくいい出来でしたのに」
「手製かい」
真紅の修道服を来た女が懸命に発泡スチロールと格闘する場面を思い浮かべる横島。なにやらもう、怒る気力も失せてしまった。
「それで、いったい何のようだ?」
「え? …………………………」
「なぜ黙る?」
それだけならまだしも、マリーはなぜか頬を赤に染めている。
「いやですわ、あなたったら。そんな、夜這いや夜伽なんて言葉、恥ずかし過ぎてわたくしにはとてもじゃないけど言えませんわ」
「…………」
さまざまなツッコミ所があって数多の突っ込みパターンが横島の脳裏によぎるが、実行するのもばかばかしい。深々と――実に深々と、ため息だけをつく。
同時に、思い出したかのように腹がなった。
「あら、おなかをすかせてらしたんですの。わかりました。わたくしが何か作りますわ」
「え? いや、それは……」
「遠慮なさらないで」
いそいそとキッチンへ向かうマリーを、彼は止めることができなかった。
手持ち無沙汰になり、とりあえず、ベッドに腰かける。
そして、思考の海に沈む。
彼女はなぜ、ここに来るのか。オレを愛しているからといった。おそらく嘘だろうが、理由は一応ある。
問題は、自分だ。なぜオレは彼女の訪問を受け入れたのか? 一人で退屈だったから。誰かと話したかったから。
なら、誰でもよかった? わからない。誰かに来てほしかったのか。それとも、彼女に来てほしかったのか。
「……ふう」
思考の海から脱出するために、ため息をつく。
この世で一番わからないものは、他人の気持ち。そして二番目が、自分の気持ち。
答えは、でなかった。
まあ、いい。横島は思う。
人がいることに変わりはない。一人でないことに変わりはない。
それが彼には、嬉しかった。
他人が居ることで感じるぬくもり。独りでない、暖かさ。
自然と、横島の顔がほほえむ。今の時間が、心地よかった。この空間が、心地よかった。
「うんと精のつくものを作って、今夜は元気でいてもらわなくちゃ!」
「…………」
キッチンから聞こえる一人言に、なぜか冷や汗の流れた横島だった。
「あなた、好き嫌いはいけませんわ! ヤモリは体にいいんですのよ!」
「玉ねぎとヤモリは嫌いなんだーーー!」
「じゃあ、これ! マムシ酒とスッポン鍋!」
「そんな材料どこから持ってきた!?」
「乙女の秘密ですわ!!」
以上、横島忠夫の悽惨なる食卓を現場よりお送りしました。
「ふう……」
食後の紅茶を一口飲み、横島は溜め息をついた。
溜め息の原因は、目の前にいるマリーという女だった。
なんといおうか……彼女といると、調子が崩れる。自分のペースを保っていられない。しかしそれが不快かというとそうでもなく、むしろそこに安らぎめいたものを感じる自分がいる。いったい、なぜ?
「あの……あなた」
思考は、彼女の声によって中断された。
「お口に、合いませんでしたか?」
黙って目だけを向けた横島に、ためらいながらも言う。
一口飲んで、溜め息。その行為を、自分の煎れたお茶に対する評価と彼女は受け取ったのだ。
「いや……うまいよ」
「本当に?」
「ああ」
「よかったぁ」
泣き顔が満面の笑みに変わる。
その笑みに思わず見とれる横島。
それにしても。笑みに魅かれながら、頭の片隅で横島は考える。
なぜ、こうまで自分を素直に表現できるのか? あるいはこれも演技なのか? 前者であることはないだろう。自分は彼女にとって、主の仇なのだから。後者ならば、その必要性が理解できない。自分を愛する女を演じて、彼女に何の得がある?
考えても、答えは出ない。しょせん、推測は憶測の域を出ない。大体、女心を推し量るなどという器用なまねが横島にできるはずもない。
結論として、横島は本人に直接聞いてみることにした。
「あのさ」
「なんですの、あなた」
「一つ聞きたいんだが」
「はい、あなた」
「……その前にまず、その呼び方はやめてくれ」
「ご不満なのですか?」
うなずく横島。不満というか、恥ずかしい。
「『あなた』がダメとなると…………御主人様」
紅茶を勢いよく吹き出す横島。
「大丈夫ですか、御主人様?」
せき込む横島を、マリーは気遣う。
「それは、ゲホゴホ、ちょっと……」
「ダメですか、御主人様?」
「…………だめ」
内心、ちょっといいかもと思った横島だった。
「そうですか……了解しました、マスター」
「……却下」
「じゃ、お兄様!」
「破棄」
「………………お義父さま?」
「ボツ、ボツ、ボツ!」
「これもダメだとすると……困りましたわ、他に思いつきません」
「普通に名前で呼べ、名前で」
「それはイヤ」
「何故?」
「あなたが一度もマリーって呼んで下さらないから」
「……へ?」
「だから、あなたがわたくしを名前で呼んで下されば、わたくしもあなたを名前で呼びますわ」
思い返してみれば、確かにそうだ。横島はマリーに対して、『おまえ』としか呼んでいない。それがマリーには不満なのだ。
「わかった、マリー。これでいいか?」
「よろしいですわ、忠夫サマ」
「忠夫サマ……せめて、横島サマにしてくれ。なんか、響きが悪いや」
「う〜ん。そうですね。じゃ、横島サマ」
「よし。で、質問なんだけどな、マリー」
「はい」
「おまえの目的は何だ?」
「目的というと?」
「おまえはなぜ、オレに近付く? その目的は何だ?」
「結婚ですわ」
即答するマリー。
「オレはまじめに聞いてんだ。ちゃんと答えろ」
「答えても構いませんが……わたくしも一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「なんだ?」
「横島さまの左手を見せてくださいな」
横島の眼が驚きに見開かれる。
左手を見せる。それは彼にとっては、苦痛でしかない事だった。自分が人でない事を思い知らされるのだから。
