不条理な話(あるいは御意見無用的) 〜前編〜
「外部の社会や集団と対立関係にある集団では、成員相互の連帯
感が強まり、結合的な相互作用が促進され、集団としての凝集性
が高くなりやすい」
ゲオルク・ジンメル
序「前提条件」
九洲北西部の攻略に着手していた俺たちは、久しぶりの休息に
入っていた。狗根国軍の増援が来ないという情報が、天目から入
ったからだ。
寝返った天目のもたらした情報は、多岐にわたる。天目がもと
もと狗根国内に張り巡らせていた情報網が、そっくりそのまま耶
麻台国軍に入ったことになる。どうも、もともと腹に一物があっ
たらしい天目の情報網は、狗根国の人間たちにも悟られていない
らしく、立派に機能している。
「ま、信じるかどうかは、あんたたち次第だけどね」
天目が挑むような視線と、からかうような表情で言ったとき、
確かにみんなの意見はばらばらだった。亜衣や清瑞はいまだ死間
ではないかと疑っていたし、星華や嵩虎も慎重な意見だった。
ただ、俺は信用することにした。
清瑞配下の間者たちを使った諜報活動、志野による旅芸人・流
民を組織した情報網、只深による商人たちの情報網、織部の裏の
情報網、星華の宗像衆によるネットワーク。さらには、紅玉が持
つ大陸人ネットワークや愛宕による海洋民・漁民の情報などを集
めていけば、天目の情報が間違っていそうもないことは分かる。
それぞれの情報を総合すれば、結構、実態は見えてくるものな
のだ。
よく、九峪様は千里眼の持ち主だ、と誉めてくれる奴がいるが、
実際にタネを明かせば、そうしたそれぞれの情報を、俺が一手に
握っているから出来ることなのであって、別に俺が特殊な能力を
持っているわけじゃなかったりする。
まあ、そうした実際の理由もあったが、天目が嘘をついていな
いだろう、最大の理由は、天目の性格にあった。
あの派手好きな天目が、こんな小さな策を弄したりはしないだ
ろう。それに、もし、これが策なら、もっと大掛かりな策になる
はずだ。増援は来ないと言っておいて、奇襲するなんて策は、俺
たちに警戒されれば、泡に消えてしまう種のものだ。天目のよう
な、凄みのある女傑のやる策とは思えなかった。
まあ、これも俺の思い込みとか、直感とか言われてしまえば、
その通りなんだけどな。
「俺は、天目を信じる」
そう決断した。最低限の兵力として、それまで後方の鎮定を主
に担当していた香蘭の軍団を前線に投入し、それまでの主力を一
時的に後退、休息を与えることにした。兵士たちも、久しぶりに
家族のところへ帰してやり、それぞれ2ヶ月の休息を与えること
にしたのだ。まあ、あくまで交代制で伊万里・志野が先、藤那・
星華が後ということにしたけれど。
そういうわけで、俺自身も一度、九洲の中腹にある阿楚城へ退
いて、一朝事があれば動ける位置で休むことにした。それで、今、
珍しく俺の軍団と女王候補たち以外はほぼ解散状態になっている。
まあ、幹部たちの一部もここに残ってるから、問題が生じたらす
ぐに臨戦態勢は取れるようにはしていたけれども。
で、今、俺は阿楚城にいた。休息地としてここを選んだのは、
一つにはやはり九洲の中腹に位置し、北東部にも北西部にも移動
できること。そして、もう一つは温泉があることだった。
温泉で兵士たちを労うことも出来るし、幹部たちの骨休めにも
なる。となれば、阿楚ほど駐屯地に向いたところもない。
そういうわけで耶麻台国復興軍の第一軍団、及び幹部たちのほ
とんどが、阿楚城に留まって休息をとることになったのだった。
だから、俺としては、みんなに休んでもらいたかったんだが…。
「認知要素間に、不協和な、または不適合な関係が存在する場合、
これを低減させ、もしくは増大を回避させようとする圧力が生じ
る。つまり、不協和ないし数々の認知の間の不適合関係の存在は、
それ自体、一つの動機付けの要因である」
レオン・フェスティンガー
第1幕「要素」
戦争の前の休息。
人は普通、その時間を最愛の人との時間に使う。あるいは、自
分の生きがいに、自分の趣味に、自分のすべてを費やしたものに。
なんにしろ、その人間の想いが赴く場へと向かうものだ。
それが、死を目前にした者の本能かもしれない。
少しでも、自分の存在を残すために。あるいは、自分の何かを
伝えるために。
だから、この時を、みんなに有意義に使ってもらいたい。
俺は、そう言った。
みんなに。
家族でも良い。
恋人でも良い。
友人でも良い。
あるいは、他の何かでも。
なんにしろ、自分にとって、掛け替えのない所へ。
…。
…。
…我ながら、良いことを言ったと思う。
で。
俺も、「あいつ」を誘おうとして、部屋を出たところで、「こ
いつ」に捕まった。
で、今、こんなことになってるわけだ。
つまり。
俺の前には、遠州がいた。
せっかくの休みだ、ってのに、俺に話があるとかで、夜に俺の
部屋を訪ねてきたのだ。
遠州ほどの男ならば、伴に過ごしたいと思う人間はいくらでも
いるだろう。
何も、俺のところに来ることは無いだろうに。無粋な奴め、と
は思うが、あいつの悩みとなれば、聞かないわけにもいかない。
実際、あいつから相談を受けるってことは、少し嬉しくもある。
遠州に認められているってことなんだから。
あいつには迷惑ばっかりかけてきたから、せめて力になってや
りたいとも思う。一人で何でも抱え込む男だから、なおさらだ。
そう思えばこそ、遠州を俺の部屋に招き、酒でも飲みながら話
を聞こうとしたのだが。
かなり真剣な表情のまま、遠州は酒を飲むだけで、なかなか話
を切り出そうとしない。ちらちら俺の目を盗み見ては、ときに、
酒を注いでくるだけなのだ。
「で、遠州。用って何だよ?」
俺は、真面目な顔で延々と酒を煽る遠州に言った。普段から真
面目な奴だが、冗談も分かる。だから、真面目なだけの表情のこ
いつを見るのは久しぶりだった。
「実は、その、九峪様…」
遠州は、俺の顔をまじまじと見つめた。酒を無言で煽り続けて
いた遠州の顔は、ほんのりと紅く染まり、白磁の肌を美しい色に
していた。その姿は、まさに紅顔の美青年という奴だ。
「何だよ。さっきから、歯切れの悪い奴だな。いつもの遠州らし
く、堂々と言ってみろって」
さっきから、何か落ち着かない様子の遠州は、真面目な顔をさ
らに強張らせる。
「じ、実はですね」
「ああ」
遠州が顔を近づけてくる。俺も身を乗り出して遠州の言葉に耳
を傾ける。その距離、約50センチ。
「…、その、やはり言えません」
「…お前、いい加減にしろよ」
遠州の煮え切らない態度に、俺は姿勢を戻して睨みつけた。
「遠州、なんなんだよ」
「で、ですから…」
もじもじ、というわけじゃないが、なんだかはっきりしない。
直言居士であり、俺に臆することのない遠州だけに、ここまで時
間がかかるのは珍しいことだ。敵の魔人や騎馬の突撃にも一切動
じない冷静沈着な軍人が、いまや動揺の中にある。
なんだか、この様子って。
「お前、告白する少女じゃないんだからさ」
校舎裏でお礼参りする不良…、もとい、校舎裏でラブレターの
相手を待っている、古典的な少女漫画に散見される少女そのもの
だ。いまや、絶滅危惧種でワシントン条約で保護されてる。
勿論、嘘だが。
遠州にも、洒落のつもりで言って…。
「…!」
途端に、図星を指されたかのように、遠州が顔を真っ赤にし、
うろたえる。そして、緊張と興奮を隠さずに、その美しい顔を再
び俺に近づけてきた。
「そ、その、九峪様は、もう心に決めた方が、いるのですか?」
「…、え、遠州…」
切なげな表情で呟く遠州の顔は、なんと言うか艶があって。
「どうなんですか…。その、余計なこととは思うのですが…」
「あ、あのな、え、遠州、お、俺は…」
今度は、俺が熱に浮かされたようにどもる番だった。今までは、
冗談のように遠州をからかったことはある。女性のように美しい
遠州に、「俺に惚れるな」とか「愛してる」とか、嫌がらせのよ
うに言ったことはあるが…。
「でも、聞かずにはいられないのです!」
遠州が苦しいものを吐き捨てるように言い切った。
「え、遠州…」
「どうなんですか?九峪様…」
真剣で、真っ直ぐな遠州の瞳を見て、俺は慌てずにはいられな
かった。
「そ、それは…」
「九峪様、私は本気なんです。知りたいんです、九峪様の愛する
人を!」
「ど、どうしても、か?」
「どうしても、です!」
「そ、それは、お前に関係あることなのか」
「はい。こんなこと…」
そう言って、遠州は横に視線を逸らし、恥ずかしそうに呟く。
「冗談では言えません」
酒だけではない、恥じらいのせいで顔をほんのりと染める。な、
なんか、ちょっと。ちょっと、可愛いか?
