火魅子伝 外記 紅玉伝 一話  Ver.1.23

 二年もの間続いた戦火は、火魅子候補の一人藤那が火魅子の座に戴冠した事で終わりを告げた。それから早や半年が過ぎ、戦火によって蝕まれた国土もようやく平安を取り戻しつつあった。 

 耶牟原城の城下町の一角に、ひときわ異彩を放つ建物が建っていた。建物のあちらこちらに珍しい大陸風の建築様式が見て取れ、民家としては大き過ぎるものだった。
 何より、その建物の実態を知らない人間にしてみれば、毎日毎日かなりの数の兵士が魅入られたように入っていき、出てきた時には大抵の場合ぼろぼろの姿になりながらどこか恍惚とした表情をしているとなれば、その不安は日ましに増していくのだった。
 その建物の中、二人の人が相対している。二人とも体のラインがはっきりとわかる魏服を着ていた。遠目にもそのシルエットを見れば二人が女性である事はわかるだろう。
「では、いきますよ、香蘭」
 凛とした声と共に、この建物の主である紅玉の目がすうっと細まる。
 黒髪を綺麗に後ろでそろえたその姿は妖艶という一言に尽きるだろう。とても一児の母とは思えない均整のとれたプロポーションは今だ衰えを知らない。
「わかってるね、母上」
 その紅玉に相対しているのは、無論娘香蘭である。こちらも、母紅玉に負けない容姿と均整の取れたプロポーションをしているが、彼女の場合妖艶という言葉には縁遠い。
 この建物は、一般には知られてはいないが紅玉が建てた拳法の道場であり、今親子による朝稽古の真っ最中だった。
「では」
 紅玉の右手が、ゆっくりと香蘭に向かって差し出されるように伸びた。
「はい、のこと」
 それに、応えるように香蘭の右腕が腰の辺りから胸の辺りまでせり上がった。それを開始の合図に道場に先程までとは明らかに違う、空気が凍りついたような静寂が二人の間に落ちている。
 刹那、風船が破れたような破裂音と共に風が弾けた。
 見ると、香蘭と紅玉の立ち位置は入れ替わっている。そして、香蘭の二の腕の辺りが拳大に赤く腫れ上がっていた。
「ふふふふふ」
 嬉しそうに、紅玉が笑う。
「どうしたの事、母上」
「腕を上げましたね、香蘭」
「本当、本当の事、母上」
 今まで、緊張感で引き締まっていた香蘭の顔が、曇り空から日が差し込んだように明るくなる。
「ええ、本当ですよ、香蘭。ですけれど」
 紅玉は、にっこりと笑い。そして……。
「えっ?」

 ずだん

 香蘭は胸元に瞬間移動したかのように飛び込んだ紅玉によって、悲鳴を出すまもなく床に叩きつけられた。
「油断大敵ですよ、香蘭」
「は、はいのこと、母上」
 香蘭は、上下逆さに見える紅玉に向かって真面目に頷く。
「では、今日の朝稽古はこれぐらいにしましょうか」
「はい、のことよ、母上」
 こてんと、香蘭は起上がり小法師のように立ち上がって、紅玉に一礼をした。
 二人が稽古をしていた建物は、紅玉の道場兼住居だった。まだ、兵士達の間でしか知る人間はいないが、紅玉は将来的には大陸にいた時のような道場にまで育て上げたいと考えていた。
「お城に行くのですか、香蘭」
 稽古を終え、家に入るや何やらいそいそと身支度を始めた香蘭を横目に、大陸風の机で忌瀬特製のお茶をすすっていた紅玉が何気なくその尋ねた。
「違うね。今日は休み。音羽と買い物に行くよ」
「そうですか、御迷惑をかけないようにね」
「わかってるね」
 紅玉の注意に、香蘭は元気よく返事を一つすると飛び跳ねるように家から飛び出していった。
「さて……」
 香蘭が視界から消えたのを確認して、紅玉はお手製の茶飲みを置くと決然と立ち上がったのだった。