「どうしても……か?」
「どうしてもですわ」
「見せたら、オレの質問にも答えるか?」
「誓いますわ」
「…………わかった」
頷き、横島はテーブルの真ん中に自分の左手を乗せた。自分とマリー、双方に等しい距離。
そして、その巻かれた包帯をほどき始める。
ゆっくりと。少しずつ。だが、確実に。横島の左手は、その姿をあらわにして行く。その、異形さを露出していく。
その左手は、もはや人のそれではなかった。
突化した指先は鋭く、槍のような印象を受ける。この部屋の壁など、容易に貫いてしまうことだろう。指先から伸びるつ爪も、どんなに鋭いナイフも見劣りする光沢を放っている。人の体など、簡単に切り裂いてしまいそうだ。そしてまるでその代わりとでも言うように、手の平、甲の部分は所々肉が腐り落ち、白い骨が見え隠れしていた。
「醜いだろ。これが――オレが大切な人を死なせてまで生き延びた代償だ」
異形の左手を見ながら、横島は言う。
「オレはあいつの命を奪って生きている。あいつのために戦って、結果、あいつを殺してしまったんだよ」
左手の包帯は、なにも霊的な処置だけではなかった。横島の心に残された傷痕。それを奥底に閉じ込めるための、心の封印でもあった。目を逸らせるわけではない。だが、常に向き合って生きていけるほど、横島はまだ強くはない。
包帯をほどけば、いやがおうでも自分のした事を思い出す。自分の罪を思い知らされる。
今の横島には、マリーが昼間見たときのような快活さはなく、触れたら壊れてしまいそうな儚さがあった。
その弱々しい姿を見て、マリーは反射的に横島の左手を握り締めていた。
「……え?」
発した声は、マリーの物だった。
自分の行動理由がわからなかった。気付いたら、目の前の男の左手を握り締めていた。
(わたくし……一体、なにをやって……)
自問する。しかし、答えは出ない。
「醜くなんか……ありませんわ」
混乱する彼女の口をついて、言葉が紡がれる。
「あなたは一生懸命戦った。あなたの大切な人のために、それこそ命まで賭けて。その人を守るために」
(わたくし……何を言って……)
自問する。しかし、答えは出ない。
「その人の命は失われたかもしれませんが……それは、あなたの責任ではありませんわ」
考えとは裏腹に、さらに言葉は紡がれる。
「あなたとその人は、互いに愛し合っていた。そうでしょう?」
(何をしているんですの、わたくしは。この男を慰める必要など、わたくしには……)
自問する。しかし、答えは出ない。
「あなたが命を賭けてその人を守ろうとしたように、その人も命を賭けてあなたを守ろうとした。その結果ですわ」
彼の左手を引き寄せ、頬に当てる。
「これはその結果。あなたとその人が深く愛し合っていたという証拠。醜いなんて言ったら、その人に失礼ですわよ」
(わたくしは……わたくしは……)
自問する。しかし、答えは出ない。
目の前の男を慰める自分が、マリーには信じられなかった。自分がしている事なのに、その行動が信じられなかった。
そして、次の変化も信じ難いものだった。
横島が、顔を上げる。
そして、笑う。マリーに笑いかける。
「ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、マリーはなぜか満足した。
彼の笑顔が嬉しかった。彼が笑ってくれたことが嬉しかった。彼が自分に笑いかけてくれたことが嬉しかった。
なぜか顔が赤くなるのを、マリーは止められなかった。
そんな自分の変化にもっとも驚愕したのは、マリー自身だった。
そんな自分の変化にもっとも恐怖したのは、マリー自身だった。
なぜ、満足感を感じるのか。横島の笑顔に。
わからなかった。自分が。
自分が制御できなかった。
それが恐怖に直結する。
彼女は勢いよく、席を立った。
「マリー?」
横島がいぶかしむ。
「ご、ごめんなさい……わたくし、もう帰らないと……」
適当に答え、逃げるように窓際による。
飛び立つ寸前、彼女の耳に、横島の声が届いた。
「またな」
声はそう言っていた。
今のマリーには、それに応える余裕はなかった。
獣の鳴き声を聞きながら、マリーは樹木にもたれかかって座っていた。
密林の中の夜。月明かりも届かず、熱帯特有の湿った空気が彼女の体を取り巻く。
本来ならば、こんな所にはいない。
今日もあの病室に行って、あの男をたぶらかしているはずだった。
だが、現実に彼女はここにいる。
なぜ、任務をまっとうしようとしないのか。
それは彼女にもわからなかった。
行かなければとは思う。早くあの男を目覚めさせて、味方に引き込まなければ。
軍が動き始める前に。早く。
そして、世界を滅ぼす。アシュタロス様の望みを完遂する。
そのためにも、彼女はあの男と会い、心を開かせる必要があった。
だが、現実に彼女はここにいる。
頭ではわかっている。ここにいる場合ではないとわかっている。
だが、彼女は動けずにいた。
彼女は恐かった。
あの場所へ行ったら、また自分が制御できなくなるのではないだろうか。また、自分が自分ではなくなってしまうのではないだろうか。
初めての経験。それゆえの恐怖。
自分が自分でなくなってしまう恐怖。
それゆえに、彼女はその場所を動けなかった。
彼女は知らない。
彼女は理解できない。
彼女は気付いていない。
自分が恋をしている事を。
あの男に恋をしている事を。
始まりは憎悪だったかもしれない。
だが、それはいつしか薄れていき、純粋な興味にとって代わった。
見つめているうちに、彼女の心は変化した。興味から、恋に変わっていった。
いや。興味を持った時点で、すでに恋していたのかもしれない。
彼女は知らない。自分の変化の原因を。
彼女は理解できない。心の奥底に生まれた淡い想いを。
彼女は気付いていない。自分の演技の中に折り込まれた真実に。