…い、いや、大丈夫か、俺!
「本気、なんだな。遠州」
「はい。本気です」
「後悔、しないんだな」
「はい、後悔なんかしません」
「そこまで…」
俺のことを。遠州…。
あ、いや、なんか、遠州って。
…。
…はぁ。
…。
…っと。
今、俺、危なくなかったか?
「え、遠州、俺の気持ち、知りたいのか?」
「はい。いつもの九峪様の言葉では、心配になってしまいますから」
「遠州…」
「本気にして良いのか、迷うのです。九峪様は、それでなくても
八方美人ですし」
…遠州。
お前は…。
あるいは、俺こそが遠州の心を弄んでいたのか?酷いことをし
ていたのは、俺だったのかもしれない。だが、俺の気持ちは…。
「え、遠州、すまない」
同性愛というのも、世の中には存在する。それは、また、愛の
一つの形かもしれない。俺だって、遠州は嫌いじゃない。あ、あ
るいは、だが、もしかして、仮に、あくまで仮にだが、何かがど
うかすれば、俺は遠州を愛した可能性がないわけではないと言え
なくもないのだ。
…っていうか、十分に愛した可能性がある。今の動揺っぷりを
考えると、なおさらだ。
だが。
だが、もう、俺には一人の女性が住んでいる。
いつもぶっきらぼうで、無愛想で、口からは文句しか出てこな
い、不器用な女性の姿しか。
だから、俺は、遠州に謝ることしかできないのだ。
「九峪様?」
「お、俺はノーマルなんだ!!」
俺もまた、叫ぶように遠州に言った。遠州の想いに応えるため
には、誠心誠意応えるしかない。
「の〜まる?」
間の抜けた声を出す遠州。が、それを俺は無視して続ける。
「だから、俺は遠州とは付き合えないんだ!!」
すまない、遠州。俺は目を閉じて断言した。親友の遠州との関
係が、これで壊れてしまうかもしれない。だが、俺には遠州の気
持ちに応えることが出来ない。
「九峪様…」
「すまない!」
目を再び開けた俺の目に、遠州の顔が映った。そして二人、し
ばらく黙って見つめあう。
「…」
「…」
じっと俺の目を見つめる遠州。その悲しそうな瞳が徐々に変化
してきて…。
「…、何を言ってるのですか。九峪様?」
怪訝そうな表情に変わった。
「へっ?」
「私と付き合う?の〜まる?何のことです?」
遠州がさっきまでの、熱い表情を一転させて聞いてくる。
「だ、だって、お前…」
「何です?」
「さっき、俺の想い人を聞いたろ?」
「はい、聞きました。誰を愛しておられるのですか、と」
「い、いや、だから。俺は遠州を愛することは出来ない…」
「…?」
「…」
「…?」
「…」
再び見つめあう俺たち。ただ、さっきのような興奮や熱情は冷
めてきていた。そして…。
「…!!!!」
ずっと考え込んでいた遠州の表情が、理解の色を示した。
「ああっ、なるほど!私が九峪様の想い人を聞いたのは、私が
九峪様に告白するため、だと思ったのですね!」
「そ、そうだけど…」
「なるほど、それで慌ててたんですね。なるほど…」
遠州はやっと分かった、という風に何度も頷く。
「い、いや、慌てるだろ。そりゃ」
「そうですね。私も九峪様に告白されたりしたら…」
そこまで呟いて、遠州はある事に気付いたらしく、突然顔を俺に
向けた。
「…!!!」
「え、遠州?」
「何で、私が九峪様に告白せねばならないんですかっ!!!」
遠州が怒鳴る。まあ、そりゃ、怒るわな。身に覚えがなければ。
「い、いや、だから…」
「私は正常ですっ!」
「い、いや、別に同性愛者も愛情という意味では正常者なんじゃ
ないかな、って思うんだけど…」
正論を言う俺。うん、気が動転してる。
「と、とにかく、私は女性を愛しています!」
「…そ、そうか。良かった」
思わず、胸をなでおろす俺。
「九峪様、私にいつも言っていたのは、冗談じゃなかったんで
すか!?」
「い、いや、冗談だって。…いや、冗談だよ。信じろよ、遠州!」
不信の目を俺に向ける遠州。ここまで来て、やっと俺はわかっ
た。遠州が俺に聞いてきた理由。それは…。
「…そ、そうか。お前、上乃について聞こうとしてたのか!!」
「…!!」
途端に、視線をそらす。なるほど、遠州は俺と上乃の仲を尋
ねるために、迂遠に俺の想い人を聞いてきたのね…。それを、
俺は…。
もしかして、やばいのは、俺の方か?