「今日はごめんの事、つきあってもらって」
「あぁ、いいんですよ。別に用事があった訳でもないし」
 魏服の香蘭と、さすがに甲冑は着てはいないものの大柄な音羽が並んで町中を歩いていると、鴉の中に白鳥が混ざり込んだかのように目立った。
 日頃から、そのたわわに実った胸と魏服で好奇の目には慣れっこになっている香蘭は大して気にはならないのだろう涼しい顔で歩いている。だが、音羽は道行く人という人が、必ず振り向くのが気になるのか恥ずかしそうに必要以上に体を縮ませて歩いている。
 音羽は昨日、香蘭の指揮する軍の演習が終わった後香蘭に呼びとめられ、買い物の付き添いを頼まれたのだった。
 音羽にしてみれば、なんで自分が?という疑問はあったのだが、どうにも香蘭の様子を見る限り特別に音羽を選んだというよりは、なんとなく最初に会ったからという甚だ積極性に欠ける理由によるものらしかった。
「でも、どうして九峪様に贈り物をするんですか?」
 香蘭が九峪に対して積極的にアプローチをかけていくとは、日頃の姿を知る音羽にはとても思えなかった。
「香蘭、この間の誕生日に贈り物、もらったね。だけど、忙しくてまだお返ししてないの思い出したね」
「はぁ、そうですか」
(まめね〜、九峪様)
 とにかく女性にはまめな九峪の顔を思い出し、音羽は苦笑をもらした。
(でも、誕生日の贈り物にお返しっているのかしら……)
 自身も九峪から贈り物を貰った身の音羽としては、何となく腑に落ちないし落ち着かない。
「だから、お返ししないと駄目だって、母上が言ったね」
「なるほど」
 母上が言った、という一言で合点がいった音羽だった。
「……泣いてる」
 不意に、香蘭の歩みが止まる。
「えっ、どうしたの、香蘭様」
 音羽には、周りの騒音で泣き声などまるで聞こえない。だが、香蘭の顔は真剣そのものだ。両目をつぶり、その場に立っている。
「ごめんの事、私、行くね」
 香蘭は、訳がわからずおろおろしている音羽に深深とすまなそうに頭を下げた。
「ちょ、ちょっとぉ、香蘭さま〜」
 そして、音羽が声をかける間もなく魏服を翻し垂直に跳び上がった。そして次々と他人の家の屋根を因幡の白兎のように飛び移り、あっという間に音羽の視界から消えていってしまった。
「あぁ、もう。九峪様に何か差し上げるんじゃないんですか〜」
「すみません、音羽さん」
「うわぁ、えっ、紅玉さん」
 音羽は、突然音も無く隣に現れた紅玉に驚きの声をあげる。
「あの子には、よく言っておきますから、それでは」
 紅玉はそれだけ言って、頭を下げると香蘭より遥かに優雅な動作で軽々と家の屋根まで跳びあがると、こそこそと地面を歩く人々をあざ笑うかごとく、あっという間もなくその姿を消してしまう。
「ちょっちょっと、紅玉さ〜ん。あぁ、もう」
 その場に一人残された音羽は、その後いつの間にかできあがった野次馬の山を顔を真っ赤に染めて掻き分ける事になったのだった。

(まったくもう、あの子ときたら)
 次から次へと屋根を飛び跳ねて行く香蘭を、紅玉はもの音一つたてず追って行く。
(どうして、こういう事になったのかしらね、まったく)
 紅玉としては、今の事態は計算違いもいい所だった。
紅玉にとって、香蘭が火魅子になれなかったのは無念としか言いようがなかったが。正直な話、復興半ばで火魅子戴冠は諦めていた所もあった。だからこそ、紅玉の狙いは九峪に絞られていた。
 大陸から渡って来た二人に頼りになる後ろ盾は無いに等しい。その香蘭にとって神の御遣い九峪こそ、この耶麻台国に力を持つには最適な婿なのだ。
 ……なのだが、紅玉の頭を一番悩ますのが当の香蘭本人だった。香蘭が九峪に好意を持っている事は間違い無いのだが、それが所謂恋愛対象としての好意なのかどうかという事になると、母親ながら紅玉にもまるでわからなかった。
(……本当に、あの子はどう思ってるのかしら)
 ぴょんぴょんと軽快に突き進む香蘭の後ろ姿を眺めながら、紅玉は人知れず溜息をつくのだった。