雲の上に寝そべり、マリーは地上より大きな月を見つめる。
あの男の元を、訪れてはいない。まだ、恐怖が拭えない。
昨夜よりは落ち着いた頭で、マリーは考える。あの時の行動の原因を。
自分の意識下に潜む想いに、彼女は気付いていない。それゆえに、原因など判るはずもない。
ふと、一昨日のあの男の顔を思い浮かべる。
『ありがとう』
あの男は、たしかにそう言った。その時の顔は、笑顔だった。
いつのまにか顔がにやけている事に、マリーは気付いた。
なぜ、あの男の笑顔を思い出しただけでこんなにもよい気分になれるのか。彼女には理解できなかった。
「ありがとう、か……」
ありがとう。感謝の意を述べる言葉。
ありがとう。生まれて初めて聞いた言葉。
ありがとう。思い出すと、なぜか胸が熱くなる言葉。
「明日は……行ってみようかな……」
なぜかもう一度、あの男に会いたくなった。あの男の笑顔を見たくなった。
依然、恐怖はある。だが、それ以上に会いたくなった。
自分をこんなにも心地よくさせる男に。
「ヨコシマ……タダオ……」
月の光に背を向け、彼女はそっと目を閉じる。
胸の奥の暖かさは、彼女を安らかな眠りへといざなった。
彼女は知らない。
それが恋だという事を。
「雨か……」
窓から見える景色に、横島は呟いた。
雨音をBGMにして読書にいそしむ。
形だけは。
本に目を落としてはいるが、読んではいない。思考はまったく別のところへ行っている。
三日前の夜を、横島は思い出す。
一人の女性。マリーの事を。
最近、気付けば彼女の事ばかり考えている。
「あいつ……どうしてるかな……」
左手を見る。
この左手に、あのような事を言ってくれた人は初めてだった。
「互いに愛し合った証、か」
あれは罪ではないと、みんなは言う。仕方のない事なのだと。
左手の異常を、みなが元に戻そうとしてくれる。
左手を包帯で隠し、ちっぽけな病室に潜む。
しかし、それは裏を返せば今の自分を否定する事に繋がるのではないだろうか。
誰も、今の自分を見ていない。今の自分を認めてはいない。
そんな中で、彼女は違った。
包帯をといた左手を、彼女は握り締めてくれた。頬に当ててくれた。
――――うれしかった。
左手の異形を初めて肯定してくれた。
今の自分を初めて受け入れてくれた。
そんな気がした。
あるいは錯覚かもしれない。自分の勘違いかもしれない。
だが、彼女の言動が他の者と違ったことに変わりはない。それに救われたことに変わりはない。
あの時、自分の心が軽くなったことに変わりはない。
それゆえに――――横島は彼女のことを憂う。
去り際の彼女の様子は、どこか変だった。まるで、何かに怯えているような……何かを恐れているような……
何をそんなに怯えるのか。何をそんなに恐れるのか。
一昨日、昨日と、彼女は姿を現さない。それが心配だった。
何かあったのだろうか。大丈夫だろうか。怪我をしてはいないだろうか。
活字の羅列を目で追いながら、横島は思う。
もう一度会いたい、と。
本を半ばまで読み進んだとき、横島は奇妙な変化に気付いた。
雨音の中に、何か異質なものが混じっている。
水滴が落ちるような響き。ぽた、ぽた、と。
まさかと思いながら、横島は本から目を離し、窓の方に顔を向けた。
そこに、いた。
「マリー……!」
紅い修道女は、全身を濡れ鼠にしながら、窓の向こうにたたずんでいた。
駆け寄り、横島は窓を開ける。以前のような迷いはなかった。
「今晩は……横島さま……」
「マリー。何してんだ、こんな所に突っ立って……って、浮かんでるか。
いや、とにかく中に入れよ」
「いえ。今日はここで――」
「バカ言うな!」
「きゃ!」
横島はマリーを引っ張り、強引に部屋に引きずり込んだ。
「ほら、シャワー浴びろ。ったく。こんなにずぶ濡れになって、風邪ひいたらどうするんだ」
「別にこのままで構いませんわ。わたくしは――」
「魔族だから風邪ひかないってか? どうだかしらねえが、女性がずぶ濡れになってるのを見てそのままにしておけるかよ」
マリーの言葉に聞く耳持たず、横島は彼女をバスルームへと連れて行った。
「タオルはそこ。服は乾燥機に放り込んどきな。オレの服貸してやっから。シャワー、使い方わかるよな?」
「あの――」
「いいから! とにかく体温めろ、いいな!」
マリーの返事を待たずして、横島はバスルームの扉を閉めた。
「………………」
ためらいつつも、マリーは服を脱ぎ始めた。
降ってくる水滴が彼女の肌を伝い、排水溝へと消えていく。
シャワーは心地よかった。先ほどまで同じ水滴に身をやつしていたのに。液体の温度の違いだけで、こんなにも異なるものなのか。
だが、その温かさでは彼女の心は晴れない。
(怒られた……)
そう思うと、なぜか彼女の心は沈む。
(どうしてこんなに苦しいの?)
涙が出てくるのを止められない。
(どうして泣くの? なにがそんなに悲しいの?)
恋を知らない彼女は、いまだ、自分の心が理解できずにいた。
「お、出たかぶぅ!?」
シャワールームの扉が開き、出てきたマリーの姿を見て、横島は驚き、鼻血を出した。
マリーの姿は、横島のシャツ一枚を着ただけだったのだ。
「ちょ、マリー! お前、ズボンはどうした!?」
「横島さまのは、わたくしには大きすぎます」
「いや、だからってなあ。オレは男だぞ。その、過ちとかそういう――」
「横島さまが欲情してわたくしを犯したいというのなら、わたくしはそれに応じますわ」
交われば、それだけ霊的操作はたやすくなる。
そういう計算の元で、マリーは言った。言ったつもりだった。
だが――――
「……お前、なに自棄になってんだ?」
「…………………………え?」
横島の言葉に、今度はマリーが驚愕する番だった。
(自棄になってる? わたくしが?)