「そ、その。で、どうなんです?九峪様?」
「い、いや。上乃のことは好きだけど…」
「好きなんですか?」
明るくて、気さくで、変な気取りが無くて。悩みを親身になっ
て聞いてくれるし、冗談も分かる。なんていうか、等身大の友人
というか。男女の親友って、ああいう奴を言うんじゃないだろう
か。確かに魅力的な奴だとは思うけど。
「でも、恋人とか、そういうんじゃないんだよな」
もし、あいつがいなければ。もしかすると、上乃を好きになっ
たかもしれない。だが、それは「もしも」の話だ。もう一度、や
り直すとか、そういう話でしかない。
それは、今、現在の現実の話じゃないのだ。
「そうなんですか」
「ああ。俺には、もう決めた奴がいる…」
俺はそう呟いて、軽く頭の後ろで手を組んで、いすの背にもた
れた。
「なるほど…。清瑞殿ですね?」
「…まあな」
そう答えて、俺は酒を煽った。
「今、清瑞殿はいないのですか?」
周辺の気配を気遣うように遠州が言う。
「いや、いない。お前が相談がある、っていうから、席を外して
もらった」
俺の言葉に、遠州が頭を下げる。
「すいません。貴重な時間を」
「いいさ。お前にとっては重要なことだったんだから」
俺はそう言って遠州に微笑む。
「一時はどうなることか、と思ったけどな」
「それは、こっちの台詞です!」
「まあ、怒るな。なんにせよ。俺には清瑞がいる」
「はい」
「あいつみたいな不器用な奴、俺以外に貰い手、いないって」
「また、そんなことを…」
遠州が、安心したように笑顔を見せた。
「だから、上乃を幸せにしてやれよ」
「はい。その言葉を聞いて安心しました。上乃さんは…」
そう呟いてから、遠州は首を振った。
「いえ、何でもありません」
「そうか。ま、なにせ、わがままな奴だから、よろしく頼む」
遠州が省略した部分に目をつぶって、俺は言った。
「そのわがままが良いんですよ、九峪様」
「同感だ」
俺はそう言って遠州と顔を見合わせて笑う。
「我が軍の勇将、優等生、紳士たる遠州、放蕩娘たる上乃に惚れる、
ね。なるほど、世の中ってのは面白いな」
「…我が軍で最も九峪様を軽蔑している清瑞殿が、一番、九峪様を
思っておられる。なるほど、世の中は面白いですよ」
遠州は俺の言葉にそう言って返す。
「…清瑞に」
俺は苦笑しながら、遠州に言った。
「九峪様?」
「清瑞に、この前、香水を贈ったんだ」
「…香水を?」
「そう。愛宕が集めた漂流物と南国の果物とかを使って、作って
もらったんだ。甘い香りの」
「…ですが、隠密の警護役に、香水なんて…」
遠州が戸惑うように俺を見つめる。
「だからさ」
「?」
「だから、清瑞は俺に激怒したよ。こんな香りを付けていたら、
敵に察知されるだろ、ってね」
「分かりますよ。九峪様、あまりにも配慮が無さ過ぎます。清瑞
殿にしてみれば、どんなに嬉しくても付けられない香水です。そ
れに、自分の仕事に理解がないと…」
「思ったらしいな。あの怒りようと、拗ね方はな」
俺がくっくっと、低い声で笑うと、遠州が眉をひそめる。
「知ってて、贈ったんですか?悪質ですよ、それは」
「遠州。なにも、俺は今すぐに香水をつけてもらいたかったんじゃ
ないんだ」
「と、言うと?」
「いつか、清瑞が隠密や警護役みたいな、気配を悟られるとまずい
仕事を辞める日が来たら…」
「辞める日?」
不思議そうに遠州が俺に聞いてくる。
「そうだ。いつまでも、清瑞が香水を付けられないままなのか?」
「それは…」
「いつか、付けられる日が来る。そう思ったから、贈った」
「香水を、付けられる日…」「あいつが、こういう仕事をしなくても良い日だよ。少なくとも、
今より平和で、静かで、穏やかな日だ」
遠州はその言葉に息を呑んだ。
「耶麻台国が復興しても、それでもあいつは感情を抑えとかなきゃ
いけないのか?香水を付けちゃいけないのか?そんな莫迦な話が
あるか。勿論、あいつの好き嫌いはあるだろうけど、それが強制
されるのはおかしいだろ」
「つまり、九峪様が、自由にすると?」
「そこまでおこがましくはないし、押し付ける気もないけどな」
俺はなんとなく、視線を外に逸らした。
「でも、平和になれば、あいつの仕事も少なくなる。感情を殺さ
なきゃならない仕事も減る。感情が戻ったってんなら、それが幸
せに思えるようにしたいだろ?」
「…その日のための、香水、ですか?」
「あいつは怒ってるかもしれないけどな。あるいは、あいつ、本
気で迷惑だと思ってるかもしれないしな」
「でも、九峪様の本意は伝わってるのでしょう?」
「さあなぁ。あれで、あいつ、意外と鈍いから」
「でも、香水を贈った理由は、言ったんでしょう?」
「言ったけどな、伝わったかな?詭弁だとか言って怒鳴られたけど」
「それなら、伝わりましたよ。清瑞殿らしい」
遠州がこれ以上ないほど、申し訳なさそうに苦笑する。
「でも、必ず俺は、その日を来させるぞ。あいつが、香水を付け
て、似合わない煌びやかな衣装に身を包んで、あの美しい黒髪に、
髪留めを付けさせて」
「絶対、不機嫌になりそうですよね」
不機嫌そうな顔でそっぽを向いた黒髪の美人の魅力的で、それで
いてどこか滑稽な姿を思い浮かべる。
「そういうことを、たまには出来るように。そういう時間を手に入
れるために、狗根国と戦う、って言うんなら、命を賭けるのもそん
なに悪くないだろ?」
「九峪様らしい理由ですよ、それは。清瑞殿が聞いたら…」
「感動するか?」
得意げに言う。
「公私を混同するな、ってお怒りになるでしょうね」
「…あいつ、本当に俺のこと、好きなのかな」
「自信、ありませんか?」
「ときどき、俺、いまだあいつに憎まれてるんじゃないか、って思う」
「…男女の仲というのは」
遠州は、一つ呼吸を置いて言った。
「傍から見てると分からないと言います。その二人にしか分からない
事がある、と」
「つまり?」
「傍から見ると、仲が悪く見えますが…」
「うん」
「実際に、仲が悪いのでは?」
遠州はそう言って意地悪く微笑むと、立ち上がった。
「それでは、上乃さんを誘いに行きますので」
「こんな夜中に?」
「上乃さんは、夜遊びが好きですから」
「なるほど…」
「では、九峪様」
「なんだ?」
「良い夢が、見れますように祈ってますよ」
「そうだな、清瑞の出る夢を」
「あるいは、悪夢だったり」
「夢ってのは、そんなもんだろ」
夢、ね…。
不条理な話(あるいは御意見無用的) 〜中編〜
「夢は、(無意識の)願望の(仮装された)充足である」
ジグムント・フロイト
第2幕「顕在内容」
清瑞と行軍。
軍事訓練だそうな。
せっかくの休息だってのに。
せっかくの、戦争を前にした休息だってのに。
俺は、清瑞といることを選んだのに。
なのに、また「訓練」だそうな。
なんでも「訓練」っていやあ、正当化できると思ってるんじゃな
いだろうか、あいつは。
警護対象を死地に追いやる行為ってのを、こっちの世界じゃ「訓
練」って言うんだろうか?
海で、雪山で、草原で、密林で、軍事訓練場で、俺は死地を見た。
そのたびに、清瑞にぼろくそに言われながら、救われる俺。って
いうか、奴はマッチポンプか?
もしかして、あいつは警護役を危機に陥らせて、そのスリルを楽
しんでいるじゃないだろうな。女版「スピークラーク」か、ある
いは「ファイト一発!」…。俺、清瑞の「玩具」じゃん。
そんな事考えて清瑞にくっついていたんけど。
気付いたら、清瑞はいなかった。
…今、俺は、死地にいた。
「清瑞!こら、清瑞、出てこい!」
現在、阿楚山中奥深く。
阿楚城から行軍距離で、約3日の距離。
っていうか、完全に山中の密林で迷子の状態だ。
一応言っておくが、俺は耶麻台国軍の総大将だ。いなくなると困
るはずだ。だが、その俺を警護する清瑞は、今、ここにはいない。
曰く、
「良いか、九峪。お前はここから無事、阿楚城に生還しろ。これ
が今回の訓練だ」
そう言うやいなや、俺の前から姿を消した。さすが、忍者だと思
う。偉い。でも、俺は死にそうだ。
そして、置き去りにされてから6時間。手元にはあと3日分の
食料と、七支刀のみ。コンパス、地図の類なし。残念ながら、俺
にはサバイバル知識は「漠然」としたものしかなかった。だから、
切り株を見れば方向が分かるのは知ってても、年輪が寄ってる方
が北なんだか、南なんだか、いまいち自信がない。どれが食べら
れるキノコなのかなんて、絶対に分からない。…生半可な知識で
毒キノコでも食べて死んだら、とてもじゃないが日魅子に会わせ
る顔がない。
そして、さらに3時間。
「…っていうか、俺、死ぬのか?」
辺りを見回しても、いまだ阿楚山中。そういや、魅土の竜人族が
この辺にいると思うんだけど…。分かるわけがない。
どこを探しても、目印らしいものもない。とにかく、太陽の方角
から、東に東には向かってるはずなんだが…。
「ああ、畜生!清瑞!」
何度叫んでも、清瑞は現れず。多分、俺を殺す気はないと思うか
ら、その辺にいるはずなんだけど。
きっと、俺が苦しんでいる様子を眺めて、にやにや笑ってるに違
いない。
ああ見えて、あいつは冷酷な奴だ。
ん?いや、見たまんま、あいつは残酷な奴か。
珠洲に言われてたしな。
「くっそー、俺が何した、って言うんだ!」
そりゃ、俺は清瑞に色々したさ。抱き着いたり、憎まれ口叩いた
り、仕事の邪魔したり、嫌がる清瑞を無理矢理遊びに誘ったり、
警護が大変だから街に遊びに出るなという頼みを無視して街にく
り出したり…。
「俺が何をしたって言うんだぁ!!!」
…殺されて当然だったか。あるいは、清瑞に動機十分。俺って、
実は殺されかけてた?