 香蘭と音羽がいた中心部からニ区画ほど離れた所で、歳の頃は五六歳の汚れた服を着た女の子が道の端に座り込み泣いていた。その女の子の前を多くの人が歩いて行くが、足を止める人もその子の親らしき大人もいない。
 戦火の中生まれた孤児は多く、その孤児を受け入れる事ができるほど余裕がある家もまだまだ少なかった。その為、こういった光景は特に珍しいものではなかった。
「うえぇぇぇぇぇぇ、っひく」
 突然、泣いていた女の子の鳴き声がしゃくりあげたように止まる。その代わり、女の子の両目は大きく見開き、口はぽかんと開いたままで閉じる事をすっかり忘れたようだった。
 だが、目の前にいきなり人が落ちてくれば、誰だってそうなるかもしれない。
「大丈夫」
「おね、えちゃん、何?」
 人に物を尋ねるには甚だかけ離れた質問だったが、女の子には他にどう聞けばいいのかわからなかった。
「私? 私は香蘭言うね。あなたは?」
「わたしは、喜美って、うっ」
 女の子は、目の前に悪魔かお化けかのように現れたこの世のものとも思われないような(主に胸)美人のお姉さんが曲りなりにも自分と同じ言葉で喋り、笑っている事に安心したのだろう。自分の置かれている状況を思い出したのか、また両目に涙が溢れ出してきていた。
「泣いちゃだめよ」
 だが、香蘭は今までのにこやかな笑顔を剥ぎ取って厳しく彼女をたしなめた。
「えっ」
「泣いたって、良い事一つも、ないね。笑うが良いよ」
「でも、でも」
「ほら、昔から言うね。「笑う門には、河豚来たる」って」
「ふぐ?」
 香蘭は見事な胸を張って、自信満々にそう答えるが、喜美は何がなんだがわからないと泣く事を忘れてぽかんと香蘭を見つめ返した。
(違うでしょう、福でしょう、ふ・く)
 そんな二人を少しばかり離れた所に降りた紅玉は頭を抱えながら突っ込む。
 無論、紅玉は二人のやりとりを始めから全て見ていた。
 紅玉としては隠れる必要は無いわけだが、今まで隠れて香蘭の後を尾行していた身としては何となく出づらくなってしまっていた。
 香蘭は、大陸にいた時から道場という大所帯の中で暮らしていた。その中で、昔から年下の子の面倒をよくみていた。ただ、その時と今では何もかもが違っている紅玉は不安で何度か二人の前に飛び出しかけていた。
(……もう少し、もう少しだけ見ていましょう)
 紅玉はその場から動かなかった。不安よりもっと別の感情が足を前に出すのを躊躇わせていたのだった。
「そうよ、河豚おいしものね」
「そ、そうなのかな?」
 幼心にも何となく納得いかなかったののだろう、喜美は曖昧に頷いた。
「そうよ、間違い無いね。で、どうしたの?」
「あっあのね、その」
 喜美は、何とかして自分の現状を話そうとしているのだが、気が急くのだろうまく言葉にはならない。
「落ち着いて、喋るが良いね。香蘭も、倭国語苦手だけど、落ち着いて喋ると、まだ良いね」
(……わかってはいるようですね。でも、どうして実践できないのかしら)
 紅玉としては、香蘭の自覚ぶりを喜びたい所だったが、自覚しながらまだまともに喋れない現状を顧みると自分の教え方が悪いのだろうかと一人悩まないわけにはいかなかった。
「う、うん。あのね、お母さんがね、ここで待ってなさいってね、言ったの。でもね、いつまで待っても帰ってこないの。だからね、喜美ね。お母さん探そうと思ったんだけどね。道がわかんなくなっちゃってね、だから……」
「そ、それは、大変ね。母上いなくなるの、とても、とても大変な事」
 話を聞いていた香蘭の顔が我が事のように真っ青になる。香蘭にしてみれば、お母さん=紅玉がいなくなるという事は、ほとんど世界の崩壊に近い。
「うん」
「香蘭も探すの手伝うよ、大風呂に入ったつもりで安心するね」
「ありがとう、お姉ちゃん」
(大船でしょう、お・お・ぶ・ね)
 今まで、見ず知らずの幼い女の子に対する接し方を見ていて、我が娘の成長ぶりを嬉しい気分で眺めていた紅玉は思わずうめいた。
「どうしたの、お姉ちゃん」
「な、なんでもないね、ちょっと寒気がしたね」
 離れていても紅玉の殺気には気がついたのか、香蘭は身を震わせて辺りを見渡す。もっとも、その時には紅玉はあっという間にその殺気を消して、その姿態を物陰に隠していた。