そんなことが、あるはずはなかった。あっていいはずがなかった。自棄になるなど。常に自身を制御しなければならない彼女にしてみれば、それは許されないことだった。認められるはずがなかった。自棄になっているなど。
「わたくしは、自棄になんか……」
「とにかく、ズボンをはきな。裾を上げれば問題ないだろ」
「わたくしは、自棄になんかなっていません!」
叫び、マリーは大股で横島に歩み寄った。無論、ズボンなどはいてはいない。
「マ、マリー!?」
「どうして抱かないんですか? どうして犯さないんですか? ただ欲望のままに交わればいいじゃありませんか!」
横島の胸をつかみ叫びながら、マリーは自分が何を言っているかを理解できずにいた。
「マリー、落ち着け」
「どうしてあなたはわたくしを狂わせるんですか!? どうしてあなたはわたくしをこんな気持ちにさせるんですか!? どうして! どうして……!」
「マリー!!」
マリーの頬を、横島は叩くようにしてはさんだ。
バチンという音は、彼女の言葉に勢いを失わせた。
「落ち着け!」
「あ…………」
マリーの瞳を覗き込み、横島が力強く叫ぶ。
うつむいたマリーを、横島は椅子に座らせる。
マリーはなにも話さない。なにも言わない。
「コーヒー、飲むか?」
「………………………」
マリーからの反応はない。
黙って横島は、キッチンへと移動した。
程なくして、コーヒーをいれたティーカップ二つを持って現われる。
「砂糖とミルクは?」
「………………………」
反応はない。うつむいたまま、マリーは応えなかった。
横島は黙ってカップをマリーの前に置き、シュガーポットとミルクを添えた。
「とりあえず、それでも飲んで、元気だしな」
「………………………」
やはり反応はなかった。
マリーには、横島の言葉に応える余裕などなかった。
先ほどの言葉。先ほどの行動。
すべてが、自分の制御を離れていた。理解を超え、感情だけが先走りしていた。
自分で自分を止めることが出来なかった。
自分が自分でなくなるような恐怖。彼女は恐かった。
(どうしたというの?
いままでだって大丈夫だったじゃない。どんな魔術を使っても、ちゃんと制御できた。ただ、人間の体に霊気片を植え込んだだけ。それでなんでこんなになるの?)
答えを求めるマリーの思考に、しかし恋の一文字は表れない。
(この男に会ってからだわ。わたくしがわたくしでいられなくなったのは)
体が恐怖に震え出す。
(この人を殺せば、わたくしは元に戻れるの?
この人を殺せば。殺せば。殺せば殺せば殺せば殺せば殺せば殺せばころせばころせばころせばころせばこここここころころころせせせせばばばばばばば)
フワリ――
(――――え?)
外からの刺激に、マリーの崩れかけた思考は現実に引き戻される。
自分の頭にタオルがかけられていることを、彼女は理解した。
理解した途端、頭に力が二つ加わる。
(なに、なに、これ? 手? 横島さま?)
二本の手が、タオルの上からマリーの頭をしわくちゃにしている。
自分の手でないのなら、答えは一つしかない。
横島が、自分の髪を拭いている。
マリーは現状を認識した。
「……ったく。ちゃんと拭かないから、湯冷めしちまうんだよ」
頭上から、横島の声が響く。マリーの震えを誤解しているようだった。
ため息混じりのその言葉を聞いた途端、マリーは胸が熱くなった。涙が出てくるのを、止められなかった。
「あ、わりい。痛かったか?」
横島が言う。首を必死に横に振るマリー。
そうではない。髪が痛かったのではない。痛かったのは、心。
先ほどまで殺そうと考えていたのに、その人は自分を気遣い、優しくしてくれる。
その愚かしいまでの優しさが、彼女の心を締めつける。
(殺せない。わたくしにこの人は殺せない)
殺そうと思うだけで頭がどうにかなりそうだった。心が砕け散りそうだった。
(この人はわたくしを狂わせる。
この人はわたくしに恐怖を与える。
この人はわたくしに悲しみを与える。
でも――この人はわたくしに、安らぎを与えてくれる。
わからない。どうしてこんな気持ちになるの?
わからない。あなたは一体、何者なの?)
横島が側にいる。
それだけで、恐怖が薄れていく。生まれてから満たされた事のない何かが、満たされていくのを感じる。
「……………ありがとうございます」
髪を拭き終わって隣りに座る横島に、涙を拭いてマリーは言った。この言葉を使うのは、初めてだった。
言ってから、ようやく目の前のコーヒーに気付く。
そっと、それを口に含む。砂糖も何も入れていない苦味が口の中に広がった。
「おいしいですわ」
「……それ、インスタントだぞ」
「それでも、おいしいですわ」
横島が自分のために入れてくれた。そう思うと、そのインスタントコーヒーは他のどんなものよりも美味しく感じられた。
(またですわ。自分の味覚が変になってる。いいえ。変になってるのは心。わたくしの心が、この人といると変になる)
先ほどまでは恐怖を感じていたその変化が、なぜか今は心地よかった。
自然と、唇が弧を描く。無意識のうちに笑顔がこぼれる。
その笑顔を見て、横島は笑う。
「やっと笑ったな」
「笑ってる? わたくしが?」
「そうだよ。きれいな笑顔だ。