そう考えてみると、今までの軍事教練って、みんな俺を「確率の
犯罪」で殺すことを狙っていたとか?最初っから、殺す気まんま
んですか?
馬鹿な、そんな訳がない。俺を殺したら、耶麻台国復興軍は指導
者を失うはず…。
「でも、最近、伊万里も志野も星華も藤那も育ってきたもんな…」
人格的にも、軍事的にも、政治的にも。経験と、人間関係の積み
重ねが、良い方向に向かっているんだと思う。もともと、みんな
魅力的な人間だ。多少、人間関係がぎくしゃくするときもあった
が、今は大人になってきた。
「只深はもともと苦労人だしな。香蘭は…」
もう少し倭の言葉を覚えよう。三太夫も言ってたが、紅玉さん、
少し大切に育て過ぎ。とはいえ、あのあっけらかんとした「明る
さ」と「強さ」は貴重だ。まだ若いんだし、紅玉さんがいれば、
大丈夫だろう。
そう、耶麻台国復興軍は、俺がいなくても大丈夫だ…。俺の努力
が実った、って思うのは己惚れだろうか?
「…じゃあ、俺がここで死んでも大丈夫じゃん」
まずい。清瑞の奴、本気で俺を殺す気か?
「き、清瑞…」
なんの返答もない。
「清瑞の変態!サディスト!数寄者!」
…昔だったら、このぐらい言えば怒って出てきたんだけど…。さ
すがに、忍耐力をつけたらしい。周りで音一つしない。
うむ、良くぞ、俺の試練を乗り越えた。
…その復讐か、これは?身に覚え、あり過ぎ。
「清瑞の(以下、検閲)」
これほどの事を言っても清瑞が出てこない。…もしかして、本当
に清瑞さんいない?俺、この密林に一人きり?
「いい加減、こんなところで、莫迦やってる場合でもないか」
呟いて、周囲を見渡す。密林である事には変わりない。辛うじて
月光の淡い光りが頂点から細い糸のように刺さる。とてもじゃな
いが、野営できる場所じゃない。とにかく、火をつけないと、い
つ獣に襲われてもおかしくない。
火をたてるが、見張りになる奴もいない。食料も、ほとんど携帯
食だけだ。…現状確認、かなりやばい。伊万里でもいれば、狩猟
でもするんだけど…。
…もしかして、一週間後くらいになったら、俺の餓死体が見つか
るのかな。清瑞とか、すでに失踪してて。犯人は清瑞。そりゃ、
明白か。で、干からびた俺の死体を見て、みんなで爆笑。藤那あ
たりが「九峪の干物の一丁上がり」なんて言って。
「そりゃ、救われないぜ、おい」
駄目だ、だいぶ、俺、鬱だ。まあ、炎が一つしかない真っ暗やみ
の森なんて、ほとんど地獄のような世界だ。勿論、古代の人にと
っては、これが神聖で馴染んだ「闇」なんだろうけど、現代の都
会に育った俺にとっては、かなりの恐怖だ。
誰かがいてくれれば、守るなり、守られるなり、気をまぎらわせ
る事ができるが、自分一人の孤独な中では恐怖しか沸かない。俺
も、だいぶ臆病者らしい。
「ここで一晩、それも見張りなし」
呟いて現状確認。本当に、獣に襲われたらまずい状況だ。
「ここで死んだら、理不尽だよなあ」
不条理に満ちた現実に、俺はひとつ溜め息をついて嘆くと、明日
まで生き残れるよう祈って眠った。
願わくば、明日の太陽が見れますように。
次の日、起きたのは、霧が立ち込める早朝だった。とても熟睡で
きるどころではなかったから、朝早くに起きたのは当然だったが、
それにしたって早く起き過ぎたもんだ。
とても動けないほどに濃密な霧が、周囲の視界を妨げている。こ
んなときは、何かが起こるものだ。仙人が出てきたり、桃源郷に
行き着いてしまったり、突然古代4世紀の九洲なんていうパラレ
ルワールドに連れてこられたり。そんな理不尽な状況に突っ込む
幕開けは、たいてい境界としての不思議な空間が使われる。
鏡、炎、滝、泉、霧。雷、穴、洞窟、煙。虹、影、ドア、幕、光。
人間の感覚をひっくり返し、異なる世界へと導く舞台装置…。
ああ、やっぱり、俺、鬱だ。何、考えてるんだろう。
「くそ、何処に行けば良いんだよ…」
昨日までと違って、太陽の光りはあるが、霧に反射してどっちか
は分からない。東はどっちかは昨日覚えてはいたけれど、この視
界の悪さじゃ、進むに進めない。
とはいえ、行動を起こさないと、確実に食料切れはやって来る。
清瑞がいない可能性もあるから、とてもじゃないが、待つわけに
もいかない。
「行き当たり、ばったりか…」
とにかく、 棒で地面と障害に気をつけつつ、進むしかない。何か、
D&D状態。10m先は闇。10m以内も闇。
誰一人、頼る者がいないのは辛いところだ。
本当の意味で「五里霧中」。
…で、それから1時間。いつまで経っても霧は晴れないし、どん
どん変な方向へ向かっている気分。森は続くよどこまでも。
「清瑞!いるなら出てきてくれ!清瑞、頼む!」
情けないが、さすがに感覚が怪しくなってきて、神経が無茶苦茶
になっている。正直、情けないとは思うけど、音を上げる。
「清瑞さん!いるんなら返事くらいして下さい。この通り、頼み
ますから」
徹底的に卑屈に言ってみた。我ながら、情けない。
しかし、森のざわめきと、鳥の鳴き声以外、何も聞こえない。そ
れすらも、ここ三十分聞こえない。音もなく、視界も利かない。
草の葉に、水が滴る「青臭い」匂いと土の水にぬれた泥の匂い。
ただ、それだけがひたすら感覚を占める。
「清瑞!助けてくれ!」
多分、最も総大将らしからぬ台詞を叫ぶ。そのくらい、神経がい
かれていた。
けれど、それに答える言葉はなく。
「くそっ!清瑞の莫迦!アホ!頓馬!……」
…有らん限りの罵声を飛ばし。結局、疲れるだけになる。自分の
声だけが、密林に反響する。自分の声の響きが、なお一層、目眩
のような感覚を頭に与える。
「清瑞…」
ついに、一際大きな樹木に寄りかかる。
「清瑞。頼む…」
…文句を言っても出てこないなら。
「清瑞ぅ。愛してるぞ!心から、お前のことを!大好きだ!お前
に会いたくてしょうがない!」
自分の頭に反響するほど、大声をあげる。
「清瑞。普段は色々言ってるけど、お前だけなんだよ!俺が、俺
のままでいられるのは!!」
…それでも、静寂が包む。いつしか、口元に苦笑が浮かぶ。
「清瑞…、本当に、お前に頼りっきりだったな。何もかも、お前
に任せっきりで、お前の苦労も知らないで」
言葉が止まらない。多分、もう理性もなくなってきたんだろう。
「だからか、お前がこうして、ここに連れてきたのも」
結局、俺は知らないうちに清瑞を傷つけて、今、復讐されてるわ
けか…。
「違う、そういう意味じゃない」
「違う、って、じゃあ、どういう意味で…」
俺が寄りかかっている木の上を見る。そこには、清瑞が枝にぶら