 それから奇妙な二人(本当は三人なのだが)ずれの母親探しが始まったわけだが、三十分ほど城下町を探し歩いても残念ながら何の成果もあげる事はできなかった。
 香蘭の足を持ってしても、耶牟原城は嫌というほど広い。その上、喜美の足に合わせなければならないとなれば、その行動範囲はたかがしれたものだった。
「う〜ん、いないの事ね」
「ごめんなさい」
「うん、どうしたの事、喜美?」
「だって、私お姉ちゃんに迷惑かけてるし」
「気にしなくていいね、九峪様も言ってたね。味方は九洲の民だって。だから、民が困ってたら助けるのは当然の事よ」
「ありがとう、お姉ちゃん」
「良い事よ」
 喜美は香蘭の言葉に勇気づけられたように、また歩き始めた。だが、それも長くは続かなかった。実際の所体力も残り少なくなっていたのだろう。 
「……私、捨てられたのかな」
 喜美は、ぼそりとそう呟くとその場にへたり込んでしまった。
「そんな事無いね、喜美の母上が喜美を捨てるなんてありえないね。そんな事言っちゃ駄目の事よ」
「だって、だってね。家のお父さん、戦争で死んじゃって、里も無くなっちゃったし……」
「そんな事大丈夫ね、母上がいるもの」
 自分の母親を疑うような事を言ってたしなめられたのが恥ずかしいかったのだろう喜美は、何やら言い訳めいた事をぶつぶつと呟いた。もっとも、香蘭はそんな喜美の不安など一瞬で蹴散らさんばかりの、自信満々な態度であっさりと一蹴してみせた。
「本当?」
「本当の事よ、間違い無いね。香蘭も、父上いないね」
「お姉ちゃんも」
(……香蘭)
 二人の様子を不安一杯で見守っていた紅玉の表情が、香蘭の一声でさらに曇る。
「そうよ、香蘭の父上、病気でなくなったね」
「悲しかった?」
「当たり前よ、香蘭父上の事大好きだったから。……喜美、これから言う事他の誰にも言っちゃ駄目の事よ」
「……うん」
 香蘭の真剣な表情に、喜美が緊張した様子で頷く。
「本当に、本当の事よ。これ母上にも言ってない事ね」
(何ですって)
 思わず紅玉の体が前のめりになった。ちなみにそのせいで、体を隠していた屋台の柱が嫌な音をたてた。
「うん、約束。指きりしよう。……お姉ちゃん、指きり知ってる?」
「もちろんの事、破ったら蟻百匹呑ませるね」
「違うよ〜、は・り、針だよ」
(こ・う・ら・ん〜、あんたって子は……)
 迷子の女の子に真面目に諭される香蘭を見て、紅玉はもう情けないやら口惜しいやらで思わず掴んでいた屋台の柱を小枝のようにあっさりと折ってしまった。
「あぁ、あんた何をするんだ」
惨めに潰れた屋台の親父が、悲鳴交じりの抗議をする。
「静かになさい、あとで弁償しますから」
 紅玉の一喝に、親父の体は一瞬硬直し潰れた屋台同様にその場に崩れ落ちる。もちろん、紅玉はそんな些細な事には目もくれなかった。
「ああ、そうか。針ね、けど針を百本も呑むの大変。指きり大丈夫?」
「大丈夫、喜美約束守るもん」
「そうね、じゃあ、指きりの事」
「うん、指きりげんまんうそついた〜ら、針百本の〜ます」
「指切ったね」
 香蘭のすらりとした指と、喜美の小さな指が絡み合い、離れる。それはそれで、実にほのぼのとしたいい光景なのだが、童女と同レベルで付き合う娘を見せつけられる母親の身としては、それをそのまま受け入れられるものでもない紅玉であった。
「これで、大丈夫だよ」
 お互い嬉しそうに笑い合うと、香蘭は喜美の耳に口を近づけて呟く。
「そうね、じゃあ言うよ。……実は香蘭、母上より父上の方がずっ〜と好きだったね」