最初は何か思い詰めたような表情だったから心配してたんだが、もう安心みたいだな」
「心配?……心配してくれていたんですか?」
「そりゃ、お前。三日前にいきなり慌てて飛び出したと思ったら、次に会った時はなんか沈んだ感じで雨にうたれてんだぜ」
マリーの疑問に、当然のように横島は答える。
「心配しないわけ、ないだろ」
その言葉を聞いた途端、以前にも増して、胸が熱くなった。治まったはずの涙が再びこぼれ落ちた。
「お、おい。どうしたんだよ。オレ、なんか悪いこと言ったか?」
マリーは黙って首を振る。ひたすら首を振る。声は出なかった。首を横に振ることで、否定の意思を表す。
違うのだ。何も悪いことは言っていない。
マリーは嬉しかったのだ。心配されたことが。誰かが心配してくれたことが。
幼少の頃より、彼女はなにかにつけて忌み嫌われていた。心配された事など、一度も無かった。普通に接してくれた者など、いなかった。
だけど、目の前の男は違う。彼は自分を心配してくれている。気遣ってくれている。自分を見てくれている。
たまらなく、嬉しかった。この上なく、嬉しかった。
ただただ、涙だけがあふれ出てきた。止めどもなく、あふれ出てきた。泣きたくないのに、あふれ出てきた。
(まただわ。また、自分が制御できない。でも――)
恐怖はなかった。
あるのは、喜びと、安らぎ。
自分の心というパズルの中に、欠けていたピース。
それを彼女は、見つけたような気がした。
その夜のことを、彼女は一生忘れないだろう。
素直に泣き、笑い、喜べた一夜。
心から満たされた一夜。
心から安らげた一夜。
彼女は生涯、忘れないことだろう。今宵感じた幸せを。
地平線に消えていく大地を、木の枝に腰掛け、マリーは眺めていた。夜の風に乗って、サバンナの獣たちの遠吠えが響く。
昨夜は楽しかった。本当に、楽しかった。
彼は自分を狂わせる。恐怖を与える。自分を制御できない恐怖を。
だが、それ以上に、彼は自分に、喜びと安らぎを与えてくれる。
自分がおかしかった。昨夜までは恐怖しか感じなかったというのに。
あれほど会うのが恐ろしかった男に、今は会いたくてたまらない。
恐怖と安らぎを同居させる男、横島。
理解できず、恐怖まで感じていた変化を受け入れている自分に気付いた。
この変化はなに? わからない。でも――心地いい。
あの男の事を考えるだけで、胸が高鳴る。頬が熱くなる。鼓動が速くなる。
「横島さま……」
自分を変えた男の名が、口をついて出た。
「う〜ん。乙女してるねぇ、ハニー」
唐突に、マリーの背後に気配が生まれる。同時に、虚空に響き渡る声。
「何用ですの?」
マリーはゆっくりと振り向いた。
背後に浮かんでいたのは、少年だった。体にフィットするダークスーツを着こみ、その中性的な体格が闇の中に溶け込んでいる。そのせいか、生首が浮かんでいるようにも見えた。月明かりに癖のある金髪が美しく反射し、おどけたような瞳はマリーのそれと交錯している。
「手出しは無用といったはずでしてよ」
マリーが少年に言う。
「手は出してないよ」
「口出しも無用ですわ」
「つれないなぁ」
興味を失ったのか、正面に向き直るマリー。この男を見るくらいなら、地平線を眺めていたほうがずっとマシだった。
「それにしても――」
気にせず、少年は言う。
「まさか、『血まみれの聖母』が『人魔』に惚れるとはね」
その言葉に、マリーは目を見開いた。
(惚れている? わたくしが? 横島さまに?)
「『ああ! この胸の高鳴りはなに? あの人のことを考えるだけで胸が熱くなる。あの人しか考えられなくなるの。
これはなに? そう、これは恋。これは愛。あの人を想う気持ち。自分が自分でいられなくなる、この気持ち。これこそが恋。わたしはあの人に恋している!
ああ! あの人に会いたくてたまらない。でもでも、嫌われちゃったらどうしよう。考えるだけで涙が出ちゃう。あの人に会うのが恐いの。ああ! でも!
会いたくてたまらないのぉ!』」
芝居がかった声と身振りで、少年は言った。中性的な体格で声変わりもしていない少年がやるとなかなか色っぽいのだが、唯一の観客であるマリーは、あいにくと背を向けたままだった。
「ま、冗談はさておき――」
肩をすくめ、少年は続ける。さして気にしてはないようだった。
「連絡事項だよ。近日中に、神・魔族の戦士が各々一名、地上に降りると上層部で決定された。確かな筋からの情報だ。
こちらとしては、それまでにケリをつけたい。言ってる意味、わかるよね?」
「……あと、何日ですの」
少年に、マリーは問う。
「長くても、二日。それ以上は待てない」
「二日……………………」
呟きは、どこか別の場所を見ているようだった。
「そういうこと。確かに伝えたよ。じゃあ、がんばってね」
それだけを言い、少年の姿は掻き消えた。
あとにはマリーだけが残された。
(惚れている? わたくしが?)
心の中で、マリーは呟く。
「惚れている……わたくしが……」
今度は声に出して、マリーは呟く。
(誰に? 横島さまに?)
「横島さまに……」
惚れたということが何を意味するかくらいは、彼女も知っていた。もっとも、それはあくまで知識としてだったが。
(わたくしは、横島さまを愛している?)