下がって逆さになったまま、こちらを見下ろしていた。
「き、清瑞…」
「よぅ」
「…聞いてたのか?」
「まあ」
「何時頃から」
「何処に行けば良いんだよ、あたりからかな」
しばらく、お互いに見詰め合う。
「で、何で出てこなかった?」
「お前がどこまでこの事態に対処できるかな、と思った」
「…で?」
「九峪、お前、混乱するの早すぎだ」
淡々と清瑞は答える。枝にぶら下がり、逆さのままで俺に言って
いるのは、少し不気味だ。
「悪かったな」
「ああ。総大将たるもの、沈着冷静でなくてどうする?」
「あのな、現状を考えてみろよ!来たこともない阿楚山中に、道
具も地図もなく、経験だってないまま、一人ほっぽり出されたん
だぞ!」
「そのぐらいの不条理、どこにでもあることだ」
清瑞はそう言って、突然バナナを取り出して、皮を剥き始める。
バナナの甘い香りが漂う。そういえば、愛宕が作っ香水には、果
物が多く入っていたはずで…。
駄目だ、考えがまとまらない。
「おい!だからって、この状況になったら辛いだろ?周囲を見て
も、何も見えないんだぞ!何だよ、この霧は?」
辺り一面の霧と、鬱蒼とした森。何処まで行っても変わらない風
景。明かりは手元の小さな松明のみ。朝のはずが、この暗さ。
「霧くらい、自然現象の一つだ。いつないとも限るまい」
清瑞はそう答えると、逆さになったまま、バナナをほおばる。何
かもう、猿だ。
「だからってな!ああ、もういい。降参だ!とにかく帰らせてく
れ。もう、耐えられない」
「…、もし、私も迷ったと言ったら、どうする?」
「…本当か?」
俺の問いにも、流暢にバナナを食べる清瑞。
「おい!」
「嘘だ」
清瑞は食べおわってから簡潔に答える。
「嘘かよ!」
「ああ、嘘だ。だが、お前を連れて変える義理はないだろ?」
「き、清瑞?」
バナナの皮を見つめながら、清瑞が答える。
「お前、やっぱり、俺のこと…」
「愛してる」
「はっ?」
「愛してるぞ。九峪…」
頬を赤らめさせ、清瑞が逆さのまま言う。しかし、バナナの皮を
握ったままだ。
「清瑞?」
「いつも、お前が私に気をかけてくれるのは知ってた。私への意
地悪も、お前の愛情だと分かってた…」
うっとりと頬に手を当てて清瑞は続ける。でも、左手にはバナナ
の皮がある。
「ど、どうしたんだよ、清瑞」
「だから、私もお前に悪戯したんだ。お前を構いたくてしょうが
なくて、お前の側にいたくてしょうがなくて。だから、他の女王
候補や部下と一緒に遊んでいるときも、警備を理由に付きまとっ
ていたんだ…」
バナナの皮を振り回しながら、清瑞が照れる。
「付きまとう、って…」
「伊万里様と山へ行ったときも、志野様の踊りを見ていたときも、
星華様と祭りに行ったときも、藤那様と酒を飲んでいたときも、
只深様のときも、香蘭様のときも、誰のときでも…」
「清瑞、そりゃ、ストーカーだって」
「違う、純粋に愛情だ」
清瑞はバナナの皮を割きながら強弁する。
「私が、どれだけお前の事が好きか。お前のせいで感情を取り戻
したんだ。悲しみ、喜び、怒り、やるせなさ、慈しみ、愛しさ、
憎しみ、哀れみ、恐れ、呆れ、驚き、名づける事のできないよう
な無名の感情…、どれもが、お前のせいで再び取り戻してしまっ
たんだ」
強い感情を感じさせる震えた言葉と潤んだ目が、清瑞の言葉に力
を与える。これで、バナナの皮を持ってて、逆さになっていなか
ったら、俺は感動したろう。
「な、なあ、清瑞?」
「愛してくれるのか、こんな私でも?」
「い、いや、その…、何でバナナの皮?」
「…!私より、バナナの皮の方が大事なのか?」
目を丸くして、清瑞がショックに打ち震える。
「私より、バナナの皮…」
「ち、違うって。そうじゃなくって」
「お前なんか…、九峪なんか…」
清瑞は、枝の上にぴょんと立ち上がる。
「知るものか!ここで永遠に迷い続けろっ!」
「ま、待て清瑞!」
清瑞はまるで、自分の庭のように枝から枝へと飛び移る。まる
でターザンのようだ。そういや、ターザンって水泳選手が演じ
たんだよな。
「九峪の莫迦野郎!九峪なんか、誰ともラストイベントを見な
いで、現代世界に帰って姫島日魅子とエンディングを迎えれば
良いんだ!」
なんか、やけに具体的に俺に捨てぜりふを言う。第一、清瑞は
日魅子の事を知らないはず…。
「待て、清瑞!」
「待たない!私の気持ちに気付かない罰だ!」
俺は必死に清瑞の跡を追う。しかし、清瑞の猿のごとき動きに
どんどん突き放される。
「清瑞!」
「九峪!」
清瑞は、哀切極まりない、悲鳴のような、それでいて甘やかな
声で俺の名を呼ぶと、木の枝から飛んだ。
「清瑞!」
俺が清瑞を見失うまいと全力で走ったとき…、清瑞の手から放
たれたバナナの皮に足を取られた。
「そ、そんな」
俺は、そのままのスピードで転がる。そしてその勢いで、鬱蒼
とした森からぬけて泉の前に出た。ちょうど、どの目の前で清
瑞が優しい涙を流しながら、泉の中に沈んでいくのを見た。
「き、清瑞!」
清瑞は、船には乗れないが、泳げる。だから、大丈夫なはずだ。
しかし…。
「清瑞!清瑞!」
転んで足を傷めながら、俺は立ち上がって泉にかけよったが、
清瑞は浮かんでこない。ここも霧が立ち込めているが、人影ら
しきものが、泉の上にはどこにも見えないのだ。
頭に乗っているバナナの皮を取り除けながら、俺はじっと水面
に目を見張らせる。
しかし、泉の水面は平静のままで、水紋一つ浮かばない。
「清瑞…」
俺は泉に飛び込もうと意を決し、バナナの皮を泉に捨てたとき。
それは起こった。
突然、泉に泡が浮き上がると…、そこから、清瑞が現れたのだ。
「き、清瑞…。良かった、無事だったのか!?」
俺が駆け寄ろうとした刹那。
「九峪、お前が落とした清瑞は…」
「は?」
清瑞は、そう言うと、まず右手で人影を指した。
「この、素直になれないけれど、お前を一途に慕っている清瑞
か?」
そう言われて浮かんだのは、どこか照れたようにしながら、ち
らちらと俺を意識している清瑞だった。いつもの清瑞な感じだ。
少なくとも、さっきのバナナの皮に拘泥している清瑞ではない。
「それとも…」
清瑞は左手でまた人影を指す。
「この、自分の気持ちに素直に、お前を慕っている清瑞か?」
そう言われた清瑞は、顔を赤面させて、もじもじしながら俺を
見る。なんか、新鮮な感じで、結構良し。
「それとも…、九峪を苛める事に快感すら感じている、このバ
ナナの皮が好きな私か?」
…、なんだ、それ。いつから、清瑞はサディストになった?