「……それだけ?」
 喜美が拍子抜けしたような声を出す。それは紅玉にしても同じ気分だった。ずっ〜との部分に少しばかり引っかかるものがないわけではないが、紅玉はこの程度で怒ると思われるのは心外の極みだった。
「そうよ、誰にも言っちゃ駄目の事よ。もし、母上に聞かれたらきっと香蘭怒られるね」
「う、うん」
(わ、私は、香蘭に厳しくしすぎたのかしら……?)
 香蘭のあくまで真剣な表情を見ていると、自身の教育方針について悩まないわけにはいかない紅玉だった。
「父上死んでから、香蘭ず〜っと泣いたね。もう、何もしたくなくて、拳法も休んだね。そうしたら」
「そうしたら?」
「母上に、怒られたね。猫みたいに、掴まれて道場に放りこまれたね。そして、無理矢理拳法をやらされたね」
 紅玉もその時の事を忘れた日など無かった。紅玉自身夫の最後の言葉、この耶麻台国を復興させて欲しいという一言が無ければ、香蘭と同じように呆然と腑抜けのようになっていたかもしれないと思う。
「ひどい」
「それ、違う。ひどかったのは、香蘭ね。母上言ったよ、「香蘭、あなたは父を亡くした上父上から頂いた誇りまで失うつもりなのですか」って」
(……香蘭、あなたはちゃんと覚えてくれていたのですね)
 紅玉にとってあれは半ば自身に向かって言った言葉だった。
 あまりに遠く、見た事もない国を復興させるという途方も無い目標を前に萎えようとする自身の心に向かってのものだった。
「本当の事言うと、香蘭にもよくわからなかったね。どうして、泣いてるのが誇り、無くす事になるのか」
「でも、母上と拳法やってて、香蘭思い出したね。香蘭の拳法を嬉しそうに見ていた父上の事、父上の言った事」
 香蘭は、父親の顔を思い出したのだろう。何やら遠くを見ながら微笑む。
 香蘭の思い出の中の父が優しい顔をした人だとすれば、紅玉の思い出の中に生きる夫はまた別の顔を持っていた。
「何て言ったの?」
「それは言えないね、香蘭と父上だけの秘密だもの」
(秘密、そうあの人は胸に私に秘密を抱えていた)
 何か例えようも無いほどの穴を身の内にぽっかりと開けた人。
 それが、紅玉が最初夫と会った時に抱いた印象であり、それは夫が亡くなるその瞬間まで変わらなかった。
 滅びようとする故郷を捨てた後悔、王族として守るべき国も民も置き去りにして逃げ延びたという罪悪感。夫はそれを常に持ち続けていた、誰にも話さず、一人で。
 紅玉はそれを何とかしてあげたかった、夫がそれを望んでいなかったとしても。
「ずるい」
 喜美は不満そうに、口を尖らせる。
 紅玉は喜美の可愛いらしい姿に、香蘭の幼かった頃の姿を重ね合わせていた。香蘭が生まれて、夫の姿は少し力強さを増した様に紅玉には見えた。もっとも、それで穴が塞がった訳ではなかった。
「ごめんね、けど言えないね」
「う〜ん、良いよ。私にもお父さんと約束した事あるもの」
(あの人は香蘭に約束という形で、私には願いという形で無くした誇りを託してくれた……)
 紅玉は、夫の無くしたものを「誇り」だと感じていた。
 幼い頃から拳法家として育てられた紅玉は同時に、拳法家としての「誇り」、教えられた拳法の技への「誇り」を叩きこまれていた。だから、それを根こそぎ失っていた夫の姿を敏感に感じ取っていた。
 だからこそ夫が最後の最後に自分達に耶麻台国復興を託してくれた時、紅玉は即断したのだ。もし失敗し、何もかも失ったとしても夫の誇りを取り戻せるならそれでいいではないかと。
「そうかね、じゃあ、もう一度探そうか」
「うん」