「わたくしは、横島さまを愛している……」
心の中の想いを、声に出して肯定する。
彼女は理解した。自分の変化の意味を。心の動きの正体を。自分が制御できない理由を。
理解すると、今度は悲しくなった。
「あと、二日……」
あと二日で、終わらせなければならない。
そうすれば、彼は彼でなくなるだろう。今の生活は失われる。今の安らぎは失われる。
彼女の想いは、喪われる。
そう思うと、彼女はたまらなく悲しくなった。
(でも、やらなければ……世界を、壊すために……)
彼女の中の正義は、自身にそう語っていた。
サバンナの風に、紅い修道服が揺れていた。
「大丈夫かなぁ」
はるか下のサバンナを見下ろし、少年は呟いた。
「彼女は力は強いけど、まだまだ未熟だしな。それに、心が弱い」
心配しているようだが、少年の顔はにやついていた。
「惚れた男を狂わせるのも、また一興。それでダメになるなら、しょせん君はそれまでだったということさ」
はるか下の『聖母』に、少年は語りかける。
「ま、君が新たなユダにならないよう、せいぜい祈っててあげるよ」
最高の夜だった。マリーにとって、それは最高の夜だった。
愛する人に紅茶を入れ、愛する人と談話した。
一緒に寝ようといったら、彼は大いに慌てた。その様子を見て、マリーは笑った。仕方なしに、同じベッドで眠りたいだけだと言いなおした。それでも彼は慌てたが、強引に了承を得た。少しでも近く、少しでも長く、彼の暖かさを感じていたかったから。
彼のシャツを寝巻きにして、彼と同じベッドに入った。ズボンも貸してくれたが、はかなかった。その方が刺激的だと思ったからだ。彼が我慢できなくなって狼と化したとしても、むしろそれは望むところだった。
ベッドに入ると、彼は背を向けた。自分を女としてみてくれていることが、彼女には嬉しかった。
小さな笑顔は、しかし悲しみに歪む。
こうして彼を見るのも、今日が最後だ。明日には、彼を壊さねばならない。
共に過ごせる、最後の夜。心から安らげる、最後の夜。
マリーはこつんと、彼の背に額を当てた。
「おやすみなさい、横島さま」
彼の背中は、広かった。
「ごめんなさい」
マリーの入れた紅茶を、横島は一口飲んだ。
横島は、マリーの来訪を楽しみにしていた。それは、初めて今の自分を肯定してくれたという思いもあるが、なにより、彼女がほっとけなかったのだ。彼女はどこか、自分までも滅ぼしてしまいそうな、そんな危うさがあった。少なくとも、横島にはそう感じられた。
だが、今はずいぶんとよくなった。最初に会った頃と比べて、格段にその表情は柔らかくなっていた。あの時のようなうわべだけではなく、心からの笑顔を見せてくれるようになった。その回数も増えていった。横島にも、ずいぶんと心を開いてくれるようになった。妖怪や魔物に偏見を持たない彼にとって、それはとても嬉しいことだった。
だからこそ、意外だった。
紅茶を一口飲んだ後に、マリーが言った言葉が。
ごめんなさい。彼女は確かに、そう言った。
なぜ?
自分は彼女になにかしただろうか? なにか傷つけるようなことを言っただろうか?
もしかして、昨夜、無意識のうちになにかしてしまったのでは――――
さあっと、血の気が引く音が聞こえた。
「マリー。オレ、昨夜なにかひどいことしたか?」
おそるおそる問う横島に、マリーは首を横に振った。どうやらそれはないようだ。
「じゃあ、いったいどうしたんだ?」
横島の目には、マリーがひどく傷ついているように見えた。なにがあったのかは知らないが、力になってやりたかった。
「ごめんなさい」
だが、答えは変わらない。相変わらず、マリーはごめんなさいという。
「マリー、黙ってちゃわからない。一体どうしたんだ?」
「ごめんなさい」
「わからないよ、マリー。何があったのか、きちんと話してくれないと」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「マリー…………」
マリーは泣き始めた。隠すことなく、涙をその瞳から流し始めた。横島を見つめながら、ただただ涙を流していた。
横島は、マリーの隣りに行こうと、席を立った。
その時だった。
「……え……?」
視界が、グニャリと歪んだ。世界が回転し、全身から力が抜けていく。歪んだ世界にもやがかかり、何もかもが薄れていく。
(なん……だ……?)
床がゆっくりと近づいてくる。急速に意識が薄れ、思考することが叶わなくなってきた。
(一体……何が……)
横島の意識は、遥かなる闇の底に沈んでいった。
「ごめんなさい……」
最後に聞いたマリーの声は、やはり謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい」
自分の膝を枕にして眠る横島さまに、わたくしは呟いた。
どれだけ謝っても、許されるはずがない。いや、許されなくていい。わたくしがしたことは、許されるべきではない事だから。
「わたくしはね、横島さま。神族と魔族のハーフなんです」
横島さまの頬を撫でながら、わたくしは語りかける。聞いてはいないだろう、もう、あの人の意識は闇の中に消えていったはずだ。もう少ししたら、それに気付いたもう一つの人格――人格といえるものだとは思わないけれど――が浮かび上がるはずだ。
それまで、わたくしの事を横島さまに知ってほしかった。
「父は魔族。私が生まれる前に、同族に殺されたと聞きます。神族の母は、わたくしを生んだあと、周りの迫害によって死にました」
それはどうでもいい事。会った事もない父や、覚えてもいない母の末路など、わたくしには瑣末事でしかない。
「神・魔族が和解するきっかけとなることを期待して、神はわたくしを保護しようとしました。だけど、わたくしは周りの視線に耐えられなかった」
魔族の血を引いている事で、わたくしはいつも除け者にされていた。わたくしの幼少の頃。今ほど和解の動きが強くない時代。そんな時に魔族の血を引いた者が神族の中にいて、ただで済むはずがない。
大人はまだいい。視線だけだから。同じ子供達が一番酷かった。よく、新しい技の実験台とかにされた。我慢できずに反撃したら、なぜかこちらが悪者にされた。皮肉なことに、神・魔の両方の混血が、わたくしに強力な力を与えていた。