「勿論、最初の清瑞!」
「お前は、嘘吐きだ!だから、清瑞はお前にはやらない!」
「嘘ついてないって。清瑞らしい清瑞は、最初の清瑞だろ!」
「違う!本当の清瑞は、このバナナの皮だ!」
「意味不明だ!」
「お前のような嘘吐きには…」
清瑞は火が出るように怒る。そして、他の清瑞が水中に消えて
いく。悲しそうな瞳のままで。
「き、清瑞!」
「うるさい、お前には、これで十分だ!お前には、遠州を与え
る!」
「えっ!?」
「九峪様…。実は、私は女だったんです…。今まで、隠してま
したけど…」
「遠州…」
「昨日の夜の言葉は、本音だったんです」
「な、なに!?」
「でも、はぐらかされて、つい…」
「い、いや、だから」
「でも、今度は勇気を出して言います!九峪様、愛してます!」
「お、おい…」
「じゃ、そういう事で」
俺たちを尻目に、清瑞はさっさと泉の中に消えていく。
「え、清瑞?」
「では、遠州と幸せにな」
「ば、莫迦なぁ」
俺の叫びに、遠州が抱きついて言った。
「九峪様、バナナの皮ですっ」
「バナナの皮、か」
ええ、バナナの皮ですとも。
不条理な話(あるいは御意見無用的) 〜後編〜
「われわれが理解することのできるすべての命題は、われわれ
が直に知っている構成要素だけから構成されているのでなけれ
ばならない」
バートランド=アーサー=ウィリアム・ラッセル
第3幕「夢判断」
「ひいっ!」
「九峪様?」
布団から飛び上がった俺の目の前に、愛宕がいた。
不思議そうに俺を見つめている。
「あ、愛宕?」
「うん。ボクだよ?」
枕もとでずっと正座していたらしい愛宕が首を傾げる。
「そうか、夢か…」
頷きながら、腕で寝汗でびっしょりの額をぬぐう。その俺の
様子を、いつものように明るい表情で見ている愛宕。
…?
「…って、愛宕、何の用だよ?」
俺は、寝ている俺を見つめていたであろう愛宕に思わず突っ
込みを入れる。
「何の用は酷いよ」
愛宕はその大きな目を潤ませて言う。
「九峪様に言われていた香水をまた作ったから、持って来たん
じゃないか」
そう言って、胸に抱いている香水瓶を差し出す。
「ああ、そうか。悪いな」
「この前のよりも、香りは弱めにしたけど…」
愛宕がそう言って、子犬のような可愛らしい仕草で鼻を利か
せた。
「ね?どんな感じ」
「うん?」
俺もまた、鼻を利かせると、甘い香りがこの部屋一体に漂っ
ていたことに気付く。
「なんだ、この部屋に香水を撒いたのか?」
「うん。何か、九峪様、うなされてたみたいだから、良い香り
で気分を良くしてもらおうと思って」
「…なるほど」
…夢の香りは、この香りだったのか。
「にしても、酷い方だったよ、九峪様」
「…まあ、ちょっと悪夢をな」
「悪夢?」
愛宕は不思議そうに俺を見つめる。
「そう。悪夢」
「どんなの?」
好奇心の塊のような表情で、愛宕が俺を見つめる。しかし、
遭難して清瑞がバナナで遠州が女な夢、なんて、口が裂けても
言えるもんか。
「まあ、なんだ。無茶苦茶で支離滅裂な夢だ」
「そういうの、あるよねぇ。なんだか訳が分からないんだけど、
気持ち悪かったり、不思議だったり、不安になったりする夢。
あれって、寝覚め悪いんだよね」
愛宕が共感したかのように頷きながら答えた。
「ま、そんな感じだ」
「九峪様、少し疲れてるのかもしれないね。少し休んだ方が良
いと思う」
「ああ、そうだな。ま、それはそれとして、香水の方、ありが
とうな」
「ううん。良いよ。前の、少し香りがキツイから、こっちの方
が良いと思ったから」
そう言うと、愛宕はにっこり笑った。
「清瑞じゃ、香水、付けられないもんね」
…今、なんと?
「隠密だもんねぇ」
相変わらず、何も考えていない能天気な口調で言う。
「…知ってたのか?」
驚きを隠せなかった俺に、愛宕が微笑んだ。
「凄い?」
「どうして分かったんだ?」
「…実はね」
愛宕は真面目な顔になると、鬼気迫る表情になり…。
「清瑞から聞いたんだ」
すぐにいつもの天真爛漫な顔に戻った。
「あの、清瑞からかっ!?」
絶対、私生活を口にしない、あの鉄の女、清瑞から聞き出し
たというなら、それは凄いことだ。最近は柔らかくなったとは
いえ、それでも俺の前以外では、まだまだ堅い。それが、まあ、
嬉しくもあり、心配でもあるんだが…。
「どうやって、聞いたんだ?」
「うん?自分から教えてくれたんだよ。香水、ありがとう、って」
「…、清瑞が?」
「うん。付けられなくて申し訳ないけど、って」
清瑞らしいと言えば、清瑞らしい実直さというべきか。
「でも、清瑞、とても嬉しそうだったよ」
「何て、言ってた!?」
思わず、愛宕に詰め寄ってしまう。
「九峪の莫迦、香水を私に渡して、どうする気なのか、全く分か
らん」
清瑞の物まねをしながら、愛宕が言う。…あんまり似てない。
「…全然、嬉しそうじゃないじゃん」
「違うよ、九峪様。顔を真っ赤にして、照れ隠しのように怒った
ように言うのは、清瑞が嬉しい証拠だよ」
愛宕が困ったように言う。
「違った?」
「…違わない」
あいつは、愛宕にまで見抜かれるような単純な奴だったりする。
普段のポーカーフェイスぶりと、時として垣間見せる子供未満の
感情表現。それが清瑞の持っている両面。
「でしょ。でね、感情的なときの清瑞の、いつもの癖で…」
「感情が暴走気味になった、と?」
「うん。怒ったかと思うと真っ赤になって、考え込んだかと思う
と動き出すし」
「…そりゃ、重症だなぁ」
今まで感情を殺して、理性で抑圧して生きてきた奴だけに、一
度、感情の奔流に呑み込まれると、止まらないらしい。普段、不
敵に落ち着き払ってる印象が強いから、照れて焦ったり、声を大
にして怒る(というより、喚くに近いか?)姿は、周囲を驚かせ
ずにはおかない。
俺にしてみりゃいつものことだけれど、みんなにとってはそう
じゃないわけで。
「そうだよ。ボクの前で最初は、ずっと九峪様の悪口言ってて…」
「なんか、目に浮かぶなぁ…」
あいつ、俺の悪口言ってるとき、やけに輝いてるんだよな。よ
くもまあ、ああもポンポン人の悪口が出てくるもんだと思うほど、
豊富な語彙を駆使してきやがる。
「阿呆だの、莫迦だの、頓馬だの、間抜けだの、ろくでなしだの、
ごくつぶしだの、変態だの、助平だの、ボケだの、カスだの、人
間のクズだの…」
言葉をなくした俺に、楽しそうにペラペラ喋っていた愛宕が、
言葉を止める。
「あっ、ゴメン。ちょっと調子に乗ってたね」
「いや、そうじゃなくて」
俺は愛宕の言葉に首を振り、腕組みをして言った。
「なんだ、その程度か、って思ってな。まだ自主規制しないで済
む程度だったから」
「…九峪様、普段、清瑞に何を言われてるの?」
明らかに呆れている目で、愛宕が呟く。
「とてもじゃないが、言えないような罵詈雑言の雨あられ」
「…」
「なんか、俺と付き合っているうちに、あいつ語彙が増えちゃっ
たみたいでさ」
「全部、九峪様が悪いと思う」
愛宕が責めるような目で俺を見る。
「…ま、悪口を言うのも、溜め込んだものを吐き出すのに丁度
良いしな」
「そこまで考えてやってるなら、九峪様も格好良いんだけど…」
愛宕はしばらく言葉を淀ませて、そして、ため息を吐いた。
「そんなわけ、ないよね」
「…まあな」
その言葉に俺も頷く。
「まあ、結果として、清瑞にとっては良い捌け口が出来たんだ
から、結果おーらいだね?」