火魅子伝 外記 紅玉伝 ニ話 Ver.1.23

だが、どれだけ二人の意気込みが上がろうが、耶牟原城の中からたった一人の人間の姿を追い求めるというのは簡単な事ではなかった。
 いたずらに時間だけが過ぎ、紅玉にもじりじりとした焦りが生まれ始めていた。香蘭はともかく、喜美は明らかに精神的にも体力的にも限界なのは遠目にも明らかだった。二人の探索を中止させるなり、手伝うなりする決断を迫られていた。
 その時、不意に目の前を歩いていた二人の足取りが止まった。
「何かあっち騒がしいね」
「そうだね、行ってみようよ、お姉ちゃん」
「そうね」
 紅玉と喜美の20〜30メートル先で何やら人の騒ぎ声が聞こえてきていた。それは徐々にではあるがこちらに近づいてきてもいるようだった。
「こら、このあまぁ」
「そろそろ、観念してもらおうか」
 見ると、痩せたのっぽの男と太ったちびの男の二人組みと、少し離れて地面に倒れこんでいる中年のみすぼらしい姿の女性を中心に人の輪が出来ている。
 二人組みの男性も、女性も息が荒く、汗をかいている所を見ると三人は先程まで何らかの理由で追いかけっこをしていたが、逃げていた女性の体力が尽きてついに追いつかれたといった所だろう。
「喧嘩ね?」
 どこかわくわくと嬉しそうな声を出す香蘭だった。
「あっ」
「どうしたね、喜美。飛び込んだら危ないよ」
 突然、駆け出した喜美を香蘭が後ろから抱きかかえて止めた。だが、喜美は駆け出そうとする意思を無くさず、香蘭の腕の中で散々に暴れる。
「離して、お母さんが」
「あれ、喜美の母上の事?」
 香蘭は、喜美と今や二人組みのちびの方に右腕を取られ無理矢理立たされそうになっている女性の顔を見比べた。確かに、少し垂れた目元や、特徴的な小さな口元が似通っている様に見えた。
「うん、助けなきゃ、お母さんが」
「わかったのこと、ここは香蘭に任せるね」
「えっ」
 香蘭の言葉に喜美が驚いた時には、体を押さえていた柔らかい感触はなくなっていた。香蘭は、ひとっ飛びで野次馬達を飛び越えると、鷲が獲物を捕らえるように音も無く二人組みの前に降り立った。
「やめるね」
「……なっ、なんだ、なんなんだ、手前、……邪魔する気、ですかい」
 最初は威勢のよかった痩せ男の口調は、香蘭の胸に引き寄せられて下がる視線と共にトーンダウンする。
「……兄貴、鼻の下伸びてますぜ」
「うるせい」
 的確なちびの突っ込みに、痩せ男が頭をぴしゃりと叩く。
「喜美の母上、いじめる、香蘭許さないね」
「はっ?」
「いじめる?」
 二人の男が、香蘭の言葉にぽかんとした顔をする。
「あっ、あのう、違うん」

「問答無用ね」

「えっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁ」
「あ、あに、ぐえっ」
 一瞬だった。二人組みの長身の男が気がついた時には、魏服の裾を翻し香蘭の廻し蹴りが男の体を綺麗に吹き飛ばした。そして、一瞬の間も開けずもう一人の背が低い男の腹に香蘭の右拳が綺麗にめり込まれ、まるでその場で土下座をするような形で崩れ落ちた。
「ふぅぅぅぅぅ、大丈夫」
「いえ、その、はい、私は大丈夫ですけど」
 香蘭の言葉に、無様に倒れている二人を見ながら何故か困ったように喜美の母は答える。
「おかあさ〜〜〜ん」
「えっ、喜美」
 やっと思いで野次馬の壁を通り抜けたのだろう、喜美が髪をぼさぼさにして母親に抱きついた。喜美の母は状況をまるで飲み込めないのだろ呆然と抱きついて来た喜美の頭を撫でた。
「よかったね、これで解決ね」
 野次馬を含めて、その場のほぼ全員が呆然としている中、香蘭だけは抱き合う親子を見て、満足げに微笑んだ。
「そんな事、あるわけないでしょう」