「だからわたくしは、神界を出て、魔界に降りた。でも、そこでも同じでした」
単に、憎悪の原因が魔族の血から神族の血に変わっただけ。
わたくしの居場所は、父の故郷にも、母の故郷にも存在しなかった。
「そんな時、アシュタロス様に出会ったんです」
あの方はわたくしに聞いてきた。
『この世界が憎いか?』
わたくしは頷いた。
あの方はこうも聞いてきた。
『この世界を壊したいか?』
わたくしは頷いた。
『ならば――』
「あの方は、わたくしに手を差し伸べて、言って下さいました」
『ならば、わたしの元に来い』
――嬉しかった。とても、嬉しかった。
あっちに行けと、手を振られたことはあった。来るなと追い払われたことはあった。だけど、来いと手を差し伸べられたことはなかった。
とっても、嬉しかった。
「わたくしはその時、この人のために生きようと決めました」
アシュタロス様に絶対の忠誠を誓い、アシュタロス様のために生きた。
でも――アシュタロス様は、滅びてしまわれた。
「だから、あの方の遺志を継ぎ、あの方の願いを叶えようと決意したんです」
他の三人と共に、計画は順調に進んでいった。ただ一つの誤算は、わたくしが、あなたに惚れてしまったことだけ。
「わたくしは、これからあなたを目覚めさせます。あなたの中にある魔族としての闘争・殺戮本能。それらを全て解放させた、最高の殺戮機械になり、あなたは目覚めるんです」
人間と魔族の霊気を魂の段階から同期共鳴させた力は、おそらくわたくしの想像を超える。それでこそ、わたくし達の計画の要となる存在。
「そして、すべてを滅ぼす。この世界も、神界も、魔界も。それが、アシュタロス様の願い」
そして、わたくし達の目的。約束を守るのに、一週間もかかってしまいましたわね。
「あなたに、お願いがあります。」
わたくしは横島さまの顔を覗き込み、ささやく。
これは重要な事。とても重要な事。この計画の、最後の仕上げ。
「目覚めたら、まず――わたくしを、殺しなさい」
これだけは譲れなかった。譲れば、それは横島さまをあきらめることに繋がる。
横島さまの心の中に住む、数多くの女性。その中の一人でも自らの手で殺せば、横島さまは二度と、闇の中から這い上がれなくなる。
これは、他の女には譲れない。横島さまにとどめを刺すのは、わたくしだ。横島さまに殺されるのは、わたくしだ。そうする事で、横島さまはわたくしを忘れないでいてくれるだろう。わたくしも、横島さまを忘れないだろう。
「絶対に、わたくしを殺しなさい。いいですね」
囁いて、くちづけをする。最初にした時のような、舌を絡めるようなものではない。ただ、唇を重ねるだけ。それだけでも、とても満足できる。とても安らげる。これが、人を愛するということなのかしら。
横島さま。あなたは冥界でも、わたくしに安らぎを与えてくれるかしら。
「あの場所で、お待ちしています、あなた」
横島さまの頭をそっと床において、わたくしは飛び去って行った。
一時間後。
そいつはゆっくりと起きあがった。
立ち上がると、まず、左手に巻いてあった忌々しい包帯をむしりとる。
ゆっくりと手の平を握ったり開いたりしたあと、そいつは窓に目をやった。
開け放たれた窓から風が冷気を纏いながら吹き荒れ、カーテンを揺らしている。
その先にあるものを感じ、そいつは醜悪な笑みを浮かべた。
同時刻
白井総合病院
<姫坂千春>
姫坂千春は、明かりの消えた病院に職員用入り口から入った。
忘れ物をしたのだ。
ナースセンターに入り、夜勤の看護婦に会釈したあと、ロッカーを開ける。私物はほとんど入っていない。目的の物も、予想通りなかった。
「やっぱり、忠夫クンのところか」
初めはそうでもなかったが、今や彼の病室は自分の部屋のようなものだ。色々と私物も――見られたとしても害のないものだけだが――あそこに置いてある。
彼女は彼の病室に向かった。
目的の部屋の前で、彼女は立ち止まった。
妙だ。なにか変だ。なにかおかしい。嫌な予感がする。霊感がなんらかの警告を発している。
「忠夫クン。入るわよ……」
寝ているかもしれなかったので、控えめなノックと声で断る。
扉を、開ける。部屋の電気は、まだついていた。彼はまだ起きていた。
「ごめんね。ちょっと忘れ物しちゃっ……て……」
言葉は、最後まで出てこなかった。彼の放つ圧倒的な気配が、彼女を飲みこんでいた。
「忠夫……クン……?」
おそるおそる、彼女は彼に近づこうと試みた。
その時、彼の放つ気配が、すべてを噛み砕かんばかりに荒れ狂った。
声を出すことも叶わず、あたりの調度品ごと、彼女は宙に吹き飛ばされた。背中を強かにぶつける。肺の空気が一気に搾り出された。
ぬるりとした感触。頭から血が流れているのを自覚しながら、朦朧とした意識を奮い立たせて、彼女は目を開いた。
かすれる世界の中に、しかし彼女の望む姿はなかった。
「……忠夫……クン…………」
その直後、彼女は意識を失った。
同時刻
美神除霊事務所
<氷室キヌ>
「とにかく、何かが起こってるようなの。急いで準備して!」
袴姿に着替えながら、彼女は嫌な予感を拭えなかった。
先程の異様な気配の出所は、彼女のよく知る場所。それが意味するものは、一つ。彼女のもっとも望まない事実だけ。来てほしくない時が、来てしまった。それも、こんなにも早く。
「シロちゃん、タマモちゃん。準備できた!?」
「できたでござる!」
「当然」
彼女達は互いに頷きあい、
「いくよ!」
事務所を、あとにした。
同時刻
オカルトGメン日本支部
<西条輝彦>
「ああそうだ! 結界兵器を大至急頼む! 一番強力なやつだ!」
電話口に、彼は怒鳴る。先程から、それの繰り返しだった。
向こうも緊張しているようだ。当然だろう。Gメンの所員ならば、いや、霊能者ならば、この気配に感付いて当然だ。
また、電話が鳴る。
「こちらオカルトGメン日本支部。手短にお願いします!」
『わたしよ、西条クン』
「せ、先生ですか!? 失礼しました!」
電話の相手は、彼の師匠であり、上司である人だった。
しばし作業の手を止め、彼は師匠の望む情報を言い渡した。
『ありがとう。私は直接現地へ向かいます。あなたのほうも大至急お願い』
「わかりました。では、失礼します」
電話を切り、彼は再び受話器を上げる。
相手に繋がると同時に、余計な社交辞令など一切省き、彼は用件を告げる。