「そういうことにしておくか」
まとめる愛宕の言葉に頷く。
「で、一通り、九峪様を罵倒した後」
「うん」
「…どうなったと思う?」
愛宕が興味津々に俺の顔を覗き込んで来た。
「…答えるのか?」
「九峪様なら、分かるでしょ?」
「…あいつのことだから」
一通り、俺を罵倒した後で、罪悪感にかられるだろうな。俺
が悪事を働いたならともかく、今回は香水をプレゼントしただ
けだ。それなのに、俺を罵倒したってことは。
「急に俺を弁護し始める」
「正〜解〜っ」
瞳を輝かせて、愛宕は楽しそうに言った。
「さっすが、九峪様。清瑞の恋女房」
「はいはい。で、何だって?」
いつもの愛宕の混ぜっ返しをかわして、続けさせる。
「う〜んとね」
そう言って、また愛宕は清瑞の物まねを始める。
「あの莫迦、い、いや、莫迦というか、その、あいつは、あい
つなりに考えて行動してるわけだし…。そ、それにどんなもの
だって、贈り物をされるのは、悪い気はしない。い、いや、悪
いというか、その、なんだ。…半ば、嬉しい、かもしれない、
かな、というくらいには、その嬉しいような、だから、なんだ、
愛宕、つまり、その、分かるだろう、九峪は、ただ莫迦な悪い
奴ではなくて、その」
清瑞には似てないものの、その要領を得ない言葉は確かに、
顔を真っ赤にしたときの清瑞、そのものだ。まあ、俺に対する
場合は、照れて混乱すると逃げてしまうんだが、愛宕に対して
逃げるわけにもいかなかったらしい。
「変態とか、助平とか、総大将にふさわしくない、とか言うが、
それはあくまで、あいつに総大将らしくして欲しいからで…。
欠点は魅力でもあるわけだから、別に私の前で駄目な奴でも、
それはそれで…。いや、そうじゃなくてだな。あくまで、私は
駄目なあいつを叩き直してやるつもりなのであって…。いや、
違うんだ、愛宕。私は別にあいつを独占しようとか、そんなこ
とは少しも…。えっ、そんなこと、言ってない。…。…」
急に、愛宕が黙り込んだ。
「おい、愛宕…?」
「違う!!!!私は何を言ってるんだっ!だいたい、あの莫迦
がこんなものを贈ってよこすから!」
近寄った俺に愛宕がまくしたてる。
「い、いや、違う、愛宕、別に香水が「こんなもの」という意
味ではなくて。そんな、しょげた顔をするな!」
慌てたように表情を変化させる愛宕。
「お前、しょげたのか?」
「うん、そりゃ、しょげるよ。一生懸命、作ったんだから」
愛宕が「清瑞」の状態から素にコロッと戻って答えた。
「で、清瑞が慌てて謝った、と」
「こっちが恐縮するくらい、謝られちゃった」
そのときのことを思い出したのか、またニコニコと笑う。
「…でね」
そう言うと、また愛宕が演技を始める。
「いや、愛宕。香水自体は良いものだとは思うんだ。だがな、
私の仕事柄、つけるわけにもいかないし、それに…」
「愛宕?」
「それに…」
愛宕はそう言うと、躊躇いがちに口を開いた。
「私に、似合うとも思えない…」
愛宕の言葉は搾り出すようなものなのに、その表情はとて
も優しい微笑みのような、それでいて何かを食いしばって耐
えているような表情だった。
…そう、清瑞の哀しい表情に瓜二つの。
「清瑞…」
「あいつは、私に似合うと思って贈ってくれたのかな。それ
とも、からかうつもりで…」
「そんなわけ、ないだろっ!」
「…、九峪様、ボクに詰め寄ってもしょうがないと思うよ」
さっきまでの迫真の演技はどこへやら、愛宕が優しい口調
で答えた。
「清瑞が言ったんだから」
「あいつ、まだ、そんなこと考えてるのか…」
「そんなこと、じゃないよ」
愛宕が俺の苛立たしげな呟きを聞きとがめる。
「そんなこと、で済む問題じゃないんだよ、清瑞には」
「…でも、いつまでも、ずっと今の状態が続くわけじゃない
だろ」
「そのために、香水を贈ったんだもんね」
「…ああ」
「…でも、それをボクに言ってもしょうがないんじゃないか
なぁ?」
愛宕がまた、いつもののんびりした口調に戻って答えた。
「分かってる、が…」
言いよどむ俺に、愛宕が詰め寄る。
「が?」
「照れくさい」
「…それは清瑞も一緒だよ」
「そうか?」
「だって」
そう言うと、また、楽しそうに思い出し笑いを始めた。
「何だよ?」
「感極まった清瑞が」
「清瑞が?」
「最後に、言うんだよ」
「?」
愛宕はくすくすまた、笑う。
「きっと、よっぽど嬉しかったんだね。贈り物が。だから、
あんなに舞い上がってて、色々、言っちゃったんだろうね」
「だから、何言ってたんだよ」
「…」
「…」
「…後悔しない?」
「するかっ!」
「絶対!?」
「…世の中に絶対はない」
俺の言葉に、愛宕が軽蔑するような表情をする。
「それが、大人の意見だ」
「威張ることじゃないよ、九峪様」
「で」
「で?」
「だから」
「だから?」
「愛宕!」
「ボク?」
「こらっ!」
「はいっ!」
「うわっ」
とぼける愛宕の首根っこを捕まえようとして、見事に華麗
な足払いを決められる。愛宕、普段ののんびりした姿は偽り
の姿。しかして、その実態は天才的な格闘家・体術士にして、
蛇遣い。
「あっま〜い!ボクを捕まえるなんて、百年早いよ」
「愛宕、ミー君が!」
「え!?」
床を指差した俺につられて、しゃがむ愛宕。
「ほら」
首根っこを捕まえる。
「そういうの、正義の神の遣いのやっちゃいけないことだと
思うな」
「細かいことは、気にするな。続きだ」
「…なんだかんだ言って、気になるんだ、やっぱり」
「…」
言葉に詰まる俺に、ニタニタ笑う愛宕。
「…どうなのかな?」
「…」
「…九峪様?」
「…気になる」
「…えっ?」
「気になる」
「…聞こえないなぁ?」
「気になる!!!って、お前、わざとだろ!」
首根っこを捕まえていた俺の腕を、簡単に外して愛宕が
微笑む。
「勿論。清瑞の気持ちだけ聞くの、ずるいもんねぇ」
「…で、どうなんだよ?」
不貞腐れて聞く俺に、愛宕が、少し大人びた笑いを見せ
る。
「うん、良い?」
「あ、ああ」
身構える俺に、愛宕がぼそっ、と言った。
「九…」
「えっ?」
「九峪は、私の…」
「?」
「私の何処が気に入ったんだろうか?」
一瞬、沈黙がその場を覆う。
「本当に、そう言ったのか?」
「うん。本当に、真剣な表情でね」
そのときの愛宕の表所は、嘘偽りのない、真面目な顔だ
った。
「そうか…」
俺は何度か首を縦に振る。
「うん」
「…あいつらしいな」
「女王候補を差し置いて、あるいは、九峪様が元いた世界
の誰かを差し置いて、って」
「そうか。…あの、莫迦」
俺はもう一度頷いた。今度は、愛宕が俺の言葉を聞きと
がめることはなかった。
…莫迦には色々な意味があって。
「で、何処が気に入ったの?」
愛宕がさっきまでの表情をあえて変えて、重い雰囲気を
かき消すような明るい声で聞いてくる。
「あ、ああ?」
「だって、女王候補の人たちもみんな美人だし、その他の
幹部だって特徴あって、癖があって、魅力的だし…」
愛宕が指折りしながら言う。
「それに、ボクだっているじゃないかっ」
「おお、それは魅力的だな」
俺が答えると、愛宕が微笑みながら鳩尾に肘打ちを入れ
た。
「心にもないことを言っちゃ駄目だよ」
「…心に少しもないことじゃ、なかったんだけどな」
「なら、なおさら許せないなぁ」
愛宕はそう言って微笑む。
「で、何で清瑞に惹かれたの?やっぱり、あの凛とした姿?