 ずばこんんんんんんんんんん

「ふ、ぎぃ」
 紅玉に覇璃扇で後頭部を叩かれ、香蘭は潰された蛙のように四肢を伸ばした情けない姿で地面に倒れる。
「お、お姉ちゃん」
「あっあ、ああ」
 喜美は香蘭にすがりつくが、母親の方は突然立て続けに起きた事態に対処できないのだろう呆然とその光景を見る事しかできなかった。
「まったくもう、この子と来たら。見境無く拳法を使うなんて」
「母上、なんでここに」
 香蘭は、よほど痛かったのだろう後頭部をさすりながら目に涙を溜めて立ち上がりながら、素朴な疑問を口にした。だが、紅玉はその質問には答えず、反対に香蘭に顔を近づけて語気を強めた。
「まったくもう、確かにあの人は「いかなる時も堂々と胸を張り、前に進んで欲しい」とは言いましたが。それは、見境無く突っ走れという意味ではありませんよ、香蘭」
「は、はいの事、母上」
 紅玉の言葉に、香蘭は背筋がぴんと伸びる。
「母上」
 喜美が目の前の香蘭と紅玉を代わる代わる見ながら、驚いて声を上げる。
「まったくもう、もう少し行動は慎重に行いなさいと言ったでしょう。仮にもあなたは王族の一人なのですから」
「は、はいの事」
「「王族」」
 今度は、喜美親子を含めて野次馬からも間の抜けた声が一斉に起きた。
「あなた、お名前は?」
「は、はい、冨美と申します」
 不意に紅玉に名前を尋ねられた冨美は、思わずその場で正座して答える。
「そう。ね、冨美さん。いくら生活に困ってるとはいえ、人様の物に手を出すのは感心しない事ね」
 紅玉は、少し離れている所から見ていたため冨美が胸にずた袋を抱えているのを見逃さなかった。
「す、すみません」
「えっ、母上、どういう事ね」
「お母さん」
香蘭の疑問と、驚いて母親を見る喜美を紅玉はあっさりと無視すると、地面に伸びている二人組みを指差した。
「いいから、香蘭。そこに伸びているお二人を起こしてあげなさい」
「はいの事」

「ふん」

 香蘭は、まだ目を廻している男二人に気づけをした。
「ぎゃああ、あれ、ここは」
「ぎぇぇ、は、腹が……」
「起きたか」
「ひぃぃぃぃぃぃ」
「命ばかりは、お助けを〜」
 二人とも香蘭の顔を見た途端、山で熊に出会った旅人のような悲鳴を上げて情けない姿のままあとずさる。
「ごめんの事、香蘭事情まるで知らなかったね」
「はっ?」
「どういう?」
 事態がまるで呑みこめないのだろう深深と頭を下げる香蘭をぽかんと見つめる。
「お二人さん」
「えっ、は、はい」
 呼びかけられて振り向いた瞬間、二人の鼻の下がまた一段階だらりと下がる。
「……兄貴、また鼻の下伸びてるッす」
「うるせい」
「これを」
 紅玉が二人に冨美が持っていたずた袋を差し出した。
「えっ」
「あ、兄貴、これ」
「この人の取ったものはお返しします。どうか、この場はこれで手を引いてはもらえませんか」
 そう言いながら、紅玉はにこりと魔人すら虜にするような笑みをしてみせた。
「「は、はぁい。もちろんで〜す」」
 先生に誉められた生徒のように二人組みは顔をほころばせ、にこにこと手を振りながらその場を後にした。
「さて、後は冨美さんですね」
 紅玉がそう言った瞬間、冨美の体が硬直した。母親に抱き着いていた喜美もそんな母の変化を敏感に感じ取ったのか、一緒になって脅えている。
「母上」
 そんな二人を見て、さすがに不安になったのだろう香蘭が紅玉に何か言おうとしたが、紅玉の一瞥で黙り込んでしまった。
(……大丈夫ね、大丈夫。きっと、母上ならわかってくれるね)
 その代わりのように香蘭はすがりつくような視線で、紅玉を見つめた。
「あなたがやった事は犯罪です、わかってますね」
「……はい」
 そんな娘の思いを無視するかのように紅玉の言葉も態度も冷たく硬い。そんな紅玉に冨美も諦めたのか、ただ頭を下げた。
「本来なら、あなたは警邏の方に引き渡さなければなりません」
「母上」
「……ですが、今は仕事が多く警邏の方もてんてこ舞い状態なのです」
「えっ」
 紅玉の言葉に、香蘭の顔がほころぶ。
「ですので、今回に限り耶麻台国王族の名にかけて私どもがあなたの身柄を預かることにします。いいですか」
「は、はい」
「喜美、来るね。香蘭が、家紹介するね」
「うん」
「……まったく、あの子ときたら」
 喜美を抱きかかえて、我が事のように喜ぶ娘を見て紅玉は頭を抱えた。だが、同時にこれでいいのだろうとも、紅玉は思う。一歩一歩前には進んではいるのだから。
(……でも、あなた見ていてください。必ずや、喜美ちゃんに負けないよう倭国語を勉強させますから)
 亡き夫に改めて、香蘭の倭国語勉強をさらなるスパルタにする事を誓う紅玉だった。