「周辺の地域住民の避難をお願いします。ええ、そうです、最優先に」
電話との格闘は、もうしばらく続きそうだった。
同時刻
唐巣神父の教会
<ピエトロ・ド・ブラドー>
「先生!」
師匠の部屋の扉を、彼は勢いよく何度も叩いた。
「わかっているよ、ピート君」
扉を挟んで、師匠の声が聞こえる。
扉が、開いた。
「どうなんでしょうか?」
「おそらく、間違いないだろう。これほどの力を持つ者は、そうはいない」
「そう……ですか……」
彼の声が沈む。いつの日か、こうしなければならない時が来るとは思っていた。だが、まさかこんなに早くとは。
「行こう。周辺の方々を非難させなければならない」
落ちこむ彼に、師匠は優しく話しかける。
「――そうですね。急がないと」
覚悟を決め、彼は顔を上げた。
霧となって、二人は目的地へと向かっていった。
同時刻
小笠原除霊事務所
<小笠原エミ>
電話が一回鳴り終わらないうちに、彼女は受話器を取り上げていた。
「もしもし。タイガー? 鈍いあんたも気付いたのね。その通りなワケ」
電話の相手は、彼女の唯一の弟子だった。
「アンタは現地に向かって。あたしはここからしかけるワケ」
返事も聞かず、彼女は受話器を叩きつけるように置いた。
緊張は拭えなかった。彼女は今、これまででもっとも大きな魔術を使おうとしているのだ。
殺し屋時代ですら使おうとしなかった術。相手を殺すだけではない、この世から消滅させる呪い。それを使ってすら、相手の足止めが精一杯だろうと彼女はふんでいる。
成功する確率は、五分と五分。
確率を上げるために、彼女はありとあらゆる魔道具を使用するつもりだった。
「出し惜しみはしないワケ。どうせGメンに経費で落ちるんだし」
軽い調子で言う。
しかし、頬を汗が流れるのを、彼女は止めることは出来なかった。
同時刻
某ビジネスホテル
<伊達雪之丞>
部屋の窓から、彼は外に飛び降りた。三階からのダイブだが、魔装術によって強化された肉体なら問題はない。
着地と同時に、魔装術を解除する。都内でこの姿は目立ちすぎる。
「タクシー!」
良い所に来たタクシーを止め、行き先を指示する。
「急いでくれ、頼む!」
動き始める社内で、落ちつこうと、彼は大きく深呼吸をした。
「横島……」
親友の名を、彼は呟く。
「オメエとはまだ、再戦の約束を果たしてねえもんな」
彼は目を閉じ、精神を研ぎ澄ませはじめた。
着けば即、戦えるように。
同時刻
弓かおりの自宅
<弓かおり>
自慢の長髪を梳いていた手を、彼女はぴたりと止めた。
彼女の霊感は、ある異様な気配を捉えていた。近くではない、かなり遠くだ。なのに、これほどまでに容易にわかるなんて。
すぐに着替えをはじめた。湯浴みを終えたばかりだったが、そんな事は言ってられない。
戦装束に身を包み、彼女は部屋を出た。
「お父様。行ってまいります」
父に言う。彼女の父も、引退しているが霊能者だ。今の事態を把握している。
「なにがあるかわからない。十分に気をつけて行って来い」
「はい」
そして彼女は、家を出た。
気配は移動していた。彼女のよく知る場所で、それは停止していた。
毎朝通い慣れた道を、彼女は薙刀を手に、走り始めた。
同時刻
一文字魔理の自宅
<一文字魔理>
「魔理! こんな夜中にそんな格好でどこに行くの!」
「うるせえ、ババァ! 急用なんだよ!」
胸にさらしを捲いてその上から長ランを来た格好で、魔理は木刀を片手に飛び出した。
母親の制止の声など、耳には届かない。意識はすでに、先程感じた気配を捜し求めていた。
「……いた!」
程なくして、気配を感知する。同時に、走り始める。夜中だが、よく通い慣れた道だ。迷うはずはなかった。
「ヘ! 特攻隊の気持ちがよくわかるぜ」
距離にすれば長くないというのに、すでに彼女は汗をかいていた。冷や汗だ。
自分では、あの気配に勝てはしない。それは彼女にはわかっていた。これほどの力を持つ者なら、自分など歯牙にもかけないだろう。
だが、行かないわけにはいかなかった。部屋の隅で震えているのは性にあわない。そしてなにより、気配は決してよい感じのものではない。自分の居場所にそんな異質が入ってきたのだ。もしかしたら、あの場所が破壊されてしまうかもしれない。
それだけは、許せなかった。
湧き出る汗を拭い、彼女はひたすらに走りつづけた。
同時刻
路上
<美神令子>
颯爽というには程遠いドライビングテクニックで、彼女はコブラを駆っていた。背後からはパトカーが数台追いかけてくる。しきりに停止を呼びかけてくるが、止まるはずがない。それどころではないのだ。
『そこのスポーツカー、止まりなさい。お前だお前、止まれっつってんだろ! さっさとしないと鉛弾ぶち込むぞ!』
なにやら過激な発言がパトカーのスピーカーを通して響く。
だが、彼女の反応はもっと過激だった。
「うるさいわね! やれるもんならやってみなさいよ!」
叫ぶと同時に、おもむろに足元からバズーカ砲を取り出し、後ろに向けた。振りかえりもせずに、引き金を引く。
『なにいぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃいいいぃぃい!!?』
爆発と悲鳴が重なった。
気にせず、彼女はさらにアクセルを踏みこむ。
「横島クン……!」
彼女の頭にあるのは、ただそれだけだった。
同時刻
六道女学院闘技場上空
<『血まみれの聖母』>
夜の帳の中、彼女はそいつと相対する。
ゆっくりと、彼女は両手を前に広げる。
「さあ、おやりなさい」
その言葉を聞き、そいつは動いた。
右手を腰に構え、力をためる。が、それも一瞬のこと。
まるでこま落としのフィルムのように、次の瞬間には、そいつは彼女の胸を貫いていた。
彼女の体が、くの字に折れ曲がる。
吐血。
死の間際の苦しみの中、しかし、彼女の顔は優しかった。
最後に口付けを交したかったが、もはやその力も残っていないようだ。震える腕を動かし、人差し指で自分の唇に触れる。その指で、今度はそいつの唇に触れた。彼女の血が、そいつの唇に緋色の紅化粧を施す。
彼女は顔を上げた。そいつの顔が目に入った。紅い唇が目に入った。
彼女は満足げに笑い――そして、力尽きた。
安らぎの中、彼女は虚無へと散っていった。