それとも、あの哀しげな横顔?無表情で無機質な美しさ?
不器用で可愛い性格?それとも…」
「目が…」
「目?」
「あいつの目を最初に見たときさ」
「うん」
「心臓の鼓動が止まらなかったんだよ」
そのときの清瑞を思い出すように、俺は目をつぶった。
「ドキドキした。あいつを見たとき、あの表情と、切れ長の
瞳と。とにかく、無茶苦茶印象的だった。そのうち、一番、
身近にいたから、徐々にあいつに惹かれていったんだけど…」
俺の言葉に、愛宕が真剣に耳を傾ける。
「とにかく、最初のあいつの印象だよ。何でも切り裂くよう
な、あの鋭さ。俺は、あれで…」
「…そっか」
愛宕がどこか納得したような、それでいて淋しげな表情で
頷いた。
「愛宕?」
そして、またすぐに笑う。本当に表情の変化の忙しい奴
だ。
「それじゃ、ボクみたいなのは駄目だねぇ。鋭くないもんね」
「まあ、愛宕の場合、その独特の愛宕感が良いんだから」
「愛宕感?」
「愛宕らしさ」
「具体的には?」
「のんびりして、おっとりして、まったりしてるところ」
「…嬉しくない」
愛宕はそう言うと、少し拗ねたように答えた。
「九峪サマの意地悪。清瑞に愛想つかされないようにね」
「そのための香水、だろっ?」
そう言って俺がウィンクすると、愛宕は肩を竦めた。
「ま、なにせ…」
「何だよ?」
「清瑞に伝えておくね。今の言葉」
「お、おいっ、莫迦、それはやめろっ!!」
「だ〜め。仕返しだから」
「おい、こらっ!」
「本気のボクを捕まえられるかな?」
「あ、ミー君!」
俺が指差したときには、愛宕は部屋を出て行ってしまう。
「あっ、待て!」
「待たないよ」
走って行ってしまった愛宕を見送りながら、俺はぼんやり
と呟いた。
「まあ、二度も同じ手には引っかからないか」
それに、別に今の言葉が伝わっても。
俺には、なんら困ることはないさ。
俺は、清瑞のことが。
だから。
困ることはない。
そう、ない。
完
…。
…ないよな?
「近代社会において、狂気や犯罪その他の異常と見なされる
ものは、中心部分より排除され、あるいは閉じ込められ、監
視されることになる」
ミシェル・フーコー
終「潜在的思考」
「遠州か、上乃、どうだった?」
「…どう思います?」
微笑んで答える遠州の姿は、自信に満ちているようだった。
「うまくいったんだろ?」
「内緒です」
「なんだよ、教えろよ」
「秘密です」
「…。あのな」
遠州の微笑みで作られたポーカーフェースを貫くのは、ど
うやら難しいようだ。
「まったく。俺の夢に勝手に出てくる上に、教えてもくれな
いんだもんな」
「…夢?」
遠州がその微笑みを動かして、不思議そうに俺を見る。
「ああ。お前と清瑞と。全く、人の夢に出てくるなよな」
「そんなの、私たちのせいじゃないじゃないですか。それに…」
「なんだよ?」
「夢に出る、って言うのは、相手が自分を思ってくれている、
ということだそうですよ」
「反対じゃないのか?気にしている相手が、自分の夢に出て
くるんじゃないのか?」
確か、フロイトとか、あの辺の心理学ではそんなことを言
ってたような。無意識がどうの、圧縮がどうの、って。
「いえ、違いますよ。夢に出てくる、っていうのは、相手が
自分を思っていることの証明ですよ。逆にいえば、相手が自
分のことを思ってくれなくなると、夢に出てきてくれなくな
るんです」
遠州が記憶を手繰るように答える。
「そういや、百人一首か古文の授業かで、そんな話、聞いた
ような気がする」
「百人?古文?」
「ああ、良いんだ。で、そうすると?」
つまり、俺は。
清瑞と遠州に思われてるわけか。
…って、おい。
「遠州、お前、俺のこと…」
「そういう冗談は置いといて」
遠州は、にべもない。今までみたいな余裕もなく、手短に
打ち切ってしまう。
「なんだよ、つまらないな」
「良いんです。そんなことより」
何故か、慌てたように遠州が話しを逸らす。
「どんな夢、だったんですか?」
「それが変な夢でな」
俺が昨日の夢を話すと、遠州の表情が複雑なものになって
いく。それは、俺が予想した、苦笑と微笑の間で揺れながら、
俺に遠慮して大笑いしない遠州、という像とはかけ離れてい
た。
「そう、ですか…」
「な、変だろ?清瑞もお前も」
「…夢って、願望の充足、とか無意識に感じていること、を
見るそうですね」
急に真面目な表情で遠州は呟いた。その言葉を聞くうちに、
なぜか俺の喉が渇いていく。
「あ、ああ」
「九峪様、何か心当たりがあるんじゃないですか。その夢に」
「また、そんな、夢判断みたいな…」
…。
…。
…。
俺が、清瑞を好きになったのは…。
最初に会ったとき、ドキドキしたからで…。
あれ、でも、待てよ。
夢の中の俺は。
夢の中の俺は、清瑞に遭難させられて、殺されかけて…。
そういや、最初に遭ったときの、清瑞の俺を見る目、って。
…殺意?
それで、俺は恐怖して。
あの、ドキドキって、もしかして、恐怖感?
恋心じゃなくて、すべての動物が、強大な存在に感じる、あの?
「え、じゃあ、俺が本当に好きなのは?」
夢によれば、最後に「女」になるのは…。
「遠州、お前…」
舌のざらつく感覚が、俺を襲う。
遠州は羞恥にはにかむような表情で俺を見つめた。
「九峪様…」
「え、遠州?」
「昨日、上乃さんと話していて気付いたのですが…」
遠州が切なげな表情になる。美男子の切なげな表情というのは。
これはこれで。
…て?
「な、なんだよ、そんな真剣な顔で」
「もしかすると、私が本当に求めているのは…」
「お、おい!」
「そして、九峪様が求めているものも…」
「だ、だから」
「私の夢にも、九峪様が出てきて、言うんです」
「あ、ああ、遠州も言うんだよ」
思わず、二人で声をそろえた。
「「私、女だったんです」」
「…あ、あくまで夢だな」
「…ゆ、夢ですよね」
遠州は上乃を愛しているし、俺も清瑞を愛している。
「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」
ルードヴィヒ・ヴィドゲンシュタイン