「喜美、私の言った通りになったね、母上がいれば大丈夫ね」
「うん、お姉ちゃん、ありがとう」
 喜美の手を握りながら香蘭が無邪気に微笑む、母の愛と父の誇りを胸に抱きながら。


                            〜完〜

 後書き座談会

「懲りずに五回目の投稿になります、高野です。今回のはいかかでしたでしょうか?」
「は〜い、このSSの良心日魅子で〜す」
「いや、あの、良心って……」
「あら、あら、何か問題でもあるのかしら?」
「いえ、何もありません」
「もう、ちゃちゃっと話進めるわよ」
「はい、ところで〜」
「なに?」
「聞くのが怖いんですが、九峪君は?」
「九峪。あそこにいるわよ」
「へっ、いるんですか。あぁ、確かにいますね、って。なんで部屋の角に向かって体育座りしてるんですか?」
「さあ? 知らないわよ、そんなの」
「はぁ、とにかく呼んで来てもらってもいいですか」
「いいけど、私じゃないほうがいいと思うわよ」
「どうしてですか?」
「まぁ、行けばわかるでしょ」
「はぁ……。お〜い、九峪君。もう後書き始まってるんですが。……無反応ですね」
「もう、仕方ないわね。ほら、九峪」

「ひいぃぃぃぃぃぃぃっぃぃ。やめて、ぶたないで、もう出番なんていらないから。主役なんてもういらないからぁぁぁぁぁぁっぁ」

「あっあのう、九峪君?」
「いやあねぇ、軽いノイローゼですって、これだから都会育ちは」
「いや、あの、あまり都会育ちは関係無いのでは、それに九峪君って都会育ち何ですか?」
「うるさいわねぇ。とにかく、本題にいきましょう」
「ええっと、確かに何言っても無駄だと思うんで、本題に入りましょうか」
「かる〜く反抗的ね、高野。まあ、いいわ、で今回はどうなの?」
「えっ、え〜と、どうと言われましても」
「あぁ、もう、フィ〜リングで答えなさいよ、フィ〜リングで」
「ふぃ〜りんぐ、ですか。ええっと、今回はですね、今まで書いてきたものが長いというか地の文が多かったじゃないですか。それに、話そのものも少し暗いものだったでしょ」
「少し?」
「い、いや、まあ、で、今回は短く軽い話を書いてみようかと思ったんですけど」
「短かくねぇ……」
「うぅぅぅ、そんな目で見ないでください。見直しをしていたら、何時の間にかこんな風になってしまったんです」
「まぁ、あんたは海より深く反省してなさい、で次は」
「いえ、これで今回は終わりです」
「はぁ、えらく短いじゃない」
「えぇ、本編が短くならなかったので後書きぐらいはという事で。
 という訳で、雁山さん、けいさん、HAL93さん、今回もありがとうございました、次があったらまたよろしくお願いします。友人ズもピースでサンクス、君等は次回もこき使いますからよろしく。
 舞阪先生、書かせていただきました。すみません、そしてすばらしい設定ありがとうございました」
「勝手に借りといていまさら……」
「すんません、すんません。という訳でじゃあ、また」
「ちょっと、待って」
「な、なんです。……え〜と、その手に持ったバットは」
「いや〜ねぇ、今回はオチがないじゃないの。だから、少し協力してあげようかと思って」
「い、いや、そんな強引なのは、ちょっと」
「大丈夫、いた〜く、ないから」
「うそだ〜」
「九峪」
「はい」
「えっ、九峪君。なんで羽交い締めなんて」
「一緒に堕ちよう、高野。日魅子をこんな性格で書いたお前も悪いんだ」
「そ、そんなのいやだ〜〜〜〜〜」
「うふふふふふふふふ、だいじょう〜ぶ。あんたが九峪のようになったら後書きは私がしっかり一人でやってあげるから」
「ぜ、ぜったい、確信犯だ、確信犯、た、たすけて〜〜〜〜」

「うふふふふっふふうっふふうふ」

                            〜完〜